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カズオ・イシグロ『日の名残り』

この歳になって、またしても珠玉の小説に出会った。
カズオ・イシグロの『日の名残り』(土屋政雄訳、ハヤカワepi文庫)だ。
いかにも「いまさら」ではあるけれど……

『日の名残り』(原題:The Remains of the Day)は、ノーベル賞作家のイシグロの代表作であり、ブッカー賞を受賞した名作である。もちろん原作自体が素晴らしいことは疑いない。

しかし、翻訳で読んだ私にとって、『日の名残り』はイシグロの作品であると同時に、訳者の土屋政雄の作品でもある。
というのも、この作品の舞台であるかつての英国の階級社会や、そこに生きる人々が、あくまで自然で、なおかつ格調の高い日本語の文章によって生き生きと描き出されているからだ。
その翻訳の手際の見事さは驚くべきもので、まるで最初から日本語で書かれた作品を読んでいるように錯覚してしまいそうになるほどだ。

もっとも、土屋政雄氏の訳業のすばらしさについて、私などが余計なことをいうまでもない。たとえば、星野廉さんのたいへん興味深い記事がすぐに思い浮かぶ。

私がこの記事で書いてみたいのは、この作品の巧妙な仕掛けについてである。

『日の名残り』は一人称の語り手によって描写される。語り手である主人公の「私」は老境にさしかかった執事だ。彼は、階級社会である英国において、著名な貴族のお屋敷に勤め、戦前から戦後にかけて長く家政を仕切った、文句なしに一流の執事である。
戦後、主人のダーリントン卿が亡くなり、屋敷(ダーリントン・ホール)はアメリカの富豪の手にわたるが、ミスター・スティーブンス(というのが執事の名前である)はそのまま屋敷に残り、新たな主人に仕える。

広大なお屋敷のかなりの部分が閉鎖され、昔のように大きな行事が開かれることもなくなった一方で、多くの召使が屋敷を去って行き、ミスター・スティーブンスは、残った数名だけで家政を切り盛りすることに限界を感じ始める。
そんな折、かつて長く一緒に働いた女中頭のミス・ケントン(ミセス・ベン)の結婚生活が破綻しかかっていることを、彼女の手紙から読み取ったミスター・スティーブンスは、彼女を屋敷に呼び戻せないかと考える。

物語は、主人の一時帰国に合わせて休暇をもらったミスター・スティーブンス(=私)が、ミス・ケントンが住む英国西部へと向かう短い旅の道中を描きつつ、ミスター・スティーブンスの回想を随所に織り込み、過去と現在を効果的に往還しながら綴られていく。

私がいう「巧妙な仕掛け」は、「一人称の語り」という作品の形式に隠されている。

おおざっぱに、小説における一人称の語り手を二つに分類するとしよう。
ひとつは、物語の本筋からやや距離を置いて、いわば傍観者のように作品の世界を俯瞰的に描き出すタイプ(Aタイプ)であり、もうひとつは、自身が作品の主人公あるいは主要登場人物であって、物語の渦中から事件の内幕を開示していくタイプ(Bタイプ)である。
『日の名残り』における一人称の語り手のスティーブンスは、ほかならぬ作品の主人公であるので、Bタイプの語り手に該当する。
そこで、以下では、このタイプの語り手を前提として、話を進めることにする。

通常、読者は、語り手の目や耳や意識のフィルターを通して物語の世界と向き合うため、その語り手が主要登場人物であれば、自ずと、語り手に対して最も強く感情移入することになる。
また、作者としても、読者の同情や共感を最も惹きつけたいと意図する人物を語り手として設定するのが自然であるだろう。

そのように、作者は、語り手の位置に読者を立たせ、読者にその人物の喜怒哀楽、苦悩や緊張を共有させることで、読者に臨場感を与え、小説世界に強く引き込もうとする。
このため、一人称の語り手は、読者の「分身」ともいうべき存在である。

『日の名残り』の場合も、読者は、この約束事にならい、「私」ことミスター・スティーブンスに自身を重ねながら、この物語を読みすすんでいくのだ。

ところが、この作品では、語り手と読者との間の一体感に、すこしずつひびが入っていくように感じられる。

ミスター・スティーブンスの回想の主要部分をなす要素のひとつが、戦前のダーリントン・ホールでの華々しい日々である。
ダーリントン卿は、国際政治の裏の舞台で重要な役回りを担い、ヨーロッパ各国からそうそうたる顔ぶれを集めて屋敷で非公式会合を開催することもあった。
ミスター・スティーブンスは、ホスト役であるダーリントン卿を支えて、そのような重要行事を見事に取り仕切る。そのことが彼にとっては大きな誇りである。

彼は、一流の執事にとって最も重要な資質は「品格」であるという信念を持つ。彼にとっての「品格」とは、衣服のようなものであり、決して人前で脱いではならないものである。
ミスター・スティーブンスは、その信念にこだわるあまり、主人への忠誠を至上命題として、自分自身の「個」を顧みない。
そのような主人公のあまりにも生真面目で、紋切り型で、融通の利かない考え方に対して、読者は、しだいに、皮肉な、冷笑的な眼差しを向けるようになり、時には苛立ちや腹立たしさを感じ始める。
このようにして、語り手と読者との関係がほころび始め、そこにいわば緊張感が生じてくるのだ。

この緊張感は、語り手とミス・ケントンとの関係をも特徴づけるものである。

ミスター・スティーブンスの回想のもう一つの柱が、ミス・ケントンとの間のさまざまなエピソードである。
執事と女中頭の二人は、さまざまなあつれきを乗り越えながら、相互に信頼を深め、絆を強めていく。
やがて、ミス・ケントンは、ミスター・スティーブンスに思慕を寄せるようになり、彼の想いを推し量ろうと試みるのだが、執事としての「品格」を重んずる彼は、決して生身の感情を表に出そうとしない。
業を煮やしたミス・ケントンが「結婚して、屋敷を出て行く」と宣言しても、「心よりのおめでとうを申し上げます」というのみである。
それを聞いてミス・ケントンは「このお屋敷に十数年も務めた私がやめようというのに、それに対する感想が、そのそっけない言葉だけですか」となじるのだ。

この場面では、読者と語り手との間の緊張感はささやかなクライマックスを迎える。それは、とりもなおさず、ミス・ケントンとミスター・スティーブンスとの間の緊張感に重なるものである。大方の読者は(男であれ、女であれ)ミス・ケントンの側に立ち、彼女に強く感情移入することだろう。
ここに至り、読者の語り手に対する想いは、「この無神経で、石頭の、朴念仁ぼくねんじん(死語?)め」というようなものとなるのだ。

実は、ミスター・スティーブンスの西部への旅の主たる目的は、ミス・ケントンをお屋敷に戻るよう説得し、また彼女と一緒に働くことである。それは彼にとって、表向きは、雇人の人手不足の解消という執事の職責上の理由によるものだが、本心では、おそらく彼女とともに働いた日々への強い郷愁が彼を動機づけていることを、読者は察している。

そして、読者は、そのようなミスター・スティーブンスの目論見が、物語の最大のクライマックス、つまりミスター・スティーブンスとミス・ケントンの対面の場面において、手ひどく打ち砕かれるさまを予感し、期待すらするようになるのだ。

ついに、二十年ぶりの二人の対面が実現する。

案の定、ミス・ケントン(ミセス・ベン)と夫との関係はすでに修復されており、ミスター・スティーブンスの目論見はかなわず、読者の期待が裏切られることはない。それでも、二人の再会は、とても和やかであり、束の間、互いに昔の時間を取り戻したように親しく談笑する。
だが、バス停で昔の同僚を見送りながら、ミスター・スティーブンスの心は「張り裂けんばかりに痛」むのである。

小説は、ミス・ケントンとの対面後に訪れた海辺の町で、主人公がベンチに腰掛けて夕日に染まる海を眺める場面で幕を閉じる。そのベンチで、ミスター・スティーブンスは、たまたま隣に座った男と何気ない会話を交わす。

ミスター・スティーブンスが生涯をかけて忠誠を尽くしたダーリントン卿は、戦後、ナチの協力者というレッテルを貼られて糾弾され、失意のうちに世を去った。
そして、かつての主人を失って老境にあるミスター・スティーブンスは、もはや昔のような水準の仕事を続けていく気力も体力も残っていないことを、物語の最後で告白する。
そしてミスター・スティーブンスは、人目もはばからず泣きだすのだ。

「ダーリントン卿は悪い方ではありませんでした。さよう、悪い方ではありませんでした。それに、お亡くなりになる間際には、ご自分が過ちをおかしたと、少なくともそう言うことがおできになりました。卿は勇気のある方でした。人生で一つの道を選ばれました。それは過てる道でございましたが、しかし、卿はそれをご自分の意思でお選びになったのです。少なくとも、選ぶことをなさいました。しかし、私は……私はそれだけのこともしておりません。私は選ばずに、信じたのです。私は卿の賢明な判断を信じました。卿にお仕えした何十年という間、私は自分が価値あることをしていると信じていただけなのです。自分の意思で過ちをおかしたとさえ言えません。そんな私のどこに品格などがございましょうか?」

カズオ・イシグロ 土屋政雄訳『日の名残り』ハヤカワepi文庫 p.350.


ミスター・スティーブンスは、自らの人生の来し方を振り返り、その空しさやはかなさにようやく気がついたようだ。あるいは、もっと以前からすでに分かっていたのだろうか?
ここで、読者と語り手との間の緊張感はたちまち溶けてなくなる。読者は心から語り手に寄り添い、語り手とともに泣くのである。そして、読者は、涙とともに、感動とカタルシスに包まれる。

イシグロは、一人称の語りという小説の形式を巧みに利用して、あえて読者と語り手との間に溝をつくりだし、緊張を構築しておいて、最後にいっきに読者を語り手に寄り添わせ、読者を緊張から解放した。
このような心憎いばかりの物語の構成こそが、私が「巧妙な仕掛け」と呼んだものである。

そして、そのような作品の仕掛けを、訳者の土屋政雄は、上品で丁寧ではあるけれど、同時に格式ばった、感情を覆い隠したような日本語の語り口で、これ以上期待できないほど効果的に演出した。
きっと、土屋は作者の意図をちゃんと見抜いていたのだろう。
私にはそんなふうに思える。

*       *       *

丸谷才一は文庫版の解説で、この小説のねらいについて、ミスター・スティーブンスが忠誠を捧げた貴族階級の没落を描くことを通じて「大英帝国の栄光が失せた今日のイギリスを風刺してゐる」と指摘する。その上で、次のように述べている。

心に染み入るような、的確な批評であると思うので、最後に抜粋しておきたい。

……さういふ、敬愛といふよりはむしろ畏怖の対象である貴族への評価が次第に崩れてゆく、そのいはば公的な悲劇となひまぜにして、この従僕はまた私的な悲劇を持つ。女との関係を回顧して、自分が勿体ぶつてばかりゐて人間らしく生きることを知らない詰まらぬ男だつたといふ自己省察に到達するのだ。この公私両方の認識の深まり方につきあふのが『日の名残り』を読むといふことなのである。
 こんなふうに認識の深まり方に立会ふことは、普通あまり言はれてゐないけれど、小説の大切な味である。時として、主成分になる場合もあるだらう。たとへば『罪と罰』も『若い藝術家の肖像』も勘所はそれなので、その探究の一歩一歩が、古風な宝さがしの物語の一喜一憂に近い、いや、ひよつとするとそれ以上の、楽しさをもたらすことになる。もちろんドストエフスキーやジョイスの主人公は学生で、知的な資質においてスティーブンスを遙かに抜く。しかしイシグロはごく普通の男の人生論的探究、知の宝さがしを描くといふ放れ業をきれいに見せてくれた。

丸谷才一「旅の終わり」『同上』p.364.






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