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#84 キリスト教救世軍と山室機恵子【宮沢賢治とエミリィ・ディキンスン その22】

(続き)

○ キリスト教救世軍と山室機恵子

宮沢賢治の家の隣では、キリスト教プロテスタントの一派として慈善事業を行う「救世軍」司令官・山室軍平の妻、山村(旧姓 佐藤)機恵子が生まれました。機恵子は、賢治の父・政次郎と同級生で、機恵子の父・佐藤庄五郎は、機恵子の弟に「政次郎」と言う名前をつけており、両家の親しい関係が推察されます。

幼少期から優秀だった機恵子は、当時の女性としては珍しく、東京にあったキリスト教系の学校である明治女学院へ進み信仰に目覚め、卒業後、花巻に戻ることなく山室軍平の妻となります。

明治女学院では、津田梅子や島崎藤村、北村透谷などが講師を務めており、佐藤昌介の妹で、島崎藤村の「初恋」のモデルと言われる佐藤輔子も学んでいます。明治女学院は、機恵子が卒業した後の1909年に閉校となりましたが、同じくキリスト教系の学校として、1901年に日本女子大が創立されました。日本女子大には賢治の妹・トシが学び、トシが病気のために日本女子大の卒業式を欠席し故郷の花巻に戻ってきた際には、救世軍支援者だった西洞タミノが、卒業証書を届けるために花巻を訪れています。

日本女子大を設立したクリスチャンの成瀬仁蔵は、新渡戸稲造と交流があり、新渡戸と共に普連土学園の設立に関わっています。トシは成瀬から影響を受け、花巻に帰省した際には、トシや賢治や家族達は一緒に讃美歌を歌っていたとも言われます。

山室軍平や機恵子は、内村鑑三や斎藤宗次郎とも交流がありました。賢治の父・政次郎も、生涯を救世軍の慈善事業に捧げた機恵子を高く評価していたと言われ、機恵子の実家の佐藤家が北海道へ移住した後、敷地の一部は宮沢家が買い取っています。また、移住後に空き家となった、賢治の隣家である佐藤家には、東京にあるニコライ堂で有名なニコライ神父が一時的に宿泊したとも言われます。

(続く)

2023(令和5)年10月23日(月)

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