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命のコスパ-2053年の尊厳死- 第3話
終わりの後の生活
最初に訪ねたときに、話し込んでしまった詫びに、食事でもどうかと柴田さんを誘った。
一食浮いて助かる、と無邪気に言ってくれたので、おすすめの町中華に連れて行ってもらった。
JR蒲田駅の東口、飲食店が立ち並ぶ中の一軒だった。長くこの街にあるお店らしい。柴田さんが居着いた頃から続いているという。そうなるともう50年以上は営業していることになるだろう。入れ替わりの激しい飲食業ではかなりの老舗だ。
「最近はめっきり来なくなっちゃったけどね、美味しいね」
といいながら、好物だという炒飯を頬張る柴田さんは、こうしてみると本当にどこにでもいそうな人のいいおじいさんだ。
単品の料理をいくつか頼んでつつきあった。大振りな焼き餃子が、皮も餡も厚みがあって特に美味しい。羽もパリパリだ。
せっかくだからビールでもとすすめたが、固辞された。もうお酒は飲みたいと思わないそうだ。
「弱くなったのもあるんだけど、もう酔うのも疲れちゃうんだよね。飲んでた人もいなくなってねえ」
少し寂しげに笑う。昔はゲーム仲間と集まって飲むこともあったそうだが、ここ5年ほどはそういう機会もなくなってしまったのだそうだ。理由を聞いてみると、仕事が忙しかったり、体力がもたなかったり、病気だったり、との答えだった。
「僕なんかはまだ元気なほうみたいでね。まあ、5年も働いてないからかもしれないけどね」
そう言って今度は餃子を口に運ぶ。
仕事がなくなったというのは、先程も聞いた。これでも働いている身からすると、仕事は生活の大部分を占める。休みはもちろん羽根を伸ばすが、仕事がないというのはどういう生活になるのだろうか。学生時代に長い休みはあっても、年単位の休みというのはとったことがない。
「暇だよ。なんにもすることないからね」
餃子を飲み込んだ後、柴田さんはあっさりと言った。ぽかんとしていると、ウーロン茶を一口飲んだ後、続けてくれる。
「半年くらいはね、とにかく寝てたね。疲れてたしねえ。65まではデスクワークだったけど、それからのバイトは立ち仕事だったからね。もうしんどくてしんどくて。腰も足も肩も首も、もう全部痛いの。四十肩で肩あがらないしね」
これは本当に不便なのだと付け加えた。
半年。確かに休みとして楽しめる期間としてはそんなものだろうか。だが、柴田さんはその後4年と半年を過ぎている。
何をして過ごしているのだろうか。
「特になんにもしてないよ。ごろごろしてる。なにかするお金もないし、お金があってもしたいことってもう別にないんだよね。どうせ死ぬんだし」
最後にぽつっと零したその言葉が重い。ぐっと息を詰まらせると、ごめんごめん、と柴田さんが顔をくしゃっとさせて笑ってくれた。
「でも本当に、なんにもしてないんだよね。困ったねえ」
腕を組んで考え込んでしまっている。そんなことがあるだろうか。ごろごろしているといっても限度がある。筆者などは貧乏性なのか、休みは予定を詰め込みがちだ。遊ぶツテはいくらもある。
そこでふと気づいた。
筆者には、友人や家族がいる。仕事関係の人間関係もある。何かしら、すること――予定というのは、そうした人がいてこそのものだ。大抵の人はそうではないだろうか。もちろん一人で過ごすこともある。一人でやりたいこともある。
だが、それだけで5年も続くものだろうか。考えたこともなかった。そんな状況になったことがない。
知らないのだから、教えるのが難しいというのなら、見てみるしかないのではないだろうか。見せてもらえないだろうか。
食事代を持つから、一日を一緒に過ごさせてもらえないか、とお願いしたのは、そんな思いつきからだった。不躾かと思ったが、それに気づいたのは聞いたあとだった。
「ご飯おごってもらえるならいいよ。本当になんにもしてないけどね」
柴田さんは、変なものを見たような目で、筆者を見ていた。
柴田さんの朝は思ったより遅い。
毎日8時か9時には目を覚ますという。もっと寝ていたいが、目が覚めてしまうという。もともと典型的な宵っ張りの朝寝坊で、今でも寝るのが午前二時過ぎということもよくあるのだそうだ。
この日合流したのは、午前11時。コーヒーを淹れて、トーストを2枚。それが朝昼兼用の食事だという。
「お昼はあんまり動かないからね、ちょっと足りないくらいでいいんだね」
と言いながら、筆者にもパンを焼いてくれた。ピーナツバターが添えられている。柴田さんはたっぷりと塗ったトーストを頬張って、ブラックのコーヒーを飲む。インスタントではなく、豆から出したレギュラーコーヒーである。インスタントは美味しくないのだそうだ。
コーヒーと、焼けたトーストのいい香りが、タバコの匂いでむせ返る部屋に穏やかな空気を満たす。
柴田さんはパソコン前の椅子に座り、こちらは炬燵テーブルのところに座らせてもらう。6畳一間なので、人が二人もいればそれだけで狭い。柴田さん自身も、パソコンの前からあまり動かないそうだ。PCデスクの上には、マグカップやタバコ、灰皿、爪切りから文房具と、そこから手の届くところでだいたいのことができるようにものが置かれている。
量が少ないせいもあって、すぐ食べ終わってしまった。コーヒーが残っているのでちびちび啜りながら、柴田さんを見る。
さっそく一服つけて、パソコンを起動した。特に何をするでもなく、SNSや動画を見たりしている。
見ているのは、ゲームのプレイ動画や実況動画がメインのようだ。他には何を見ているのだろう。さすがに履歴を漁るのもどうかと思うので、素直に聞いてみる。
「洋ドラとか、映画とか見るね。特に洋ドラはいいね、長いから暇つぶしになるの。シーズン15とかあるのがけっこうあるしね。15年もやるってすごいよね。映画はサブスクに落ちてきたら見るかな。SNSで面白そうな話があると気になるしね」
サブスクリプションサービスには、確かに何千何万時間あるのかわからないくらいにコンテンツが溢れている。月々の値段もそう高くはない。暇つぶしというなら確かに向いているだろう。けっこう面白いよ、といくつかタイトルも教えてくれた。どれも10シーズンを超えるもので、見るとするなら倍速必至である。だが、柴田さんは動画は標準再生で見ている。
「暇つぶしなのに、速く見ちゃってどうするの。あとはまあ、別に流行りに乗ったりとかじゃないから、ゆっくり見たいんだよね。映画とか、黙ってる静かなシーンなんか、けっこう味があるんだ」
そういうものかと思った。時間に余裕があるとそう思えるのだろうか。
と言いつつ、柴田さんはゲームの実況動画を流しながら携帯を取り出して、なにか操作しだした。ゲームだ。
「毎日やるミッションがあるんだよね。季節なんてもうゲームに教えてもらうようになったよ、普段なんにもないからさ。バレンタインとか水着とか、ゲームでイベントが始まると、ああもうそんな時期かって」
タバコをふかしながら手慣れた手付きでポチポチと操作している。ほとんど指が覚えているんだろうと思うほどよどみがない。
どんなゲームをしているのかと見てみると、かなり長く運営されている、古いタイトルだった。筆者も知っているが、まだ動いていたことに逆に驚かされた。こんなところにユーザーがいたのだ。
「新しいゲームはねえ、まあ別にやらないことはないんだけど。結局やること一緒だからね。携帯で難しいゲームなんかしたくないし、真面目にゲームするならパソコンでやるし。もう特別なにかあってほしいわけじゃないから、古いゲームがいいんだよね。終わっちゃうと虚無しか残らないけど」
苦笑しながらアプリを終了する。デイリーミッションが終わったのだろう。
時間はまだお昼すぎだ。正直既に手持ち無沙汰だが、こちらからお願いした取材である。のんびりタバコを吸いながら画面を見ている柴田さんを横目に、こちらも携帯をいじったりしながら過ごす。
暇である。柴田さんはタバコを吸いながら、携帯を見たり動画を見るのを繰り返している。こちらはといえば取材なので、あまり気を抜けない。1時間もじっとしているとそわそわしてしまうのだが、柴田さんは相変わらずだ。
仕方がないので、部屋を見回す。どんな生活なのか知りたくてきたのだから、それもありだろうと思ったのだ。
既に話を聞いたときにお邪魔しているため、目新しいものはない。衣装棚に乱雑にかけられた洗濯物が増えたくらいだろうか。
そう思って視線をずらした先に、本があった。紙の本だ。着替えたのであろう服のそばに、古びたショルダーバッグと一緒に無造作においてある。裏返しで背表紙も向こうを向いているのでタイトルは分からないが、背面に付けられたタグが見えた。図書館で借りた本のようだ。
「ああ、そうだ。その本返しに行かないと」
わざとらしくそう言って、柴田さんは本を隠すようにカバンに入れた。申し訳ない気もしたが、素直にどんな本なのか聞いた。
「尊厳死した人のエッセイだよ。やり方とかもわからなかったしね。まあ……あとは、いろいろ気になって」
照れくさそうに笑う。やはり気になるものだろう。そういう本があるのも理解できる。
それにしても、わざわざ図書館にいくほど読書家だとは思わなかった。どちらかというとネットで情報を見る人に見える。
「いやあ、電子書籍も買ってたんだけど、老眼がね……。読みやすいのは結局紙が一番だね。図書館で借りればタダだしね。
そうだ、その本もう読んじゃったから、返しに行こうか。暇でしょ」
気を遣わせてしまったのだろう。とはいえ、正直助かった。時間の進みがとにかく遅い。歳を取ると違うのだろうか。
柴田さんは、備え付けのクローゼット扉についている姿見でさっと髪を整え、先程のショルダーバッグに本を入れて準備万端になってしまった。早い。貴重品はいつも持ち歩くこのバッグに入れっぱなしなのだそうだ。出し入れすると忘れるからね、と笑っていた。
こちらも訪ねてきた側なので身軽だ。荷物を拾い上げて、先導してくれる柴田さんについていく。
図書館は、JR蒲田駅の東口そばだ。大田区役所の少し奥にある駅前図書館。歩いて15分ほどだろうか。
晴れて気持ちのいい昼下がりだった。散歩がてら歩くにはいい陽気である。
こうしてみると、徒歩圏内に区役所や図書館、郵便局に警察署、アクセスのいい駅と大きな商店街と、暮らすには便利そうな街だ。大型の商業施設こそないが、一人暮らしをする分には、逆に気楽かもしれない。
「そうそう、蒲田は住みやすいよ。便利だし、人出がそこそこってのがいいんだよね。映画館がないのだけが残念かな。でも川崎か品川にあるし、そこまでもすぐだしね」
てくてくと歩きながら街自慢をしてくれる柴田さんは、こうしてみると本当に、ただ老後を迎えただけの男性に見える。
理由は確かに聞いた。でもこんな穏やかな日が続くなら、それでいいのではないか――
そう思い始めたとき、図書館に着いた。
年季の入った建物だ。薄暗い。電灯の光量が足らないのではなく、そもそも設計が古いため、採光が少ないせいだろう。昔ながらの役所然とした、堅苦しくてぼんやりしているが、なんとなく安心感のある、あの感じだ。
「これ返して、次に借りる本選んでくるから、ぶらぶらしてたら」
と言い残して、柴田さんは奥に行った。返却ボックスに本を流し入れ、さっそく近くの書棚を物色している。
筆者は職業柄、本は読む方だと思うが、図書館にはあまり出入りしない。というより紙の本をあまり読まない。もちろんまったくとは言わないが、本棚を用意するスペースが家にないのだ。東京の住宅事情は単身者にはそれなりに厳しい。空き家は増えるがほとんどが事故物件か放置された廃屋で放置されているばかりだし、新築物件はファミリー層向けのマンションが多い。
少子高齢社会で単身者といえば、独居老人と若者だが、我々にも世相は決して優しくない。
新しめの図書館だと、書棚の背が低くて施設内を見渡せるものだが、ここはそうではなかった。書架が天井近くまであり、地域資料などの非常に古い資料も置かれているせいか、みっしりとした印象を受ける。子供用スペースが開けているのは、本棚の背が低いのと、そこだけカラフルな壁紙と床だからだろうか。
そこここにある座席には、やはり老人ばかりが座っている。けっこうな席数があるが、読書用の座席はすべて高齢者だ。奥の自習室にいくと、ようやく中学生高校生が目に入る。
図書館らしい、ちょうどいい静かさだ。ぺらぺらと紙をめくる音と、かりかりと筆記をする音が聞こえる。
ひとしきり見回って、面白そうな書籍は携帯にメモしておいた。ここで借りていくのも面倒だ。介護や老後本のスペースがやたらと大きいことが気になったが、それ以外は至って普通のラインナップだろう。
けっこう時間を使ったと思ったが、30分もたっていなかった。柴田さんの姿を探すと、一冊手にとって立ち読みをしている。
「ああ、これ借りようかと思ってね」
そういって見せてくれた背表紙には、IT開発者のエッセイとあった。抑えめの声で、やっぱり職業柄ですかと尋ねる。
「そうだね、知ってる分野だとわかりやすいから……もともとあんまり読む方じゃなかったからね」
ぽんと本を閉じ、貸出機で手早く借り受ける。
図書館に通うくらいだから、読書家と思ったのだが、そうでもないのだろうか。
「いやあ、図書館なんて70過ぎてから初めてきたよ。学生の頃に学校の図書室くらいしかいったことないね。本読むっていったってマンガばっかりだったし」
外に出ながら、それはまたどうして、と重ねて聞く。
「暇になっちゃったからね。することないんだよ。寝てても体が痛くなっちゃうし、ずっと動画見てても飽きるしね。
それだとまあ、散歩がてら図書館かなって。そういうひといっぱいいたでしょ。同じ同じ」
ひらひら手を振って笑う。確かに、図書館に老人は多かった。
「さあどうしようかね。何もなければ帰っちゃうけど。今日は買い物も特にいらないし」
どうもこうもない。柴田さんの一日を知りたくているのだ。合わせるだけだ。
「退屈でしょ」
うなずいた後、柴田さんはそういって歩き出した。日が少し落ちて、冷えた気がする。
退屈。暇。柴田さんはよくそう言う気がする。正直な感想を言えば、それはそうだった。穏やかといえばそうだが、刺激がない。だが、歳を取れば感じ方も変わるのではないか。
「いやいや、歳とっても暇は暇だよ」
大きく笑う。どうも高齢者に先入観があったようで気恥ずかしい。
「だってね、同じことばっかり繰り返すんだよね。今日なんかまだ図書館いっただけ良いほうだよ。普段この時間、そのへん歩いてるだけだからね。散歩っていうか。あとはタバコが切れたら買いに行くくらいかな」
言われてみれば、筆者は祖父に散歩に行こうと言われ、本当に歩くだけだったことがある。子供心に退屈で仕方なかったが、あれは当人もそうだったのだろうか。
「わからないけど、別に好き好んでほっつき歩いてるわけじゃないね。することがないし、あんまり歩かないと寝たきりになりそうで怖いから、それだけ。嫌いじゃないけどね」
そして、本当にまっすぐ家に帰ってきた。ちょっと早いけど、と言いながら、柴田さんは夕食の準備を始めた。キッチンで手早く米を研いで小さな炊飯器に入れる。
今どき無洗米でないのにも、スイッチがひとつしかない炊飯器にも驚かされた。
「単純な作りのほうが壊れないんじゃないかね。これもう何十年使ってるかわからないよ。あとお米は、無洗米より普通のお米のほうが安いから」
あとは買い置きしてある惣菜と、インスタント味噌汁で終わりだと言う。
「これでも光熱費引いたら、赤字かトントンだよ。家買っておいてよかったなあって。あの家、もうだいぶ長く住んだからって大家さんに安く売ってもらったんだよね。それももう40年くらい前かな」
家賃はないにしろ、日々の生活費は、少ない貯金を少しずつ切り崩しているのだという。
しゅんしゅんと米が炊ける音を聞きながら、柴田さんはまたパソコンデスクの前に座り、タバコに火をつけた。
「あとはご飯食べて、日付が変わる前には布団に入るよ。
でも今日は、話し相手がいてくれて時間が過ぎるのが早かった気がするね」
少し嬉しそうに笑ってくれる柴田さん。
嬉しい反面、複雑だった。今は午後の16時過ぎ。この時間にもう眠る話をしている。それに、正直に言って、暇で退屈な一日だった。話しているときだけ居心地が良い。柴田さんは話していて楽しい人なのだ。
その印象もあって、少し怖くなったが、結局は思い切って聞くことにした。聞かなくてはいけない気がした。
「退屈じゃないのかって? そりゃあ退屈だよ。ただもう、これ以上なにかしようと思わないんだよね……。
だから、もういいかなって」
もういい。
確かに柴田さんは以前もそう言っていた。だが、筆者はわかっていなかった。
それが、もう日常ですることがないから、生きていてつまらないからだとは。そのときには思えなかった。
たった一日しか一緒にいない。それでも、こんな日が無限に続いていくとするならば、それは確かに――ふと、終わりを選んでしまうのかもしれない。
一瞬湧いた異様な真実味に、少し竦んだ。
その日の記憶は、そこで止まっている。