丸谷才一『笹まくら』
金銭的理由はともかく、むしろ保管スペースがないことから極めて貧しいわたしの蔵書の中に、たまたま丸谷才一の文庫本が四冊混ざっている。
今回は、その中から『笹まくら』(新潮文庫)をとりあげる。
この本をいつ読んだのかまったく覚えていない。あるいは読みかけて放り出してしまったのかもしれない。
幸いなことに、今は、そういった放置されていた本とじっくり向き合う時間がある。
時間はあるが、一方で残された時間を無駄にできないという想いもある。
読んだことをなるべく忘れずにいたい。忘れないだけでなく、できればそこになにか意味を見いだし、読んだという痕跡を残したい。
たぶん、そのような動機から拙い読書記録を綴っている。
「読んだという痕跡」を残す。
しかし、それはネット空間という外部に残すことが目的なのではなく、そのような行為をとおして自分の中に「痕跡」を残したいのだと思う。
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『笹まくら』(1966)は丸谷才一の約五十年にも及ぶ創作活動の最も早い時期に書かれた。
『年の残り』(1968)で芥川賞を受賞する前の作品だが、そのような「新人」作家による小説とは思えないほど、技巧を凝らし、実験的要素をちりばめながら、なおかつ完成度のひじょうに高い作品である。
丸谷は、すでにジョイスの研究者として1963年に翻訳・刊行された『ユリシーズ』の共訳者に名を連ねていた。その影響だろうか、この小説では、主人公のモノローグが地の文と混然一体となり現在と過去を縦横無尽に往還する、いわば「意識の流れ」のような語りの手法がとられている。
そうした複雑な文体でありながら、ぐいぐいと物語の世界に引き込まれた。
その圧倒的な「読ませる力」の鍵は、やはり丸谷の類まれなストーリーテラーとしての資質にあるように思う。文句なしに面白い小説だ。
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主人公の浜田庄吉は徴兵忌避者である。
東京の町医者の子どもとして生まれた浜田は、二十歳のとき軍部隊に入営する前日に出奔し、以後全国各地を転々としながら、逃亡生活を送る。杉浦健次という偽名を名のり、高等工業学校卒の経歴を生かしラジオや時計の修理屋として、後には砂絵師として神社の縁日などで子どもたちに砂絵を売って生計を立てながら、終戦までの五年間を逃げおおせる。
それは紛れもない国家への反逆であった。杉浦はたえず国家権力の影に脅えて戦々恐々として暮し、ある土地では湯治する傷病兵たちと行き会いいたたまれない思いをしながら、一日たりとも気の休まるときのない日々を送るのだ。
終戦後、東京に帰った浜田は私立大学職員の身分を得て、大学理事の口ききで結婚もし、二十年間無難に勤め上げて課長補佐の地位についている。
戦時下で反体制派として生き延びた浜田は、戦後は一転して体制に取り込まれ、陽の当たる道を歩き続ける。
物語は四十五歳の浜田の日常を描きながら、浜田の回想という形で戦時下の杉浦健次の緊迫した逃避行をありありと描き出す。
戦後の何不自由のない充足した生活と戦前の人目を忍び日々の糧を案じる不安な生活。
だが、この小説の読みどころは、そのような現在と過去の明暗が見事に反転していくという展開にある。
浜田が課長に昇進するという噂が流れると、同僚の課長補佐の西が足を引っ張ろうとする。徴兵忌避という過去を持つ浜田に先を越されるのが我慢ならないのだ。
西の卑劣な工作が功を奏したのか、浜田の昇進は立ち消えになる。それどころか、浜田の過去があらためてクローズアップされたことで、大学当局は逆に浜田を厄介払いしようとする。浜田は地方の附属高校への転任を打診される。
不思議なことに浜田が窮地に陥るにつれ、逆に浜田の回想における逃避行の日々は生き生きと精彩を放ち始める。ラジオの修理屋であれ、砂絵師であれ、いずれにしてもおのれ一人の知恵と才覚でしたたかに生き抜く日々。
砂絵師として身分を偽る杉浦は、逃避行のさ中に宇和島の質屋の娘と出会い恋に落ちる。その描写は、二人が若かったということもあるが、みずみずしい抒情にあふれ、生の喜びを謳歌するようですらある。
注目すべきことは、浜田の徴兵忌避という過去が、体制の転換を経た戦後においてもなお異端視される事柄であるということだ。
かつて国家に反逆したという「烙印」から浜田は決して逃れることができない。徴兵逃れという過去は亡霊のように浜田にまとわりつき、浜田の足をすくう。自身が背負う「烙印」によって、浜田は戦後の社会においても「異物」とみなされるのだ。
それほどにも、国家という観念は人間のこころに重たく巣くっている。
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実際に、「国家」とはなにかという問題は、この小説の重要なテーマである。
小説の終盤で、徴兵を目前に控えた若き日の浜田と親友の堺とが国家について議論を交わす場面が描かれる。
堺は「国家というものの真の目的は戦争である」と論ずる。
浜田が「なぜ、国家の目的は戦争なんだろう?」と聞くと、堺は「戦争が最大の浪費だからじゃないか。資本家は利潤のために浪費を願うし、その浪費が大きければ大きいほどいい。そして、国家というのは資本家のものだから」と答える。
堺の「国家ガス会社説」の対案として浜田が提示する議論も興味深い。
国家の真の目的が戦争であるとしたら、あるいはそもそも国家が無目的なものであるとしたら、いやそうではなくて、仮に国家になにか崇高な目的があるとしても、国家は人間が自らの自由を捧げ、たった一つしかない命を賭けるに値するものだろうか?
ウクライナで、あるいはガザで、人間はいったい何のために殺されているのだろうか?
もし国家のためであるとすれば、なぜ人間はそこまで国家にとらわれなければならないのだろうか? 国家への帰属、国家との一体感は人間にとってそれほどにも死活的な重大事なのだろうか?
*
小説の最後に、四十五歳の浜田に「とつぜん、まるで間違い電話がかかってくるようにして」気づきが訪れる。
国家に対する、社会に対する、体制に対する反抗と引き換えに、浜田が守ろうとしたものはおのれの自由であったのだ。
いつしか、わたしの頭のなかでは、ジョン・レノンの「イマジン」の一節が響いていた。
Imagine there’s no countries
It isn’t hard to do
Nothing to kill or die for
And no religion, too
……
※タイトル画像はスナフさんからお借りしました。ありがとうございました。
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