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トゥルシーダースの『ハヌマーン・チャーリーサー』徹底解説:バクティの詩とインド精神文化を読み解く
はじめに
『ハヌマーン・チャーリーサー』は、インドの叙事詩『ラーマーヤナ』に登場する神聖なる猿王ハヌマーンへの讃歌として、トゥルシーダースによってアワディー語で編まれた全40節の詩篇です。ハヌマーンはヒンドゥー教の中でも特に篤い信仰を集める神格であり、風神ヴァーユの御子として生まれながら、ラーマ神に対して限りない忠誠と奉仕を捧げた「完璧なる帰依者」の象徴とされています。インドの多くの地方では、毎朝や特別な節目にこのチャーリーサーを唱え、ハヌマーンの慈悲と守護を祈り求める習慣が今なお受け継がれています。
『ハヌマーン・チャーリーサー』の魅力は、その親しみやすい詩文の奥に秘められた深遠な霊的メッセージにあります。トゥルシーダースは、韻律とリズムを巧みに活かしたアワディー語の美しい表現を通じて、ハヌマーンの勇猛さや智慧、そして何よりもラーマ神への絶対的な献身を描き出しました。聞き慣れない言語でありながら、旋律的な響きをもつ詩句は、自然と唱える者の心を静め、ハヌマーン神への畏敬と親愛の情を育んでくれます。
さらに、この讃歌の背後にはヒンドゥー教の「バクティ(भक्ति)」(信愛)の伝統が脈打っています。単に外面的な力や奇跡を願うのではなく、ハヌマーンという理想的な「神の奉仕者」を通じて、自らの心に潜む献身の尊さと霊的成長の可能性を体感するのが『ハヌマーン・チャーリーサー』の大きな特徴です。ちょうど太陽を果実と見まがうほどの純真さや、ラーマ神の神聖なる使命を支える不動の勇気が、私たちに“神への帰依”がもつ力と美しさを教えてくれます。
本稿では、一節ごとに詳しい逐語訳と解説を付し、アワディー語の世界観やインド思想におけるハヌマーン神の位置づけを丁寧にひも解いていきます。はじめて『ハヌマーン・チャーリーサー』に触れる方でも、その深層にある教義や象徴性を理解できるよう配慮しております。どうぞ、この讃歌の詩的かつ霊的な響きを味わいながら、内なる勇気と純粋な帰依心を育む旅をお楽しみください。
序詩 第1節
श्रीगुरु चरन सरोज रज निज मनु मुकुरु सुधारि ।
बरनउँ रघुबर बिमल जसु जो दायकु फल चारि ॥
śrīguru carana saroja raja nija manu mukuru sudhāri ।
baranaũ raghubara bimala jasu jo dāyaku phala cāri ॥
聖なる師の蓮の御足の塵で自らの心という鏡を清めて、
四種の人生の目的を授ける、ラグ族の最上者の無垢なる栄光を私は詠唱いたします。
逐語訳:
श्रीगुरु (śrīguru) - 聖なる師、尊師
चरन (carana) - 御足(敬語)
सरोज (saroja) - 蓮
रज (raja) - 塵
निज (nija) - 自らの
मनु (manu) - 心、意
मुकुरु (mukuru) - 鏡
सुधारि (sudhāri) - 清めて(絶対分詞)
बरनउँ (baranaũ) - 私は詠唱する(一人称単数現在形)
रघुबर (raghubara) - ラグ族の最上者(ラーマ神)
बिमल (bimala) - 無垢なる、清浄な
जसु (jasu) - 栄光、名声
जो (jo) - 〜である(関係代名詞)
दायकु (dāyaku) - 授ける者
फल चारि (phala cāri) - 四つの果報、四種の人生の目的
解説:
『ハヌマーン・チャーリーサー』の冒頭のドーハーとして、この節は深い象徴的意味を持っています。作者トゥルシーダースは、インドの伝統的な詩作の作法に従い、まず「गुरु वन्दना (guru vandanā)」(師への礼拝)を捧げています。
「चरन सरोज (carana saroja)」という表現は、インドの詩的伝統における重要な比喩です。蓮(सरोज, saroja)は、泥水の中にありながら清浄さを保つ花として知られ、解脱や精神的純粋性の象徴とされます。師の御足を蓮に喩えることで、その清浄性と超越性を表現しています。
「मनु मुकुरु (manu mukuru)」の比喩は、ヨーガの伝統で重視される心の浄化の概念を反映しています。心は本来、真実を映し出す鏡のような性質を持っていますが、煩悩という塵によって曇らされています。ここでは逆説的に、師の御足の「塵」が心の鏡を清める浄化力を持つとされます。
「फल चारि (phala cāri)」は、ヒンドゥー教の「पुरुषार्थ (puruṣārtha)」と呼ばれる人生の四大目的を指します:
धर्म (dharma) - 正義・道徳的義務
अर्थ (artha) - 富・物質的繁栄
काम (kāma) - 愛・欲望の充足
मोक्ष (mokṣa) - 解脱・精神的解放
この詩節は、霊的探求の本質を凝縮して表現しています。それは、師への帰依を通じた心の浄化という個人的な修行から始まり、最終的には解脱を含む人生の完全な成就へと至る道筋を示しています。
序詩 第2節
बुद्धिहीन तनु जानिके, सुमिरौं पवन कुमार
बल बुधि विद्या देहु मोहि, हरहु कलेश विकार॥
buddhihīna tanu jānike, sumirauṃ pavana kumāra
bala budhi vidyā dehu mohi, harahu kaleśa vikāra॥
この智慧なき身を深く省みて、風の御子ハヌマーン神を私は心に想い起こします。
力と叡智と学識を私に授け、煩悩と迷妄を取り除きたまえ。
逐語訳:
बुद्धिहीन (buddhihīna) - 智慧を欠いた、悟りなき
तनु (tanu) - 身体、存在
जानिके (jānike) - 深く知って、省みて
सुमिरौं (sumirauṃ) - 私は想い起こす、瞑想する
पवन कुमार (pavana kumāra) - 風の御子(ハヌマーン神の尊称)
बल (bala) - 力、活力
बुधि (budhi) - 叡智、洞察力
विद्या (vidyā) - 学識、神聖な知識
देहु (dehu) - 授けよ(命令形)
मोहि (mohi) - 私に
हरहु (harahu) - 取り除け(命令形)
कलेश (kaleśa) - 煩悩、苦悩
विकार (vikāra) - 迷妄、歪み
解説:
この節は、前節の「श्रीगुरु (śrīguru)」への帰依に続き、ハヌマーン神への祈願を詠んでいます。ハヌマーン神は「पवन कुमार (pavana kumāra)」(風神ヴァーユの御子)として知られ、『ラーマーヤナ』における理想的な帰依者(भक्त, bhakta)の象徴です。
「बुद्धिहीन तनु (buddhihīna tanu)」という表現は、ただの謙遜の言葉ではありません。これは「आत्मज्ञान (ātmajñāna)」(真我の知)を求める者の基本的な心構えを表しています。ヨーガの伝統では、このような自己の限界への深い気づきこそが、真の智慧への第一歩とされます。
ハヌマーン神に祈願される三つの資質—「बल (bala)」「बुधि (budhi)」「विद्या (vidyā)」—は、霊的修行における重要な要素を表しています:
बल (bala):物理的な強靱さだけではなく、修行を持続する精神的強靭さ
बुधि (budhi):分別智、真理を見抜く洞察力
विद्या (vidyā):聖典の知識と実践的な智慧
「कलेश विकार (kaleśa vikāra)」は、ヨーガ哲学で説かれる「क्लेश (kleśa)」(煩悩)の概念と密接に関連しています。パタンジャリの『ヨーガ・スートラ』では、これらの煩悩が解脱への障害として詳述されています。
この祈りは、前節で清められた「मनु मुकुरु (manu mukuru)」(心という鏡)に、さらなる神聖な資質を求める願いとして理解できます。それは同時に、『ハヌマーン・チャーリーサー』を完成させるための加護を請う、作者の切実な祈願でもあります。
第1節
जय हनुमान ज्ञान गुन सागर
जय कपीस तिहुँ लोक उजागर॥१॥
jaya hanumāna jñāna guna sāgara
jaya kapīsa tihuṃ loka ujāgara ॥1॥
智慧と徳性の大海なるハヌマーン神に帰命いたします。
三界に光明を放つ猿王に帰命いたします。
逐語訳:
जय (jaya) - 帰命、勝利、栄光
हनुमान (hanumāna) - ハヌマーン神
ज्ञान (jñāna) - 智慧、霊的知識
गुन (guna) - 徳性、美徳 [古典サンスクリット語のगुण (guṇa)のアワディー語形]
सागर (sāgara) - 大海、無限の広がり
कपीस (kapīsa) - 猿王 [कपि (kapi)「猿」+ ईश (īśa)「主」の複合語]
तिहुँ (tihuṃ) - 三つの [古典サンスクリット語のत्रि (tri)のアワディー語形]
लोक (loka) - 世界、領域
उजागर (ujāgara) - 光明を放つ、輝く
解説:
この第1節は、前節までの謙虚な祈願から一転して、ハヌマーン神の荘厳な本質を讃える宣言となっています。「जय (jaya)」という語はありきたりな「勝利」や「栄光」以上の意味を持ち、完全な帰依と尊崇の念を込めた「帰命」を表現しています。
「ज्ञान गुन सागर (jñāna guna sāgara)」という表現において、「ज्ञान (jñāna)」は一過性の世俗的知識にとどまらず、ウパニシャッドが説く最高の霊的智慧を指します。「गुन (guna)」は、サンスクリット語の「गुण (guṇa)」に由来し、神聖な徳性を表します。「सागर (sāgara)」という比喩は、インド思想において特別な意味を持ちます。大海が無数の河川を受け入れながらも常に不変であるように、ハヌマーン神の智慧と徳性は無尽蔵です。
「तिहुँ लोक (tihuṃ loka)」は、ヒンドゥー教宇宙論における三界を指します:
स्वर्ग लोक (svarga loka) - 天界
भू लोक (bhū loka) - 地上界
पाताल लोक (pātāla loka) - 下界
「उजागर (ujāgara)」は、単なる物理的な光明ではなく、霊的な光明を表現しています。これは「विद्या (vidyā)」(智慧の光)を想起させ、前節で祈願された「बुद्धि (buddhi)」(叡智)の完全な顕現を示唆しています。
この節は、前書きの二節で示された謙虚な祈願者の立場から、ハヌマーン神の宇宙的な威光へと視点を移行させ、以降の讃歌全体の荘厳な基調を設定しています。同時に、智慧と徳性を強調することで、力への単純な称賛にとどまらず、霊的な完成を目指す修行者の理想を示しています。
第2節
राम दूत अतुलित बल धामा
अंजनि पुत्र पवनसुत नामा॥२॥
rāma dūta atulita bala dhāmā
añjani putra pavanasuta nāmā ॥2॥
ラーマ神の使者にして比類なき力の権化、
アンジャニー妃の御子、風神の御子として称えられる尊き方。
逐語訳:
राम (rāma) - ラーマ神
दूत (dūta) - 使者、神使
अतुलित (atulita) - 比類なき、無比の
बल (bala) - 力、神力
धामा (dhāmā) - 権化、体現者 [古典サンスクリット語のधाम (dhāma)のアワディー語形]
अंजनि (añjani) - アンジャニー妃
पुत्र (putra) - 御子、王子
पवन (pavana) - 風神
सुत (suta) - 御子、王子
नामा (nāmā) - 〜として知られる、〜と称えられる
解説:
第2節では、第1節で讃えられた「ज्ञान गुन सागर (jñāna guna sāgara)」(智慧と徳性の大海)としてのハヌマーン神の、より具体的な神格としての位置づけが明かされています。
「राम दूत (rāma dūta)」という表現は、一般的な使者の役割を超えて、ラーマ神の神意を体現する神使としての崇高な地位を表します。『ラーマーヤナ』の文脈では、ハヌマーン神は「दूत (dūta)」として、ランカー島に幽閉されたシーター妃を探し出す重要な使命を果たしました。この「神使」としての役割は、भक्ति (bhakti)(献身)の完成された形を示しています。
「अतुलित बल धामा (atulita bala dhāmā)」は、前節の「ज्ञान (jñāna)」と「गुन (guṇa)」に加えて、ハヌマーン神の第三の特質である「बल (bala)」(神力)を強調しています。「धामा (dhāmā)」は単なる「御座所」以上の意味を持ち、神力の完全な権化、体現者であることを示します。
「अंजनि पुत्र (añjani putra)」と「पवनसुत (pavanasuta)」という二つの系譜的称号は、ハヌマーン神の特別な出自を表現しています。アンジャニー妃という地上の王族と、पवन (pavana)(風神)という天界の神格を両親に持つことは、天地を結ぶ架け橋としての神格的特質を象徴しています。
この節は、前節で示された普遍的な智慧と徳性の体現者としてのハヌマーン神像を、より具体的な神学的文脈の中に位置づけています。それは同時に、以降の讃歌で詠われる数々の神聖な行跡の基盤となる神格としての性質を明確にしています。
第3節
महाबीर बिक्रम बजरंगी
कुमति निवार सुमति के संगी॥३॥
mahābīra bikrama bajaraṅgī
kumati nivāra sumati ke saṅgī ॥3॥
大勇者にして無双の威力を持つ金剛不壊の体現者よ、
迷妄を払い、正しき智慧の守護者たる方。
逐語訳:
महाबीर (mahābīra) - 大勇者、偉大な勇者
बिक्रम (bikrama) - 威力、勇猛さ [サンスクリット語विक्रम (vikrama)のアワディー語形]
बजरंगी (bajaraṅgī) - 金剛不壊の身体を持つ者 [वज्र (vajra)「金剛」+ अङ्ग (aṅga)「身体」より]
कुमति (kumati) - 迷妄、誤った理解
निवार (nivāra) - 除去する、払う
सुमति (sumati) - 正しき智慧、清浄な理解
के (ke) - 〜の(所有格後置詞)
संगी (saṅgī) - 守護者、伴侶
解説:
第3節では、前節までに示された「ज्ञान गुन सागर (jñāna guṇa sāgara)」(智慧と徳性の大海)としての性質と、「अतुलित बल धामा (atulita bala dhāmā)」(比類なき力の権化)という特質が、より具体的な形で展開されています。
「महाबीर (mahābīra)」という称号は、『ラーマーヤナ』における偉大な功績を想起させます。これは表面的な武勇にとどまらず、ラーマ神への完全な帰依(भक्ति, bhakti)から生まれる霊的な勇気を表しています。
「बिक्रम (bikrama)」は、前節の「अतुलित बल (atulita bala)」を発展させた表現です。これは物理的な力に留まらず、霊的な障害を克服する力を意味します。
「बजरंगी (bajaraṅgī)」という形容は特に重要です。「वज्र (vajra)」(金剛)は、インド思想において最高の不壊性を象徴します。これは一時的な物理的な強靭さにとどまらず、煩悩(क्लेश, kleśa)に動揺しない霊的な不動性を表現しています。
後半の「कुमति निवार सुमति के संगी (kumati nivāra sumati ke saṅgī)」は、第1節で示された「ज्ञान (jñāna)」の実践的側面を表しています。「कुमति (kumati)」は無明(अविद्या, avidyā)に基づく迷妄を、「सुमति (sumati)」は解脱へと導く智慧を意味します。ハヌマーン神は、この両面において働きかける霊的指導者として描かれています。
この節は、前節までの神学的な位置づけを踏まえつつ、求道者にとってのハヌマーン神の実践的な意義を明らかにしています。それは力と智慧の完全な調和という、霊的修行者の理想像を示すものとなっています。
第4節
कंचन बरन बिराज सुबेसा
कानन कुंडल कुँचित केसा॥४॥
kañcana barana birāja subesā
kānana kuṇḍala kuñcita kesā ॥4॥
黄金の光輝を身にまとい、荘厳なる装いで威光を放ち、
耳環の輝きと巻き毛の髪を優美に飾る尊き方。
逐語訳:
कंचन (kañcana) - 黄金、純金
बरन (barana) - 色、光輝 [サンスクリット語वर्ण (varṇa)のアワディー語形]
बिराज (birāja) - 威光を放つ、荘厳に輝く [サンスクリット語विराज् (virāj)のアワディー語形]
सुबेसा (subesā) - 荘厳なる装い [सु (su)「美しい」+ वेश (veśa)「装い」より]
कानन (kānana) - 耳 [「कान (kāna)」の詩的変形]
कुंडल (kuṇḍala) - 耳環、耳飾り
कुँचित (kuñcita) - 巻いた、渦を描く
केसा (kesā) - 髪 [サンスクリット語केश (keśa)のアワディー語形]
解説:
第4節では、前節までに示された内的な神聖さが、外的な美として顕現する様が詳細に描かれています。特に第3節の「बजरंगी (bajaraṅgī)」(金剛の身体)という表現から、より具体的な神格の荘厳さへと描写が展開されています。
「कंचन बरन (kañcana barana)」という表現は、インド思想における重要な象徴性を持ちます。黄金(कंचन, kañcana)は最高の純度と不変性を表し、これは「ज्ञान (jñāna)」(智慧)の完成した顕現を象徴します。第1節の「ज्ञान गुन सागर (jñāna guna sāgara)」(智慧と徳性の大海)が、ここでは視覚的な輝きとして表現されています。
「बिराज (birāja)」は、神的存在の自然な威光(तेजस्, tejas)の発現を示します。これは第1節の「उजागर (ujāgara)」(光明を放つ)という特質が、より個別的な形で現れたものと解釈できます。
「सुबेसा (subesā)」は、インドの美的理論における重要な概念「श्रृङ्गार (śṛṅgāra)」(荘厳美)を想起させます。これは見た目だけの装飾ではなく、内なる完成が自然に外へと現れ出た状態を表現しています。
「कानन कुंडल कुँचित केसा (kānana kuṇḍala kuñcita kesā)」という細部の描写は、古典インド美術における理想的な神格表現の伝統に基づいています。特に巻き毛(कुँचित केसा, kuñcita kesā)は、神々の特徴的な表現の一つとされ、自然な優美さを象徴します。
この節は、第1節から第3節までに示された内的な特質が、いかに外的な美として顕現するかを描き出しています。それは表層的な外見の描写を超え、神性の本質的な輝きの完全な表現として理解される必要があります。
第5節
हाथ बज्र अरु ध्वजा बिराजे
काँधे मूँज जनेऊ साजे॥५॥
hātha bajra aru dhvajā birāje
kāṁdhe mūṁja janeū sāje ॥5॥
金剛杵と勝利の旗幟を手に威光輝かせ、
ムンジャ草の聖紐を肩に荘厳に身にまとう尊き方。
逐語訳:
हाथ (hātha) - 手に
बज्र (bajra) - 金剛杵、ヴァジュラ [古典サンスクリット語のवज्र (vajra)のアワディー語形]
अरु (aru) - そして、および
ध्वजा (dhvajā) - 旗幟、勝利の旗
बिराजे (birāje) - 威光を放つ、荘厳に輝く
काँधे (kāṁdhe) - 肩に
मूँज (mūṁja) - ムンジャ草(神聖な草の一種)
जनेऊ (janeū) - 聖紐 [यज्ञोपवीत (yajñopavīta)のアワディー語形]
साजे (sāje) - 身にまとう、荘厳に装う
解説:
第5節では、前節で描かれた「कंचन बरन (kañcana barana)」(黄金の光輝)という外観から、より具体的な神格としての威厳ある持物と装身具の描写へと展開しています。
「बज्र (bajra)」は、インド思想において最高の霊的力と不壊性を象徴する金剛杵を表します。第3節の「बजरंगी (bajaraṅgī)」(金剛の身体)との呼応関係は特に重要で、内なる不壊性が外的な象徴として顕現していることを示しています。「ध्वजा (dhvajā)」は、第3節の「महाबीर बिक्रम (mahābīra bikrama)」(大勇者にして無双の威力)という性質の可視的表現として理解できます。
「बिराजे (birāje)」という表現は、第4節の「बिराज सुबेसा (birāja subesā)」(荘厳なる装い)と響き合い、これらの持物が飾りにとどまらない、神聖な威光(तेजस्, tejas)の顕現であることを示しています。
「मूँज जनेऊ (mūṁja janeū)」は深い象徴的意味を持ちます。ムンジャ草(मुञ्ज, muñja)で作られる聖紐は、伝統的に霊的知識の継承と純粋性を象徴します。これは第1節の「ज्ञान गुन सागर (jñāna guṇa sāgara)」(智慧と徳性の大海)という特質が、具体的な形で表現されたものと解釈できます。
この節は、前節までに示された内的な特質や徳性が、いかに具体的な象徴として顕現するかを描き出しています。それは見た目の説明を超えて、霊的な完成の象徴的表現として、また神格としての威厳と慈悲の調和として理解されます。
第6節
शंकर सुवन केसरी नंदन
तेज प्रताप महा जगवंदन॥६॥
śaṅkara suvana kesarī nandana
teja pratāpa mahā jagavandana ॥6॥
シヴァ神の御子にしてケーサリーの愛児、
比類なき威光を放ち、三界に崇敬される偉大なる方。
逐語訳:
शंकर (śaṅkara) - シヴァ神の別名「シャンカラ」(吉祥をもたらす者)
सुवन (suvana) - 息子、御子 [सुत (suta)のアワディー語形]
केसरी (kesarī) - ケーサリー(ハヌマーン神の父親)
नंदन (nandana) - 愛児、喜びをもたらす息子
तेज (teja) - 光輝、霊的な威光 [तेजस् (tejas)のアワディー語形]
प्रताप (pratāpa) - 威厳、威光
महा (mahā) - 偉大な、比類なき
जगवंदन (jagavandana) - 世界に崇敬される方 [जगत् (jagat) + वन्दन (vandana)]
解説:
第6節では、前節までの外的特徴や装飾の描写から、ハヌマーン神の本質的な系譜と普遍的な崇拝対象としての性質が詠われています。
「शंकर सुवन (śaṅkara suvana)」は重要な神学的意味を持ちます。シヴァ神の別名「शंकर (śaṅkara)」は「吉祥をもたらす者」を意味し、第1節の「संकट मोचन (saṅkaṭa mocana)」(苦難を除く者)という性質の源泉を示しています。これは第5節の「बज्र (bajra)」(金剛杵)という持物とも呼応し、シヴァ神との本質的な結びつきを表現しています。
「केसरी नंदन (kesarī nandana)」において、「नंदन (nandana)」は単なる「息子」以上の意味を持ちます。これは「喜びをもたらす者」という語源的意味があり、第4節の「कंचन बरन (kañcana barana)」(黄金の光輝)という特質と響き合って、存在そのものが祝福となる神格の性質を表現しています。
「तेज प्रताप (teja pratāpa)」は、第4節と第5節で描かれた外的な輝きと威厳の根源を示しています。「तेज (teja)」は内なる霊的光明を、「प्रताप (pratāpa)」はその外的顕現としての威光を表します。これは「बिराज (birāja)」(威光を放つ)という前節までの表現をより深い次元で捉え直したものです。
「महा जगवंदन (mahā jagavandana)」は、三界(天界・地上界・下界)における普遍的な崇拝対象としての地位を示しています。これは第1節の「ज्ञान गुन सागर (jñāna guṇa sāgara)」(智慧と徳性の大海)という特質が、具体的な信仰として結実した表現と理解できます。
この節は、前節までの外的描写から内的本質へと視点を移行させ、ハヌマーン神の神格としての位置づけを明確にしています。それは血筋の列挙にとどまらず、神聖なる存在の本質的な顕現の様相を描き出すものとなっています。
第7節
विद्यावान गुनी अति चातुर
राम काज करिबे को आतुर॥७॥
vidyāvāna gunī ati cātura
rāma kāja karibe ko ātura ॥7॥
深遠なる叡智と徳性を具え、比類なき才覚を持つ方、
ラーマ神の神聖なる御業に全身全霊を捧げて仕える方。
逐語訳:
विद्यावान (vidyāvāna) - 深い叡智を持つ、学識ある [विद्यावत् (vidyāvat)のアワディー語形]
गुनी (gunī) - 徳性を備えた、優れた資質を持つ [गुणिन् (guṇin)のアワディー語形]
अति (ati) - 極めて、比類なき
चातुर (cātura) - 聡明な、卓越した才覚のある [चतुर (catura)のアワディー語形]
राम (rāma) - ラーマ神
काज (kāja) - 神聖なる務め、御業 [कार्य (kārya)のアワディー語形]
करिबे (karibe) - 行うこと、遂行すること(不定詞)
को (ko) - のために、に向けて
आतुर (ātura) - 熱心な、全身全霊を捧げる
解説:
第7節では、前節までの外的特徴や系譜的説明から、ハヌマーン神の内的資質と献身的本質の描写へと展開しています。
「विद्यावान (vidyāvāna)」は、第1節の「ज्ञान गुन सागर (jñāna guṇa sāgara)」(智慧と徳性の大海)を個別的に展開したものです。これは一過性の世俗的知識を超え、「विद्या (vidyā)」が示す霊的な叡智、解脱へと導く智慧を表現しています。第6節の「शंकर सुवन (śaṅkara suvana)」(シヴァ神の御子)という系譜と結びつき、神聖なる智慧の継承を示唆しています。
「गुनी अति चातुर (gunī ati cātura)」という表現は、第4節の「कंचन बरन (kañcana barana)」(黄金の光輝)という外的特質が、内的な徳性として結実したことを示しています。「चातुर (cātura)」は、第5節の「बज्र (bajra)」(金剛杵)が象徴する霊的力が、実践的な智慧として顕現したものと解釈できます。
「राम काज करिबे को आतुर (rāma kāja karibe ko ātura)」は、この節の中心的主題です。これは第6節の「जगवंदन (jagavandana)」(三界に崇敬される)という普遍的な地位が、具体的な献身として表現されたものです。「आतुर (ātura)」は単なる熱心さではなく、神聖なる使命への完全な没入を表しています。
この節は、知性(विद्या, vidyā)と献身(भक्ति, bhakti)の完全な調和を描き出しています。それは前節までに示された外的な威光や系譜的な高貴さが、内的な完成として結実した姿を表現しているのです。
第8節
प्रभु चरित्र सुनिबे को रसिया
राम लखन सीता मनबसिया॥८॥
prabhu caritra sunibe ko rasiyā
rāma lakhana sītā manabasiyā ॥8॥
主の神聖なる物語を深く味わい、
ラーマ神、ラクシュマナ、シーター女神を心の奥深くに祀る方。
逐語訳:
प्रभु (prabhu) - 主、至高の主
चरित्र (caritra) - 神聖なる行状、物語
सुनिबे (sunibe) - 聴くこと、聴聞すること(不定詞)
को (ko) - に対して、において
रसिया (rasiyā) - 深く味わう者、霊的な喜びを体験する者
राम (rāma) - ラーマ神
लखन (lakhana) - ラクシュマナ
सीता (sītā) - シーター女神
मनबसिया (manabasiyā) - 心に祀る者、内なる寺院に安置する者
解説:
第8節では、前節で示された「विद्यावान (vidyāvāna)」(叡智を持つ者)という知的側面と、「राम काज करिबे को आतुर (rāma kāja karibe ko ātura)」(ラーマ神への奉仕に専心する)という実践的側面が、より深い霊的体験として統合されています。
「प्रभु चरित्र सुनिबे को रसिया (prabhu caritra sunibe ko rasiyā)」において、「रसिया (rasiyā)」は重要な意味を持ちます。これは「रस (rasa)」(霊的な味わい)を体験する者を意味し、娯楽としての物語鑑賞にとどまらず、神聖なる物語(लीला, līlā)の霊的な真髄を直接体験する瞑想的な状態を示しています。第7節の「विद्यावान (vidyāvāna)」が、ここでより深い体験的知恵として展開されているのです。
「मनबसिया (manabasiyā)」という表現は、「मन्दिर (mandira)」(寺院)の概念と密接に関連しています。これは心を神聖なる寺院として浄化し、そこに神性を安置するという深い瞑想実践を示唆しています。第6節の「तेज प्रताप (teja pratāpa)」(威光)が、ここでは内的な光明として心に宿る様を描いています。
特筆すべきは、ラーマ神、ラクシュマナ、シーター女神という三尊を一体として瞑想する点です。これは「त्रिमूर्ति (trimūrti)」の概念に通じる統合的な瞑想法を示しており、第7節の「चातुर (cātura)」(卓越した智慧)がより高次の霊的理解として結実したものと解釈できます。
この節は、知的理解(ज्ञान, jñāna)、献身的実践(भक्ति, bhakti)、瞑想的体験(ध्यान, dhyāna)の完全な統合を描き出しています。それは前節までの段階的な展開が、より深い霊的完成として結実した姿を表現しているのです。
第9節
सूक्ष्म रूप धरि सियहि दिखावा
विकट रूप धरि लंक जरावा॥९॥
sūkṣma rūpa dhari siyahi dikhāvā
vikaṭa rūpa dhari laṅka jarāvā ॥9॥
微細なる姿となってシーター妃に御姿を示し、
巨大なる威容をもってランカーを焼き尽くした御方。
逐語訳:
सूक्ष्म (sūkṣma) - 微細な、繊細な、霊妙な
रूप (rūpa) - 姿、形相
धरि (dhari) - とって、示現して [धृत्वा (dhṛtvā)のアワディー語形]
सियहि (siyahi) - シーター妃に(与格)[सीता (sītā)の敬愛形]
दिखावा (dikhāvā) - 示された [दर्शित (darśita)のアワディー語形]
विकट (vikaṭa) - 巨大な、荘厳な、威容ある
लंक (laṅka) - ランカー(羅刹の都)
जरावा (jarāvā) - 焼き尽くした [ज्वालित (jvālita)のアワディー語形]
解説:
第9節では、前節の内面的な瞑想的境地から、その神聖なる力の具体的な顕現へと視点が移行しています。ハヌマーン神の神格としての特質が、「सूक्ष्म (sūkṣma)」と「विकट (vikaṭa)」という対照的な二つの様相を通じて描かれています。
「सूक्ष्म रूप (sūkṣma rūpa)」は、見た目のサイズにとどまらない霊妙な変容力を意味し、ヨーガの伝統で説かれる「अणिमा सिद्धि (aṇimā siddhi)」(微細化の神通力)に通じる霊的な変容力を示しています。これは第8節の「मनबसिया (manabasiyā)」(心に宿る)という内的な性質が、外的な神通力として顕現したものと理解できます。
シーター妃への示現は、第8節で詠われた「राम लखन सीता (rāma lakhana sītā)」という三尊への帰依が、具体的な奉仕として結実した姿を表しています。「सियहि (siyahi)」という敬愛形の使用は、深い献愛の情を示唆しています。
「विकट रूप (vikaṭa rūpa)」は、第6節の「तेज प्रताप (teja pratāpa)」(威光)が完全に顕現した姿です。これは「महावीर (mahāvīra)」(偉大なる勇者)としての側面を示すと同時に、第7節の「राम काज (rāma kāja)」(ラーマ神への奉仕)という献身的実践の力強い表現となっています。
この節は、霊妙と威厳、慈悲と正義という一見相反する特質の完全な統合を描き出しています。これは「योग (yoga)」の真髄である「完全なる統合」の具現化として理解することができます。
第10節
भीम रूप धरि असुर सँहारे
रामचंद्र के काज सवाँरे॥१०॥
bhīma rūpa dhari asura sam̐hāre
rāmacandra ke kāja savām̐re ॥10॥
恐るべき威容をもって阿修羅たちを討ち滅ぼし、
ラーマチャンドラの神聖なる使命を完遂された御方。
逐語訳:
भीम (bhīma) - 恐るべき、威厳ある、畏怖すべき
रूप (rūpa) - 姿、形相
धरि (dhari) - とって、示現して [धृत्वा (dhṛtvā)のアワディー語形]
असुर (asura) - 阿修羅、邪悪な存在
सँहारे (sam̐hāre) - 討ち滅ぼした [संहार (saṃhāra)のアワディー語形]
रामचंद्र (rāmacandra) - ラーマチャンドラ(月のように慈悲深きラーマ神)
के (ke) - の(所有格助詞)
काज (kāja) - 神聖なる使命 [कार्य (kārya)のアワディー語形]
सवाँरे (savām̐re) - 完全に成就した、円満に完遂した
解説:
第10節は、第9節で描かれた「विकट रूप (vikaṭa rūpa)」(巨大なる威容)の主題をさらに深化させ、「भीम रूप (bhīma rūpa)」(恐るべき威容)という、より深い霊的な力の顕現を描き出しています。
「भीम (bhīma)」という語は、表面的な物理的恐怖を意味するだけではなく、「भगवत् शक्ति (bhagavat śakti)」(神の威力)の顕現としての畏怖すべき性質を表現しています。これは第7節の「विद्यावान (vidyāvāna)」(叡智を持つ)という内的な力が、宇宙的な正義を実現する力として顕現したものです。
「असुर सँहारे (asura sam̐hāre)」は、第9節の「लंक जरावा (laṅka jarāvā)」(ランカーを焼き尽くした)という具体的な行為を、より普遍的な「धर्म संस्थापना (dharma saṃsthāpanā)」(正法の確立)という文脈で捉え直しています。
「रामचंद्र के काज सवाँरे (rāmacandra ke kāja savām̐re)」において、「रामचंद्र (rāmacandra)」という尊称の使用は重要です。「चंद्र (candra)」(月)は慈悲と清涼を象徴し、破壊的な力が最終的に慈悲の実現のために向けられることを示唆しています。
この節は、第8節の内的な瞑想的境地(मनबसिया, manabasiyā)と、第9節の外的な力の顕現が、より高次の霊的統合の中で完成されていく過程を描いています。それは「भक्ति (bhakti)」(献身)と「शक्ति (śakti)」(神聖なる力)の完全な調和として理解することができます。
第11節
लाय सजीवन लखन जियाए
श्री रघुबीर हरषि उर लाए॥११॥
lāya sajīvana lakhana jiyāe
śrī raghubīra haraṣi ura lāe ॥11॥
生命の霊薬をもたらしてラクシュマナを蘇らせ、
聖なるラーマ神は喜びに満ちて、ハヌマーンを胸に抱きしめられた。
逐語訳:
लाय (lāya) - もたらして、取り来て [लाना (lānā)の完了分詞形]
सजीवन (sajīvana) - 生命の霊薬、サンジーヴァニー
लखन (lakhana) - ラクシュマナ [लक्ष्मण (lakṣmaṇa)のアワディー語形]
जियाए (jiyāe) - 蘇生させた、命を与えた
श्री (śrī) - 聖なる
रघुबीर (raghubīra) - ラグ族の英雄(ラーマ神の尊称)
हरषि (haraṣi) - 喜びをもって、歓喜して
उर (ura) - 胸に、心に
लाए (lāe) - 抱きしめた、引き寄せた
解説:
第11節は、前節までの「भीम रूप (bhīma rūpa)」(恐るべき威容)から一転して、深い慈愛に満ちた場面を描写しています。ここでは、ハヌマーン神の献身的奉仕とラーマ神の慈悲深い応答という、神と帰依者の理想的な関係性が表現されています。
「सजीवन (sajīvana)」は、ヒマラヤに生える伝説の霊薬「संजीवनी (saṃjīvanī)」を指します。これは第9節の「सूक्ष्म रूप (sūkṣma rūpa)」の能力と第10節の「भीम रूप (bhīma rūpa)」の力が、生命を与える慈悲の力として昇華された表現です。
「लखन जियाए (lakhana jiyāe)」という行為は、第8節の「राम लखन सीता मनबसिया (rāma lakhana sītā manabasiyā)」で示された三尊への深い帰依が、具体的な奉仕として結実した姿を示しています。
特に注目すべきは「हरषि उर लाए (haraṣi ura lāe)」という表現です。ここでの「उर (ura)」は単なる身体的な胸ではなく、「हृदय (hṛdaya)」(霊的な心)を象徴しています。これは第8節の「मनबसिया (manabasiyā)」(心に宿る)という内的な結びつきが、外的な抱擁という形で具現化された瞬間を表しています。
この節は、神聖なる力(शक्ति, śakti)と慈悲(करुणा, karuṇā)の完全な調和を描き出しています。それは前節までの壮大な神的顕現が、最終的に深い愛情の交感へと収斂していく様を示しており、भक्ति योग (bhakti yoga)の真髄を体現しているといえます。
第12節
रघुपति कीन्ही बहुत बड़ाई
तुम मम प्रिय भरत-हि सम भाई॥१२॥
raghupati kīnhī bahuta baṛāī
tuma mama priya bharata-hi sama bhāī ॥12॥
ラグ族の主ラーマは深い愛情をもって宣べられた、
「汝は我が愛するバラタと等しき兄弟なり」と。
逐語訳:
रघुपति (raghupati) - ラグ族の主(ラーマ神の尊称)
कीन्ही (kīnhī) - なされた、表明された [कृत (kṛta)のアワディー語形]
बहुत (bahuta) - 深い、大いなる
बड़ाई (baṛāī) - 称賛、愛情の表明
तुम (tuma) - 汝は
मम (mama) - 我が、私の
प्रिय (priya) - 愛する、最愛の
भरत (bharata) - バラタ(ラーマの実弟)
हि (hi) - と(同等性を示す助詞)
सम (sama) - 等しい、同様の
भाई (bhāī) - 兄弟
解説:
第12節は、第11節の「हरषि उर लाए (haraṣi ura lāe)」(喜びに満ちて胸に抱きしめた)という身体的表現が、言葉による最高の祝福として結実する場面を描いています。
「बहुत बड़ाई (bahuta baṛāī)」はありきたりな称賛にとどまらない深い意味を持ちます。これは「भक्ति (bhakti)」の最高の成就を示す重要な表現です。特に「बड़ाई (baṛāī)」は、第11節までに示された奉仕と献身への応答として、神からの無条件の愛の表明を意味します。
「भरत-हि सम भाई (bharata-hi sama bhāī)」という表現は深い霊的意義を持ちます。「भरत (bharata)」は『ラーマーヤナ』において、兄ラーマへの無条件の献身と純粋な愛の象徴として描かれる人物です。ハヌマーンをバラタと同等視することは、献身者が到達しうる最高の霊的境地を示しています。
「मम प्रिय (mama priya)」という親密な呼びかけは、第8節の「मनबसिया (manabasiyā)」(心に宿る)という内的な結びつきが、第11節の「उर लाए (ura lāe)」(胸に抱く)を経て、最終的に言葉として顕現した表現です。これは神と献身者の関係が、主従関係から家族的な愛の絆へと昇華される決定的瞬間を示しています。
この節は、「भक्ति योग (bhakti yoga)」の究極的な成就を描いています。それは第7節から第11節まで描かれてきた献身的奉仕の行為が、最終的に神との完全な一体性という形で結実する様を表現しています。これは一時的な感情の結びつきを越えた、霊的な完成の象徴として理解することができます。
第13節
सहस बदन तुम्हरो जस गावै
अस कहि श्रीपति कंठ लगावै॥१३॥
sahasa badana tumharo jasa gāvai
asa kahi śrīpati kaṇṭha lagāvai ॥13॥
「千の口を持つ者たちも、汝の栄光を歌い尽くすことはかなわぬ」と
そう告げられ、聖なる主は深い愛情をもってハヌマーンを抱きしめられた。
逐語訳:
सहस (sahasa) - 千の
बदन (badana) - 口、面
तुम्हरो (tumharo) - 汝の、あなたの
जस (jasa) - 栄光、称賛
गावै (gāvai) - 歌う(現在形)
अस (asa) - このように、そのように
कहि (kahi) - 言って(絶対分詞)
श्रीपति (śrīpati) - 吉祥の主(ラーマ神の尊称)
कंठ (kaṇṭha) - 胸に、近くに
लगावै (lagāvai) - 抱きしめる(現在形)
解説:
第13節は、第11-12節で展開された神と帰依者の親密な関係性が、言葉による表現の限界を超えた次元へと昇華される場面を描いています。
「सहस बदन (sahasa badana)」という表現は、『श्रीमद्भागवत पुराण (śrīmadbhāgavata purāṇa)』などの聖典に見られる「सहस्रशीर्षा पुरुष (sahasraśīrṣā puruṣa)」(千の頭を持つ原人)の概念を想起させます。これは有限な存在による無限なる神性の讃美の不可能性を象徴的に示しています。
「तुम्हरो जस गावै (tumharo jasa gāvai)」は、第12節の「बहुत बड़ाई (bahuta baṛāī)」を超えて、言語的表現の限界そのものを指し示しています。これは「वाचामगोचरम् (vācāmagocaram)」(言葉の届かぬもの)という『उपनिषद् (upaniṣad)』の概念と呼応しています。
「श्रीपति कंठ लगावै (śrīpati kaṇṭha lagāvai)」における「कंठ (kaṇṭha)」は、単なる身体的な接触ではなく、「प्रेम भक्ति (prema bhakti)」(愛の献身)の完成を象徴しています。これは第11節の「उर लाए (ura lāe)」から深化した、より深い霊的合一を表現しています。
この節全体は、言葉による讃美の限界を認識しつつ、その限界を超えた直接的な霊的体験へと向かう道筋を示しています。それは「भक्ति (bhakti)」の最高の形態である「परा भक्ति (parā bhakti)」(超越的献身)の境地を暗示するものといえます。
第14節
सनकादिक ब्रह्मादि मुनीसा
नारद सारद सहित अहीसा॥१४॥
sanakādika brahmādi munīsā
nārada sārada sahita ahīsā ॥14॥
サナカをはじめとする聖仙たち、ブラフマーをはじめとする聖者の主たちよ、
ナーラダ仙、サラスヴァティー女神、そして蛇王たちとともに。
逐語訳:
सनकादिक (sanakādika) - サナカなどの、サナカを筆頭とする四賢者
ब्रह्मादि (brahmādi) - ブラフマーをはじめとする
मुनीसा (munīsā) - 聖仙の主たち、偉大な聖者たち
नारद (nārada) - ナーラダ(神仙)
सारद (sārada) - サラスヴァティー(知識と芸術の女神)
सहित (sahita) - 〜とともに
अहीसा (ahīsā) - 蛇王たち、ナーガたち
解説:
第14節は、第13節の「सहस बदन (sahasa badana)」(千の口)という表現を具体的に展開し、ハヌマーン神への讃歌を歌う神聖なる存在たちを列挙しています。
「सनकादिक (sanakādika)」は、ブラフマー神の意から生まれた四大聖仙を指します。「सनक (sanaka)」「सनन्दन (sanandana)」「सनातन (sanātana)」「सनत्कुमार (sanatkumāra)」の四賢者は、永遠の少年の姿を保ち続ける純粋意識の体現者として知られています。彼らは「ज्ञान योग (jñāna yoga)」の最高の実践者とされ、第13節で言及された讃美の真髄を体得した存在です。
「ब्रह्मादि मुनीसा (brahmādi munīsā)」という表現は、創造神ブラフマーを筆頭とする偉大な聖仙たちを表します。「मुनीसा (munīsā)」は単なる聖仙(मुनि, muni)ではなく、「ईश (īśa)」(主、統治者)という語が付加されることで、霊的権威を持つ存在であることを示しています。
「नारद (nārada)」仙は、「भक्ति (bhakti)」の最高の伝道者として知られ、第13節の「जस गावै (jasa gāvai)」(栄光を歌う)を実践する理想的存在です。「सारद (sārada)」すなわちサラスヴァティー女神は、「वाणी (vāṇī)」(言葉、表現)の女神として、讃歌の芸術的完成を司ります。
「अहीसा (ahīsā)」への言及は、「पाताल लोक (pātāla loka)」(地下界)を含む三界すべてからの讃美を示唆しています。これは第13節で暗示された讃歌の普遍的性質を空間的に具現化する表現といえます。
この節は、続く讃歌の宇宙的な広がりを予示する序曲として機能しており、「भक्ति (bhakti)」の最高の実践者たちによる讃美の合唱という壮大な光景を描き出しています。
第15節
जम कुबेर दिगपाल जहाँ ते
कवि कोविद कहि सके कहाँ ते॥१५॥
jama kubera digapāla jahāṃ te
kavi kovida kahi sake kahāṃ te ॥15॥
ヤマ神、クベーラ神、方位の守護神たちも、
詩人たちも賢者たちも、その無限なる栄光の始まりすら語り得ない。
逐語訳:
जम (jama) - ヤマ神(死と正義の神)
कुबेर (kubera) - クベーラ神(富と財宝の神)
दिगपाल (digapāla) - 方位の守護神たち
जहाँ ते (jahāṃ te) - どこから(起点を示す後置詞)
कवि (kavi) - 詩人、詩聖
कोविद (kovida) - 賢者、学識者
कहि (kahi) - 語る(不定詞)
सके (sake) - できる(可能を表す助動詞)
कहाँ ते (kahāṃ te) - どこから(反語的表現)
解説:
第15節は、第13節で示された「千の口を持つ者たちも語り尽くせない」という主題を、第14節に続いて具体的に展開しています。
「जम (jama)」と「कुबेर (kubera)」は、それぞれ死と富という相反する領域を司る神格です。「दिगपाल (digapāla)」は八方位の守護神(अष्टदिक्पाल, aṣṭadikpāla)を指し、宇宙の空間的秩序を維持する神々です。これらの神々は『वेद (veda)』以来の古層に属する重要な神格であり、彼らでさえもハヌマーン神の栄光を十分に讃えることができないという表現は、ハヌマーン神の超越性を強調しています。
「कवि (kavi)」は一般的な詩作家の枠を超え、『ऋग्वेद (ṛgveda)』における霊視者(ऋषि, ṛṣi)の伝統を継承する存在を指します。「कोविद (kovida)」は『उपनिषद् (upaniṣad)』の真理を体得した賢者たちを意味します。この両者は、人間界における最高の霊的・知的能力の象徴として描かれています。
特に「जहाँ ते...कहाँ ते (jahāṃ te...kahāṃ te)」という反復的な韻律構造は、第13節の「सहस बदन (sahasa badana)」の主題を詩的に深化させています。これは飾り気のあるレトリックにとどまらず、「अनिर्वचनीय (anirvacanīya)」(言葉では表現できない)という『वेदान्त (vedānta)』の根本概念を詩的に表現したものです。
この節は、神的存在(जम, कुबेर, दिगपाल)と人間的存在(कवि, कोविद)の双方が、ハヌマーン神の真理の前では等しく沈黙せざるを得ないことを示しています。これは「भक्ति (bhakti)」の本質が、知識や言語による把握を超えた直接的な霊的体験にあることを暗示しています。
第16節
तुम उपकार सुग्रीवहि कीन्हा
राम मिलाय राज पद दीन्हा॥१६॥
tuma upakāra sugrīvahi kīnhā
rāma milāya rāja pada dīnhā ॥16॥
あなたはスグリーヴァに慈悲深き援助の手を差し伸べ、
ラーマ神との縁を結び、正統なる王位を回復させられました。
逐語訳:
तुम (tuma) - あなたは、汝は
उपकार (upakāra) - 慈悲深き援助、利他的奉仕
सुग्रीवहि (sugrīvahi) - スグリーヴァに(与格)
कीन्हा (kīnhā) - 行った、施した
राम (rāma) - ラーマ神
मिलाय (milāya) - 出会わせて、結びつけて
राज (rāja) - 王の
पद (pada) - 位、地位、正統なる立場
दीन्हा (dīnhā) - 与えた、授けた、回復させた
解説:
第16節は、第13-15節で讃えられた神々や聖仙たちによる讃美の具体的根拠として、ハヌマーン神の偉大な功徳の一つを描写しています。
「उपकार (upakāra)」は、一過性の援助や恩恵以上の深い意味を持ちます。これは「परोपकार (paropakāra)」(他者への無私の奉仕)という『धर्मशास्त्र (dharmaśāstra)』の理念を体現する行為を指します。ハヌマーン神の行為は、個人的な好意を超えた、宇宙的正義(धर्म, dharma)の回復という文脈で理解される必要があります。
「सुग्रीवहि (sugrīvahi)」への言及は、『रामायण (rāmāyaṇa)』の重要な転換点を示しています。スグリーヴァは兄ヴァーリン(वालिन्, vālin)によって不当に追放された猿王でした。この状況は、ラーマ神自身が兄弟の軋轢なく王位を譲って森に赴いたこととの対比的な意味を持ちます。
「राम मिलाय (rāma milāya)」という表現は、ただの引き合わせを超えた深い意義を持ちます。これは「भक्ति (bhakti)」の本質である神と帰依者の霊的な結びつきを象徴的に表現しています。
「राज पद (rāja pada)」の回復は、一時的な世俗的権力の奪還ではなく、「धर्म (dharma)」に基づく正統な秩序の回復を意味します。これは後の『रामायण (rāmāyaṇa)』の展開において、सीता (sītā) の救出という神聖な使命の遂行に不可欠な布石となりました。
この節は、ハヌマーン神の行為が、個人的な次元を超えて宇宙的な正義の実現に寄与したことを示しています。これは前節までの讃美の具体的根拠となると同時に、続く節々で描かれる偉大な功徳の序章としても機能しています。
第17節
तुम्हरो मंत्र बिभीषण माना
लंकेश्वर भये सब जग जाना॥१७॥
tumharo mantra bibhīṣaṇa mānā
laṅkeśvara bhaye saba jaga jānā ॥17॥
あなたの神聖なる教えをビビーシャナは心に受け入れ、
かくして全世界の知るところとなった、彼がランカーの正統なる王となられたことは。
逐語訳:
तुम्हरो (tumharo) - あなたの [古典サンスクリット語のत्वदीय (tvadīya)のアワディー語形]
मंत्र (mantra) - 神聖なる教え、霊的指南
बिभीषण (bibhīṣaṇa) - ビビーシャナ(ラーヴァナの弟)
माना (mānā) - 心に受け入れた、深く理解して従った
लंकेश्वर (laṅkeśvara) - ランカーの主、ランカーの正統なる王
भये (bhaye) - 〜となった
सब (saba) - すべての
जग (jaga) - 世界、宇宙
जाना (jānā) - 知るところとなった
解説:
第17節は、第16節のスグリーヴァへの援助に続き、ハヌマーン神の智慧と慈悲が、いかにして宇宙的正義(धर्म, dharma)の実現に寄与したかを描写しています。
「मंत्र (mantra)」は、前節の「उपकार (upakāra)」(慈悲深き援助)の具体的形態として理解できます。これは口先だけの助言ではなく、「मन् (man)」(心で考える)と「त्रै (trai)」(守護する)という語根から派生した言葉で、霊的な救済へと導く神聖な教えを意味します。
「बिभीषण (bibhīṣaṇa)」の事例は、『रामायण (rāmāyaṇa)』における重要な転換点です。彼は兄ラーヴァナ(रावण, rāvaṇa)の不正を諫めましたが聞き入れられず、ハヌマーン神の導きによってラーマ神への帰依(भक्ति, bhakti)を選択しました。これは「धर्म (dharma)」の個人的実現から普遍的実現への展開を象徴しています。
「लंकेश्वर (laṅkeśvara)」という称号の獲得は、第16節の「राज पद (rāja pada)」の回復と呼応しています。両者とも形式上の王位継承を超えて、宇宙的正義の具現化を表しています。「सब जग जाना (saba jaga jānā)」という表現は、この出来事が個別的な王位継承を超えて、普遍的な正義の勝利として認識されたことを示唆しています。
この節は、ハヌマーン神の行為が持つ二重の性質を巧みに描き出しています。それは個々の魂への慈悲深い導きであると同時に、宇宙的な正義の実現でもあります。この統合的な視点は、第13-15節で描かれた神々による讃美の深い根拠となっています。
第18節
जुग सहस्त्र जोजन पर भानू
लिल्यो ताहि मधुर फ़ल जानू॥१८॥
juga sahastra jojana para bhānū
lilyo tāhi madhura phala jānū ॥18॥
千ユガの距離に輝く太陽を、
甘美な果実と見なして手に取ろうとされました。
逐語訳:
जुग (juga) - ユガ(時間・距離を表す単位)[古典サンスクリット語のयुग (yuga)]
सहस्त्र (sahastra) - 千 [古典サンスクリット語のसहस्र (sahasra)]
जोजन (jojana) - ヨージャナ(約12-15kmの距離単位)[古典サンスクリット語のयोजन (yojana)]
पर (para) - 〜の上に、彼方に
भानू (bhānū) - 太陽神、太陽 [古典サンスクリット語のभानु (bhānu)]
लिल्यो (lilyo) - 取ろうとした [古典サンスクリット語のली (lī)のアワディー語過去形]
ताहि (tāhi) - それを [古典サンスクリット語のतत् (tat)の対格形]
मधुर (madhura) - 甘美な、魅力的な
फल (phala) - 果実
जानू (jānū) - 理解して、認識して [古典サンスクリット語のज्ञा (jñā)のアワディー語形]
解説:
第18節は、前節までに描かれたハヌマーン神の偉大な功徳の源泉となる幼年期のエピソードを描写しています。この逸話は『वाल्मीकि रामायण (vālmīki rāmāyaṇa)』や『अध्यात्म रामायण (adhyātma rāmāyaṇa)』などの古典文献に記されている著名な説話です。
「जुग सहस्त्र जोजन (juga sahastra jojana)」という表現は、物理的な距離を超えた象徴的な意味を持ちます。「जुग (juga)」は時間と空間の両方を表す概念で、「सहस्त्र जोजन (sahastra jojana)」と合わせて、通常の理解を超えた遥かな距離を表現しています。
「भानू (bhānū)」である太陽は、『वेद (veda)』以来、「आदित्य (āditya)」として知られる最高神の顕現の一つとされ、特に「विद्या (vidyā)」(智慧)の源泉として崇拝されてきました。幼いハヌマーン神が太陽を求めて飛び立とうとした行為は、後の霊的成長と「ज्ञान (jñāna)」(最高知)の獲得を予示しています。
「मधुर फल (madhura phala)」という認識は、子どもの空想にとどまらず、霊的探求における「वैराग्य (vairāgya)」(執着からの解放)と「भक्ति (bhakti)」(純粋な信愛)の調和を象徴的に表現しています。
この節は、第16-17節で描かれた成熟したハヌマーン神の智慧と力の源泉を示すと同時に、純真さ(सरलता, saralatā)と大胆さ(साहस, sāhasa)という、神への帰依に不可欠な資質の起源を明らかにしています。
第19節
प्रभु मुद्रिका मेलि मुख माही
जलधि लाँघि गए अचरज नाही॥१९॥
prabhu mudrikā meli mukha māhī
jaladhi lāṃghi gae acaraja nāhī ॥19॥
主ラーマの指輪を口に携え、
大海原を飛び越えられたことは、まことに自然なことでした。
逐語訳:
प्रभु (prabhu) - 主、主君 [ラーマ神を指す]
मुद्रिका (mudrikā) - 指輪、印璽
मेलि (meli) - 携えて、保持して
मुख (mukha) - 口
माही (māhī) - の中に
जलधि (jaladhi) - 大海原、海洋
लाँघि (lāṃghi) - 飛び越えて、渡って
गए (gae) - 行った
अचरज (acaraja) - 驚き、不思議
नाही (nāhī) - ない、自然なこと
解説:
第19節は、前節の幼年期の太陽への飛翔と対をなす、成熟したハヌマーン神の霊的な偉業を描写しています。この節は『रामायण (rāmāyaṇa)』の「सुन्दरकाण्ड (sundarakāṇḍa)」における重要な場面を詠んでいます。
「प्रभु मुद्रिका (prabhu mudrikā)」は、物理的な指輪にとどまらない深い象徴性を持ちます。これは「राजमुद्रा (rājamūdrā)」として、ラーマ神の権威と恩寵(प्रसाद, prasāda)を象徴しています。第18節で描かれた太陽(भानु, bhānu)が遠い存在だったのに対し、ここでは主の直接的な加護が示されています。
「मुख माही (mukha māhī)」という表現は、完全な帰依(समर्पण, samarpaṇa)の姿勢を表現しています。口に携えるという行為は、「वाक् (vāk)」(言葉)の力を超えた無言の奉仕(सेवा, sevā)を象徴しています。
「जलधि लाँघि (jaladhi lāṃghi)」は、第18節の「जुग सहस्त्र जोजन (juga sahastra jojana)」と呼応しています。しかし、ここでの超越は神聖な使命(दिव्य कार्य, divya kārya)に基づいた意識的な行為として描かれています。
「अचरज नाही (acaraja nāhī)」という結びは、深い霊的真理を示唆しています。これは「भक्ति (bhakti)」の本質を表現しており、神の恩寵を受けた者には不可能なことは存在しないという「श्रद्धा (śraddhā)」(確信)を示しています。
この節は、前節までに描かれた純真な衝動が、いかにして意識的な霊的成熟へと昇華されたかを巧みに描写しています。それは個人的な武勇伝を超えて、神への完全な帰依と奉仕の普遍的な模範として、深い霊的な意義を持つ出来事となっています。
第20節
दुर्गम काज जगत के जेते
सुगम अनुग्रह तुम्हरे तेते॥२०॥
durgama kāja jagata ke jete
sugama anugraha tumhare tete ॥20॥
この世界に存在するあらゆる困難な務めも、
あなたの慈愛の恩寵によって、すべて容易なものとなります。
逐語訳:
दुर्गम (durgama) - 困難な、到達困難な
काज (kāja) - 務め、任務、行為
जगत (jagata) - 世界、宇宙
के (ke) - の(所有格助詞)
जेते (jete) - どれほど多くとも、あらゆる
सुगम (sugama) - 容易な、達成可能な
अनुग्रह (anugraha) - 恩寵、慈愛の祝福
तुम्हरे (tumhare) - あなたの
तेते (tete) - それと同じだけ、すべて
解説:
第20節は、前節までに描かれた具体的な物語(太陽への飛翔や大海を越える飛行)を普遍的な霊的真理へと昇華させています。
「दुर्गम काज (durgama kāja)」は、表面的な物理的困難を超えて、「दुर् (dur)」(困難)と「गम (gama)」(到達)という語根が示すように、人間の通常の能力では到達困難な霊的な課題をも含意しています。これは第18-19節で描かれた超自然的な偉業の本質を表現しています。
「जगत के जेते (jagata ke jete)」という表現は、個別的な文脈を超えて、存在界全体における普遍的な真理を示唆しています。「जगत (jagata)」は「जग् (jag)」(動く、生きる)という語根から派生し、生命に満ちた動的な宇宙を表現しています。
「अनुग्रह (anugraha)」は、「अनु (anu)」(従って)と「ग्रह (graha)」(掴む、受け取る)から成り、神の恩寵が魂に寄り添い支える様を表現しています。これは第19節の「प्रभु मुद्रिका (prabhu mudrikā)」(主の指輪)が象徴する神の加護の本質を明らかにしています。
「सुगम (sugama)」は「दुर्गम (durgama)」の対極として置かれ、神の恩寵による質的変容を示しています。これは「भक्ति (bhakti)」の本質的な特徴を表現しており、個人的な努力(प्रयत्न, prayatna)ではなく、神の慈愛による変容を強調しています。
この節は、ハヌマーン讃歌の重要な転換点となっています。具体的な物語から普遍的な霊的真理へ、個人的な武勇伝から神の恩寵の讃美へと、視点が深化されているのです。それは同時に、帰依者の道(भक्त मार्ग, bhakta mārga)における根本的な洞察を示しています。
第21節
राम दुआरे तुम रखवारे
होत ना आज्ञा बिनु पैसारे॥२१॥
rāma duāre tuma rakhavāre
hota nā ājñā binu paisāre ॥21॥
ラーマ神の御門を守護するあなたの
許可なくしては、誰も入ることはかないません。
逐語訳:
राम (rāma) - ラーマ神
दुआरे (duāre) - 門において [古典サンスクリット語のद्वार (dvāra)のアワディー語形]
तुम (tuma) - あなたは
रखवारे (rakhavāre) - 守護者 [古典サンスクリット語のरक्षक (rakṣaka)のアワディー語形]
होत (hota) - 生じる、起こる
ना (nā) - 否定辞「ない」
आज्ञा (ājñā) - 許可、命令
बिनु (binu) - 〜なくして
पैसारे (paisāre) - 入ること、進入 [古典サンスクリット語のप्रवेश (praveśa)のアワディー語形]
解説:
第21節は、前節で述べられた「अनुग्रह (anugraha)」(恩寵)の具体的な顕現として、ハヌマーン神の守護者としての側面を描写しています。
「राम दुआरे (rāma duāre)」は、物理的な門を超えた象徴的な意味を持ちます。「द्वार (dvāra)」は『उपनिषद् (upaniṣad)』において、しばしば霊的な悟りへの入り口を表す象徴として用いられます。ここでは「मोक्षद्वार (mokṣadvāra)」(解脱への門)としての深い意味を含んでいます。
「रखवारे (rakhavāre)」という役割は、第20節で示された「अनुग्रह (anugraha)」の媒介者としての機能を表しています。これは「भक्ति मार्ग (bhakti mārga)」(信愛の道)における「गुरु (guru)」(霊的導師)の役割と重なり合います。
「आज्ञा बिनु (ājñā binu)」という表現は、霊的な伝統における「परम्परा (paramparā)」(正統的な継承)の重要性を示唆しています。「आज्ञा (ājñā)」は単なる許可ではなく、霊的な権威に基づく導きを意味します。これは『योग दर्शन (yoga darśana)』における「आज्ञा चक्र (ājñā cakra)」(第六チャクラ)の機能とも関連しています。
この節は、前節までに描かれた超自然的な力や偉業が、最終的にはラーマ神への完全な奉仕(सेवा, sevā)という形で結実することを示しています。それは個人的な力や達成を超えて、神聖な秩序の守護者という普遍的な役割への昇華を表現しているのです。
第22節
सब सुख लहैं तुम्हारी सरना
तुम रक्षक काहु को डरना॥२२॥
saba sukha lahaiṃ tumhārī sarnā
tuma rakṣaka kāhu ko ḍarnā ॥22॥
あなたの御足に帰依する者は、すべての安楽を得られます。
あなたが守護者であるならば、何人も恐れることはありません。
逐語訳:
सब (saba) - すべての [古典サンスクリット語のसर्व (sarva)]
सुख (sukha) - 安楽、幸福、至福
लहैं (lahaiṃ) - 得る、獲得する [古典サンスクリット語のलभ् (labh)]
तुम्हारी (tumhārī) - あなたの(所有格)
सरना (sarnā) - 帰依、避難所 [古典サンスクリット語のशरण (śaraṇa)]
तुम (tuma) - あなたは
रक्षक (rakṣaka) - 守護者、保護者
काहु (kāhu) - 何人も、誰も [古典サンスクリット語のकश्चित् (kaścit)]
को (ko) - の、に対して(後置詞)
डरना (ḍarnā) - 恐れること
解説:
第22節は、前節で示されたハヌマーン神の守護者としての性質を、より普遍的な霊的真理として展開しています。
「सरना (sarnā)」は、単なる物理的な避難所ではなく、「शरणागति (śaraṇāgati)」という深い霊的概念を表現しています。これは『भागवत पुराण (bhāgavata purāṇa)』などで説かれる六種の帰依(षडङ्ग शरणागति, ṣaḍaṅga śaraṇāgati)を含意する重要な概念です。第21節の「राम दुआरे (rāma duāre)」(ラーマの御門)という具体的な表現が、ここでより本質的な霊的帰依の概念へと昇華されています。
「सब सुख (saba sukha)」は、世俗的な幸福(लौकिक सुख, laukika sukha)から最高の解脱の喜び(मोक्ष सुख, mokṣa sukha)まで、あらゆる次元の安楽を包含しています。これは第20節で言及された「दुर्गम काज (durgama kāja)」(困難な務め)の完全な克服から生じる結果を示しています。
第二行の「रक्षक (rakṣaka)」という表現は、「धर्म संस्थापन (dharma saṃsthāpana)」(正法の護持)という崇高な使命を示唆しています。これは『भगवद्गीता (bhagavadgītā)』における「धर्म संस्थापनार्थाय (dharma saṃsthāpanārthāya)」の理念と呼応しています。
この節は、前節までに描かれた守護者としての具体的な役割が、より普遍的な霊的保護へと昇華されることを示しています。それは個別的な恐れの克服から、究極的な安心(परम निर्भयता, parama nirbhayatā)の獲得へと導く、霊的な道筋を明らかにしているのです。
第23節
आपन तेज सम्हारो आपै
तीनों लोक हाँक तै कापै॥२३॥
āpana teja samhāro āpai
tīnoṃ loka hāṅka tai kāpai ॥23॥
あなたは自らの威光を完全に制御されながらも、
その一声で三界すべてを震撼させる力を持たれます。
逐語訳:
आपन (āpana) - 自身の、固有の [古典サンスクリット語のआत्मन् (ātman)]
तेज (teja) - 威光、神聖な輝き [古典サンスクリット語のतेजस् (tejas)]
सम्हारो (samhāro) - 制御する、保持する [古典サンスクリット語のसंहर् (saṃhṛ)]
आपै (āpai) - 自ら、自身によって
तीनों (tīnoṃ) - 三つの [古典サンスクリット語のत्रि (tri)]
लोक (loka) - 世界、領域
हाँक (hāṅka) - 叫び声、号令
तै (tai) - によって(具格の後置詞)
कापै (kāpai) - 震える、戦慄する [古典サンスクリット語のकम्प् (kamp)]
解説:
第23節は、前節までに描かれてきたハヌマーン神の守護者としての性質を、より深い霊的な次元から描写しています。
「तेज (tejas)」は、ウパニシャッド哲学において重要な概念の一つです。それは単に物理的な光や力にとどまらず、「ब्रह्मतेजस् (brahmatejas)」として知られる霊的な威光を表します。第20-22節で描かれた守護力の本質が、ここでより根源的な「तेज」として顕現されています。
「सम्हारो आपै」という表現は、完全な自己制御(आत्मसंयम, ātmasaṃyama)を示唆します。これは『योग सूत्र (yoga sūtra)』における「संयम (saṃyama)」の概念と呼応し、最高の力は最高の制御と不可分であることを示しています。第21-22節の守護者としての役割は、このような完全な自己制御に基づいているのです。
「तीनों लोक (tīnoṃ loka)」は、『वेद (veda)』以来の伝統的な宇宙観を反映しています。「भूर्लोक (bhūrloka)」(地界)、「भुवर्लोक (bhuvarloka)」(中界)、「स्वर्लोक (svarloka)」(天界)という三界は、第20節の「जगत (jagata)」がより具体的に展開された表現です。
「हाँक (hāṅka)」は単なる物理的な声ではなく、『मन्त्र शास्त्र (mantra śāstra)」における「वाक् शक्ति (vāk śakti)」(言葉の力)を想起させます。これは第22節の守護力が、音声を通じて顕現する様を示しています。
この節は、真の霊的な力の本質を明らかにしています。それは完全な自己制御と圧倒的な威光の調和であり、第20-22節で示された守護者としての機能の根源的な力の源泉を示しているのです。
第24節
भूत पिशाच निकट नहि आवै
महावीर जब नाम सुनावै॥२४॥
bhūta piśāca nikaṭa nahi āvai
mahāvīra jaba nāma sunāvai ॥24॥
魑魅魍魎も邪悪な霊も近づくことすらできません。
偉大なる勇者ハヌマーンの御名が唱えられる時には。
逐語訳:
भूत (bhūta) - 精霊、さまよう魂
पिशाच (piśāca) - 邪悪な霊、食人鬼
निकट (nikaṭa) - 近くに、付近に
नहि (nahi) - 否定辞「〜ない」
आवै (āvai) - 来る [古典サンスクリット語のआगच्छति (āgacchati)のアワディー語形]
महावीर (mahāvīra) - 偉大なる勇者(ハヌマーンの尊称)
जब (jaba) - 〜する時に
नाम (nāma) - 御名、名前
सुनावै (sunāvai) - 唱える、聞こえる [古典サンスクリット語のश्रावयति (śrāvayati)のアワディー語形]
解説:
第24節は、第23節で描かれた「तेज (tejas)」(神聖なる威光)の具体的な効果を、タントラ的な護摩儀礼の文脈から説明しています。
「भूत (bhūta)」と「पिशाच (piśāca)」は、タントラ文献において「भूत-प्रेत-पिशाच (bhūta-preta-piśāca)」として言及される超自然的存在の二種です。「भूत」は「भूतशुद्धि (bhūtaśuddhi)」という浄化儀礼の文脈でも重要な概念となっています。
「महावीर (mahāvīra)」という称号は、第23節の「तेज (tejas)」の持ち主としてのハヌマーン神の性質を表現しています。これは『रामचरितमानस (rāmacaritamānasa)』における「वीर (vīra)」の理念と深く結びついています。
「नाम सुनावै (nāma sunāvai)」は、「नामस्मरण (nāmasmaraṇa)」という修行法を示唆しています。これは第22節の「सरना (sarnā)」(帰依)の具体的な実践方法として理解できます。「मन्त्र विद्या (mantra vidyā)」の伝統では、音声の持つ霊的な力が重視されており、第23節の「हाँक (hāṅka)」(声)との関連で理解することができます。
この節は、前節までに描かれてきたハヌマーン神の守護力が、具体的な修行法としての「नामस्मरण」を通じて現実化される様を示しています。それは表面的な迷信的行為にとどまらず、「तेज」と「वाक् शक्ति (vāk śakti)」(言葉の力)の統合として理解されるべきものです。
第25節
नासै रोग हरे सब पीरा
जपत निरंतर हनुमत बीरा॥२५॥
nāsai roga hare saba pīrā
japata nirantara hanumata bīrā ॥25॥
あらゆる病苦は消え去り、すべての苦悩は取り除かれます。
勇者ハヌマーンの御名を絶えることなく念じる時に。
逐語訳:
नासै (nāsai) - 消滅する、消え去る [古典サンスクリット語のनश् (naś)]
रोग (roga) - 病、病苦
हरे (hare) - 取り除く、除去する [古典サンスクリット語のहृ (hṛ)]
सब (saba) - すべての [古典サンスクリット語のसर्व (sarva)]
पीरा (pīrā) - 苦悩、心身の苦痛 [古典サンスクリット語のपीडा (pīḍā)]
जपत (japata) - 念じる、唱える [古典サンスクリット語のजप् (jap)]
निरंतर (nirantara) - 絶え間なく、継続的に
हनुमत (hanumata) - ハヌマーンの [古典サンスクリット語のहनुमत् (hanumat)]
बीरा (bīrā) - 勇者 [古典サンスクリット語のवीर (vīra)]
解説:
第25節は、前節で示された「नाम (nāma)」(御名)の力が、より具体的な救済の文脈で展開されています。
「रोग (roga)」と「पीरा (pīrā)」は、アーユルヴェーダの伝統における「व्याधि (vyādhi)」の二つの側面を表現しています。「रोग」は身体的な疾病を、「पीरा」は「दुःख (duḥkha)」に通じる広義の苦悩を意味します。これは第24節の「भूत पिशाच (bhūta piśāca)」による外的な障害から、より内的な苦悩へと視点を展開させています。
「जपत निरंतर (japata nirantara)」は、「जप योग (japa yoga)」の実践を指します。「जप」は『पातञ्जल योग सूत्र (pātañjala yoga sūtra)』でも言及される重要な修練法です。「निरंतर」という語は、「स्मृति प्रवाह (smṛti pravāha)」(記憶の連続的な流れ)という瞑想的状態を示唆しています。
「हनुमत बीरा (hanumata bīrā)」という呼称は、第24節の「महावीर (mahāvīra)」を受け継ぎながら、より親密な表現となっています。これは「वीर भाव (vīra bhāva)」(勇者的な心性)と「दास्य भाव (dāsya bhāva)」(奉仕者としての心性)の調和を表現しています。
この節は、前節までの護摩的な力の表現から、より普遍的な救済の力へと展開しています。それは「नामस्मरण (nāmasmaraṇa)」という修行法を通じて、人々の具体的な苦悩からの解放を約束するものです。ここでの救済は、見かけ上の治癒にとどまらず、持続的な霊的実践を通じた内的な変容として理解されます。
第26節
संकट तै हनुमान छुडावै
मन क्रम वचन ध्यान जो लावै॥२६॥
saṅkaṭa tai hanumāna chuḍāvai
mana krama vacana dhyāna jo lāvai ॥26॥
身と言葉と心を一つに集中して
ハヌマーン神を深く瞑想する者を、あらゆる苦難から解き放ってくださいます。
逐語訳:
संकट (saṅkaṭa) - 苦難、困難、束縛
तै (tai) - から(奪格の後置詞)
हनुमान (hanumāna) - ハヌマーン神
छुडावै (chuḍāvai) - 解放する、解き放つ [古典サンスクリット語のछुट् (chuṭ)]
मन (mana) - 心、思考 [古典サンスクリット語のमनस् (manas)]
क्रम (krama) - 行為、身体的実践
वचन (vacana) - 言葉、音声
ध्यान (dhyāna) - 瞑想、深い観想
जो (jo) - 〜する者、〜する人
लावै (lāvai) - 向ける、集中する [古典サンスクリット語のलग् (lag)]
解説:
第26節は、第23-25節で展開された救済の主題を、より深い霊的実践の文脈で統合しています。
「मन क्रम वचन (mana krama vacana)」は、ヨーガの伝統における「त्रिकरण शुद्धि (trikaraṇa śuddhi)」(三つの浄化)の概念を反映しています。これは『योग सूत्र (yoga sūtra)』における「चित्त वृत्ति निरोध (citta vṛtti nirodha)」(心の変容の制御)を、全人格的な実践として展開したものです。
मन (mana):内的な意識の次元
क्रम (krama):身体的な実践の次元
वचन (vacana):音声的表現の次元
「ध्यान लावै (dhyāna lāvai)」という表現は、第25節の「जपत निरंतर (japata nirantara)」をより深化させています。これは「जप (japa)」から「ध्यान (dhyāna)」への展開、すなわち外的な実践から内的な観想への深化を示しています。
「संकट (saṅkaṭa)」は、第24-25節の「भूत पिशाच (bhūta piśāca)」や「रोग पीरा (roga pīrā)」を包括する、より根源的な「बन्धन (bandhana)」(束縛)の状態を指します。ここでの解放は、「मोक्ष (mokṣa)」の理念に通じる霊的な自由を示唆しています。
この節は、ハヌマーン神への帰依が、身体・言葉・心の完全な統合を通じて、究極的な解放へと導くことを明らかにしています。それは第23-25節で示された個別的な救済の力が、普遍的な霊的解放の文脈で完成される様を描き出しているのです。
第27節
सब पर राम तपस्वी राजा
तिनके काज सकल तुम साजा॥२७॥
saba para rāma tapasvī rājā
tinake kāja sakala tuma sājā ॥27॥
万物を超えて立つラーマは苦行と王道を極めし方、
その御方の神聖なる使命を、あなたはことごとく成就されました。
逐語訳:
सब (saba) - すべての、万物の [古典サンスクリット語のसर्व (sarva)]
पर (para) - を超えて、最高の
राम (rāma) - ラーマ神
तपस्वी (tapasvī) - 苦行者、苦行を極めし者 [古典サンスクリット語のतपस्विन् (tapasvin)]
राजा (rājā) - 王者、統治者
तिनके (tinake) - その方の、彼の [代名詞の属格形]
काज (kāja) - 使命、神聖なる任務 [古典サンスクリット語のकार्य (kārya)]
सकल (sakala) - すべての、完全な
तुम (tuma) - あなた [古典サンスクリット語のत्वम् (tvam)]
साजा (sājā) - 成就した、完遂した
解説:
第27節は、第26節までに描かれた献身と解放の主題を、ラーマ神とハヌマーン神の理想的な関係性という文脈で深化させています。
「तपस्वी राजा (tapasvī rājā)」という表現は、『रामायण (rāmāyaṇa)』の二つの重要な側面を統合しています。「तपस्वी」は「तपस् (tapas)」(苦行による霊的エネルギー)の完成者を意味し、「राजा」は「धर्म (dharma)」に基づく理想的統治者を表します。これは「राज ऋषि (rāja ṛṣi)」(王仙)の伝統を体現しています。
「सब पर (saba para)」は、第24-26節で描かれたハヌマーン神の救済力の源泉を示しています。「पर」は単なる比較級的優位ではなく、「परब्रह्मन् (parabrahman)」の概念に通じる超越性を表現しています。
「काज सकल (kāja sakala)」という表現は、第25-26節の個別的な救済行為を、より大きな神聖なる計画(「लीला (līlā)」)の文脈で位置づけています。これは「धर्म संस्थापन (dharma saṃsthāpana)」(正法の確立)という普遍的使命を示唆しています。
「तुम साजा (tuma sājā)」は、第26節の「ध्यान (dhyāna)」の完成としての行為を表現しています。これは「कर्म योग (karma yoga)」の理想、すなわち完全な献身(「भक्ति (bhakti)」)と完全な行為(「कर्म (karma)」)の統合を示しています。
この節は、個人的な救済と宇宙的な秩序の回復という二つの次元を巧みに結びつけています。それは「भक्ति (bhakti)」の最高の形態として、個と普遍の完全な調和を描き出しているのです。
第28節
और मनोरथ जो कोई लावै
सोई अमित जीवन फल पावै॥२८॥
aura manoratha jo koī lāvai
soī amita jīvana phala pāvai ॥28॥
そして、誠実な願いを抱いてハヌマーン神に近づく者は誰でも、
その人は、生命の無限なる果実を授かることでしょう。
逐語訳:
और (aura) - そして、さらに
मनोरथ (manoratha) - 心からの願い、精神的な志向
जो (jo) - 〜する者、関係代名詞
कोई (koī) - 誰でも、どのような人も
लावै (lāvai) - 向ける、捧げる [古典サンスクリット語のलग् (lag)]
सोई (soī) - その者は、まさにその人は
अमित (amita) - 無量の、無限の
जीवन (jīvana) - 生命、生の本質
फल (phala) - 果実、成就
पावै (pāvai) - 得る、授かる [古典サンスクリット語のप्राप् (prāp)]
解説:
第28節は、第27節で描かれたラーマ神への完全な奉仕を成就したハヌマーン神の恩寵の普遍性について語っています。
「मनोरथ (manoratha)」は、मनस् (manas、心)とरथ (ratha、戦車)からなる複合語です。これは「心の戦車」という美しい詩的表現で、人間の深い精神的志向性を表現しています。第26節の「मन क्रम वचन (mana krama vacana)」における「मन」の次元がより深く展開されたものと理解できます。
「लावै (lāvai)」という動詞の選択は重要です。これは単に心で抱くだけの願いにとどまらず、第26節の「ध्यान लावै (dhyāna lāvai)」と呼応して、深い献身的態度(「भक्ति भाव (bhakti bhāva)」)を示唆しています。
「अमित जीवन फल (amita jīvana phala)」という表現は、第25-26節で示された個別的な救済を超えた、より根源的な恩寵を表現しています。「जीवन」は単なる現世的生命ではなく、「आत्मन् (ātman)」に通じる生命の本質を、「फल」は「मोक्ष (mokṣa)」に通じる究極的な成就を示唆しています。
特に注目すべきは「अमित (amita)」という形容です。これは第27節の「सब पर (saba para)」の超越性と呼応しながら、その恩寵が人間の概念的理解を超えた無限性を持つことを示しています。
この節は、ハヌマーン神への献身が、個人的な願望の成就という次元を超えて、生命の本質的な変容と完成をもたらすことを明らかにしています。それは「भक्ति मार्ग (bhakti mārga)」における究極的な約束として理解されます。
第29節
चारों जुग परताप तुम्हारा
है परसिद्ध जगत उजियारा॥२९॥
cāroṃ juga paratāpa tumhārā
hai prasiddha jagata ujiyārā ॥29॥
四つのユガを貫いて輝くあなたの威光は、
この世界を照らす永遠の光明として広く称えられています。
逐語訳:
चारों (cāroṃ) - 四つの
जुग (juga) - ユガ、世界時代 [古典サンスクリット語のयुग (yuga)]
परताप (paratāpa) - 威光、霊的な輝き [古典サンスクリット語のप्रताप (pratāpa)]
तुम्हारा (tumhārā) - あなたの、ハヌマーン神の
है (hai) - である、存在する [古典サンスクリット語のअस्ति (asti)]
परसिद्ध (prasiddha) - 広く知られた、称えられた [古典サンスクリット語のप्रसिद्ध (prasiddha)]
जगत (jagata) - 世界、宇宙
उजियारा (ujiyārā) - 光明、霊的な輝き [古典サンスクリット語のउज्ज्वल (ujjvala)]
解説:
第29節は、第27-28節で描かれたハヌマーン神の普遍的な恩寵の力を、時間と空間を超えた永遠の光明として讃えています。
「चारों जुग (cāroṃ juga)」は、ヒンドゥー教の宇宙論における四つの世界時代「चतुर्युग (caturyuga)」を指します。「सत्य युग (satya yuga)」から「कलि युग (kali yuga)」に至る四つの時代は、宇宙の循環的時間の全体性を象徴しています。これは第27節の「सब पर (saba para)」の超越性を、時間的次元で表現したものです。
「परताप (paratāpa)」は、単なる威光や力ではなく、「प्र (pra)」(卓越した)と「ताप (tāpa)」(熱、光輝)からなる複合語で、第28節の「अमित जीवन फल (amita jīvana phala)」の顕現としての霊的な輝きを表しています。
「जगत उजियारा (jagata ujiyārā)」という表現は、第26節の「ध्यान (dhyāna)」による内的な光明が、宇宙的な次元で顕現したことを示しています。これは「ज्ञान प्रकाश (jñāna prakāśa)」(智慧の光)としての性質を持ち、「अविद्या (avidyā)」(無明)を払拭する力を象徴しています。
「परसिद्ध (prasiddha)」という語は、この光明が「लोक (loka)」(世界)全体に遍満していることを示唆しています。これは第27節で描かれた「राम काज (rāma kāja)」(神聖なる使命)の永遠の成就として理解できます。
この節は、ハヌマーン神の威光を、時空を超えた永遠の霊的原理として讃えています。それは個人的な救済力を超えて、宇宙的な光明として輝き続けることを示しているのです。
第30節
साधु संत के तुम रखवारे
असुर निकंदन राम दुलारे॥३०॥
sādhu santa ke tuma rakhavāre
asura nikandana rāma dulāre ॥30॥
聖者たちの守護者にしてラーマ神の寵愛を受ける方よ、
あなたは邪悪なる力を根絶する神聖なる戦士です。
逐語訳:
साधु (sādhu) - 聖者、徳高き求道者
संत (santa) - 聖人、悟りに達した者
के (ke) - の(属格助詞)
तुम (tuma) - あなた [古典サンスクリット語のत्वम् (tvam)]
रखवारे (rakhavāre) - 守護者、庇護者 [古典サンスクリット語のरक्षक (rakṣaka)]
असुर (asura) - 阿修羅、邪悪な力
निकंदन (nikandana) - 根絶する者、完全に打ち破る者
राम (rāma) - ラーマ神
दुलारे (dulāre) - 寵愛を受ける者、最も愛される者
解説:
第30節は、第29節で描かれた「जगत उजियारा (jagata ujiyārā)」(世界を照らす光明)としてのハヌマーン神の働きを、より具体的な形で表現しています。
「साधु संत (sādhu santa)」という表現は、深い意味を持っています。「साधु」は「साधना (sādhana)」(霊的修練)に励む求道者を、「संत」は「सत् (sat)」(真実)を体現した悟得者を指し、霊的進化の異なる段階にある実践者たちを包括的に表現しています。これは第28節の「मनोरथ (manoratha)」(心からの願い)を抱く者たちの集合として理解できます。
「रखवारे (rakhavāre)」という語は、「रक्षा (rakṣā)」(守護)の行為者を表しますが、表面的な物理的保護ではなく、「धर्म (dharma)」の護持者としての機能を示唆しています。これは第27節の「राम काज (rāma kāja)」(神聖なる使命)の具体的な顕現です。
「असुर निकंदन (asura nikandana)」は、「नि (ni)」(完全に)と「कन्द् (kand)」(断つ)から構成され、邪悪な力の完全な根絶を意味します。これは第29節の「परताप (pratāpa)」(威光)の実践的側面を表現しています。
「राम दुलारे (rāma dulāre)」という表現は、第28節の「अमित जीवन फल (amita jīvana phala)」(無限なる生命の果実)の源泉を示しています。「दुलारे」は単なる愛情ではなく、「भक्ति (bhakti)」の完成としての神聖な絆を表現しています。
この節は、ハヌマーン神の二重の性質—慈悲深い守護者と強力な戦士—を見事に統合しています。それは「भक्ति (bhakti)」と「शक्ति (śakti)」(力)の完全な調和を体現する理想的な神性の表現となっています。
第31節
अष्ट सिद्धि नौ निधि के दाता
अस बर दीन जानकी माता॥३१॥
aṣṭa siddhi nau nidhi ke dātā
asa bara dīna jānakī mātā ॥31॥
八つの完成力と九つの神聖なる宝を授ける方よ、
このような至高の恩寵を、ジャーナキー母神があなたに授けられました。
逐語訳:
अष्ट (aṣṭa) - 八つの
सिद्धि (siddhi) - 完成力、神通力
नौ (nau) - 九つの
निधि (nidhi) - 神聖なる宝、霊的財宝
के (ke) - の(属格助詞)
दाता (dātā) - 授与者、施与者 [古典サンスクリット語のदातृ (dātṛ)]
अस (asa) - このような
बर (bara) - 恩寵、祝福 [古典サンスクリット語のवर (vara)]
दीन (dīna) - 授けられた、与えられた
जानकी (jānakī) - ジャーナキー(シーター女神の尊称)
माता (mātā) - 母神、聖母
解説:
第31節は、第30節で示されたハヌマーン神の守護者としての力の源泉を明らかにしています。
「सिद्धि (siddhi)」は、単なる超自然的能力ではなく、「साधना (sādhana)」による霊的完成の結果として得られる完成力を意味します。第30節の「साधु संत (sādhu santa)」の守護に必要な力の基盤となるものです。八つの完成力は:
अणिमा (aṇimā) - 微細化の力
महिमा (mahimā) - 拡大の力
गरिमा (garimā) - 重力支配の力
लघिमा (laghimā) - 軽量化の力
प्राप्ति (prāpti) - 到達の力
प्राकाम्य (prākāmya) - 意志実現の力
ईशित्व (īśitva) - 主宰の力
वशित्व (vaśitva) - 自在の力
「निधि (nidhi)」は、कुबेर (kubera) 神が司る九種の神聖なる宝を指します。これらは物質的繁栄のみならず、「धर्म (dharma)」の完成に必要な霊的資質を象徴しています。
特に重要なのは、これらの力が「जानकी माता (jānakī mātā)」から授けられたという点です。シーター女神は「शक्ति (śakti)」の化身として、第29節の「परताप (pratāpa)」の根源的な授与者となっています。これは「भक्ति (bhakti)」と「शक्ति (śakti)」の完全な統合を示唆しています。
この節は、ハヌマーン神の超自然的能力が、力の見せつけにとどまらない、神聖な母性原理からの祝福として与えられた、深い霊的意義を持つものであることを明らかにしています。
第32節
राम रसायन तुम्हरे पासा
सदा रहो रघुपति के दासा॥३२॥
rāma rasāyana tumhare pāsā
sadā raho raghupati ke dāsā ॥32॥
ラーマという不死の霊薬をあなたは体現され、
永遠にラグ族の主の献身者として在り続けられます。
逐語訳:
राम (rāma) - ラーマ神の名
रसायन (rasāyana) - 不死の霊薬、生命力を高める神聖な妙薬
तुम्हरे (tumhare) - あなたの
पासा (pāsā) - もとに、内に保持して
सदा (sadā) - 永遠に、常に
रहो (raho) - 留まる、存在し続ける
रघुपति (raghupati) - ラグ族の主(ラーマ神の尊称)
के (ke) - の(属格助詞)
दासा (dāsā) - 献身者、帰依者
解説:
第32節は、前節までに描かれたハヌマーン神の神聖な力の本質を、アーユルヴェーダの「रसायन (rasāyana)」という概念を用いて深く洞察しています。
「राम रसायन (rāma rasāyana)」は重要な象徴的表現です。「रसायन」は古代インドの医術における最高の治療法で、生命力を活性化し、不死性をもたらす霊薬を意味します。ここでは、ラーマ神への純粋な帰依(भक्ति, bhakti)自体が、存在全体を変容させる霊的な「रसायन」として描かれています。これは第31節の「अष्ट सिद्धि (aṣṭa siddhi)」の内的な源泉を示唆しています。
「तुम्हरे पासा (tumhare pāsā)」という表現は、この霊薬が外的な所有物という枠を超えて、ハヌマーン神の存在と一体となっていることを示します。これは第30節の「राम दुलारे (rāma dulāre)」(ラーマの寵愛を受ける者)という性質の内的な実現として理解できます。
「सदा रहो (sadā raho)」は、第29節の「चारों जुग (cāroṃ juga)」で示された時間的普遍性を、個人的な献身の文脈で深化させています。「रघुपति के दासा (raghupati ke dāsā)」は、完全な帰依の境地を表現しています。ここでの「दासा」は形式的な従者の域を超えた、神との深い霊的な合一を実現した献身者を意味します。
この節は、神への純粋な帰依が持つ変容的な力を、伝統的な「रसायन」の概念を通じて表現しています。それは第31節で示された神聖な力の根源が、実は完全な献身にあることを明らかにしています。
第33節
तुम्हरे भजन राम को पावै
जनम जनम के दुख बिसरावै॥३३॥
tumhare bhajana rāma ko pāvai
janama janama ke dukha bisarāvai ॥33॥
あなたへの献身的な礼拝を通じてラーマ神との合一を得、
幾多の生涯を通じて積み重ねた苦しみが消え去ります。
逐語訳:
तुम्हरे (tumhare) - あなたの
भजन (bhajana) - 献身的な礼拝、神への深い瞑想
राम (rāma) - ラーマ神
को (ko) - を(目的格助詞)
पावै (pāvai) - 獲得する、到達する [古典サンスクリット語のप्राप् (prāp)]
जनम (janama) - 生、生存 [古典サンスクリット語のजन्मन् (janman)]
जनम (janama) - 生(重複による強調)
के (ke) - の(属格助詞)
दुख (dukha) - 苦悩、苦しみ [古典サンスクリット語のदुःख (duḥkha)]
बिसरावै (bisarāvai) - 消滅させる、完全に取り除く [古典サンスクリット語のविस्मृ (vismṛ)]
解説:
第33節は、第32節で示された「राम रसायन (rāma rasāyana)」(ラーマという不死の霊薬)の実践的な効果を、解脱論的な文脈で展開しています。
「भजन (bhajana)」は、単に讃歌を唱えるだけではない、より深い意味を持ちます。それは「भज् (bhaj)」(分かち合う、参与する)という語根に由来し、神との深い交わりを目指す全人格的な献身を意味します。これは第32節の「दासा (dāsā)」(献身者)の実践的側面を表現しています。
「राम को पावै (rāma ko pāvai)」は、ウパニシャッドの「तत् त्वम् असि (tat tvam asi)」(それがあなたである)という真理の実現を示唆しています。第31節の「अष्ट सिद्धि (aṣṭa siddhi)」(八つの完成力)は、この究極的な合一に至る道程として位置づけられます。
「जनम जनम (janama janama)」という重複表現は、「संसार (saṃsāra)」(輪廻)の長大な過程を強調しています。これは第32節の「सदा (sadā)」(永遠に)という時間性を、解脱の文脈で捉え直したものです。
「दुख बिसरावै (dukha bisarāvai)」は、仏教の「दुःखनिरोध (duḥkhanirodha)」(苦の滅)に通じる概念ですが、ここではバクティ・ヨーガによる解決が示されています。これは第31節の「निधि (nidhi)」(神聖なる宝)の最高の成就として理解できます。
この節は、ハヌマーン神への献身が持つ解脱論的な意義を明確に示しています。それは個人的な苦悩の超克から、究極的な神との合一へと至る道筋を開示する、バクティ・ヨーガの本質的な教えとなっています。
第34節
अंतकाल रघुवरपुर जाई
जहाँ जन्म हरिभक्त कहाई॥३४॥
antakāla raghuvarapura jāī
jahāṃ janma haribhakta kahāī ॥34॥
最期の時には聖なるアヨーディヤーに至り、
そこで生を受けて、神の純粋な帰依者として知られることでしょう。
逐語訳:
अंतकाल (antakāla) - 最期の時、臨終の刻
रघुवर (raghuvara) - ラグ族の最勝者(ラーマ神の尊称)
पुर (pura) - 都、聖都
जाई (jāī) - 至る、到達する [古典サンスクリット語のया (yā)]
जहाँ (jahāṃ) - そこで、その聖地において
जन्म (janma) - 生、誕生 [古典サンスクリット語のजन्मन् (janman)]
हरि (hari) - ハリ(至高神の尊称)
भक्त (bhakta) - 純粋な帰依者
कहाई (kahāī) - ~として知られる、称される [古典サンスクリット語のकथ् (kath)]
解説:
第34節は、前節までに説かれた霊的実践の究極的な成就を描写しています。
「अंतकाल (antakāla)」は、バガヴァッド・ギーターの「अन्तकाले च मामेव स्मरन् (antakāle ca mām eva smaran)」(最期の時にわたしを想起して)という教えを想起させます。これは第33節の「भजन (bhajana)」の実践が、最も重要な瞬間において結実することを示しています。
「रघुवरपुर (raghuvarapura)」は、物理的な場所としてのアヨーディヤーを指すと同時に、「वैकुण्ठ (vaikuṇṭha)」(解脱の境地)を象徴しています。これは第32節の「राम रसायन (rāma rasāyana)」の完全な実現の場として描かれています。
「जन्म हरिभक्त (janma haribhakta)」という表現は、単なる再生ではなく、「मुक्ति (mukti)」(解脱)と「भक्ति (bhakti)」(純粋な帰依)の完全な統合を示唆しています。これは第33節の「राम को पावै (rāma ko pāvai)」(ラーマとの合一)がもたらす永続的な状態を表現しています。
ここでの「भक्त (bhakta)」は、「सगुण (saguṇa)」と「निर्गुण (nirguṇa)」の二元を超えた、最高の霊的実現を示しています。第31節の「अष्ट सिद्धि (aṣṭa siddhi)」も、このような純粋な帰依の状態において初めてその真の意味を見出すのです。
この節は、ハヌマーン神への帰依が導く究極の目的地を明らかにしています。それは死と再生という二元を超えた、永遠の霊的実現の境地として描かれているのです。
第35節
और देवता चित्त ना धरई
हनुमत सेई सर्व सुख करई॥३५॥
aura devatā citta nā dharaī
hanumata seī sarva sukha karaī ॥35॥
他の神々に心を留めることなく、
ハヌマーン神への奉仕のみが、あらゆる安楽をもたらします。
逐語訳:
और (aura) - 他の、その他の
देवता (devatā) - 神々、天神
चित्त (citta) - 心、意識
ना (nā) - 否定辞「〜ない」
धरई (dharaī) - 保持する、留める [古典サンスクリット語のधृ (dhṛ)]
हनुमत (hanumata) - ハヌマーン神
सेई (seī) - 奉仕、献身的な仕え [古典サンスクリット語のसेव् (sev)]
सर्व (sarva) - すべての、あらゆる
सुख (sukha) - 安楽、至福
करई (karaī) - もたらす、実現する [古典サンスクリット語のकृ (kṛ)]
解説:
第35節は、第34節で示された「हरिभक्त (haribhakta)」(神の純粋な帰依者)の実践的な在り方を、एकनिष्ठा (ekaniṣṭhā)(一点集中的な専心)の観点から明示しています。
「चित्त (citta)」は、ヨーガ哲学において重要な概念です。パタンジャリの『ヨーガ・スートラ』冒頭の「योग: चित्तवृत्तिनिरोध: (yogaś cittavṛttinirodhaḥ)」(ヨーガとは心の働きの止滅である)という定義を想起させます。この文脈で「चित्त ना धरई」は、心の完全な統一を意味します。
「हनुमत सेई (hanumata seī)」は、第32節の「राम रसायन (rāma rasāyana)」の実践的側面を示しています。ここでの「सेई (seī)」は、भक्ति (bhakti) の九つの形態の一つである「दास्य (dāsya)」(奉仕的献身)を特に強調しています。
「सर्व सुख (sarva sukha)」という表現は、第33節の「दुख बिसरावै (dukha bisarāvai)」(苦の消滅)を補完するものです。これは単なる苦の不在ではなく、आनन्द (ānanda)(至福)の積極的な実現を意味します。
この節は、第34節で示された「हरिभक्त (haribhakta)」の境地に至る具体的な方法として、एकाग्रता (ekāgratā)(一点集中)の重要性を説いています。それは心の散乱を防ぎ、純粋な帰依を通じて完全な解脱と至福をもたらす道筋として描かれています。
第36節
संकट कटै मिटै सब पीरा
जो सुमिरै हनुमत बलबीरा॥३६॥
saṅkaṭa kaṭai miṭai saba pīrā
jo sumirai hanumata balabīrā ॥36॥
力と勇気に満ちたハヌマーン神を心に深く念じる者は、
あらゆる困難から解き放たれ、すべての苦悩が消え去ります。
逐語訳:
संकट (saṅkaṭa) - 困難、危機、障害
कटै (kaṭai) - 切断される、解放される [古典サンスクリット語のकृत् (kṛt)]
मिटै (miṭai) - 消滅する、消え去る
सब (saba) - すべての、一切の [古典サンスクリット語のसर्व (sarva)]
पीरा (pīrā) - 苦悩、痛み、苦痛 [古典サンスクリット語のपीडा (pīḍā)]
जो (jo) - 〜する者は、〜する人は(関係代名詞)
सुमिरै (sumirai) - 深く念じる、憶念する [古典サンスクリット語のस्मृ (smṛ)]
हनुमत (hanumata) - ハヌマーン神
बलबीरा (balabīrā) - 力と勇気に満ちた者 [बल (bala) 力 + वीर (vīra) 勇者]
解説:
第36節は、第35節で説かれた「एकनिष्ठा (ekaniṣṭhā)」(一点集中的な専心)の具体的な効果を、日常的な苦悩からの解放という観点から詳述しています。
「सुमिरै (sumirai)」は、ヨーガの伝統における「स्मृति (smṛti)」の実践を示唆します。これは表面的な記憶や想起ではなく、「स्मृति प्रवाह (smṛti pravāha)」(記憶の絶え間ない流れ)として、持続的な意識の集中を意味します。第35節の「चित्त धरई (citta dharaī)」(心を留める)をより深い実践として展開しています。
「संकट (saṅkaṭa)」と「पीरा (pīrā)」は、人生における二種の苦しみを表現します。「संकट」は外的な困難や障害を、「पीरा」は内的な苦悩や心の痛みを指します。これは「दुःख (duḥkha)」の二つの側面として理解できます。
「बलबीरा (balabīrā)」という称号は、「बल (bala)」(力)と「वीर (vīra)」(勇気)の完全な統合を表現します。これは第35節の「सर्व सुख (sarva sukha)」(完全な安楽)をもたらす神的な力の源泉として描かれています。
この節は、「भक्ति (bhakti)」の実践が、霊的な解放だけでなく、現実生活における具体的な苦悩からの解放をもたらすことを強調しています。「कटै (kaṭai)」と「मिटै (miṭai)」という二つの動詞の使用は、この解放の完全性と不可逆性を示唆しています。これは第33節の「दुख बिसरावै (dukha bisarāvai)」(苦しみが消え去る)という約束の具体的な実現として理解できます。
第37節
जै जै जै हनुमान गुसाईँ
कृपा करहु गुरु देव की नाई॥३७॥
jai jai jai hanumāna gusāīṃ
kṛpā karahu guru deva kī nāī ॥37॥
栄光あれ、栄光あれ、栄光あれ、主ハヌマーン神よ、
神聖なる導師のごとく、慈悲の恩寵を注ぎたまえ。
逐語訳:
जै (jai) - 栄光、勝利 [古典サンスクリット語のजय (jaya)]
हनुमान (hanumāna) - ハヌマーン神
गुसाईँ (gusāīṃ) - 主、神聖なる支配者 [古典サンスクリット語のगोस्वामिन् (gosvāmin)]
कृपा (kṛpā) - 慈悲、恩寵
करहु (karahu) - 与えたまえ(敬意を込めた命令形)[古典サンスクリット語のकृ (kṛ)]
गुरु (guru) - 導師、精神的指導者
देव (deva) - 神
की (kī) - 〜の(所有格助詞)
नाई (nāī) - のように、ごとく
解説:
第37節は、ハヌマーン・チャーリーサーの最終部に向けて、讃歌の感動的な頂点を形成しています。
「जै जै जै (jai jai jai)」(栄光あれ)の三度の繰り返しには深い意味があります。ヒンドゥー教の伝統において、三度の繰り返しは完全性と永遠性を象徴します。これは第35節で説かれた「एकनिष्ठ भक्ति (ekaniṣṭha bhakti)」(専一な帰依)の感情的な昇華であり、第36節で約束された「संकट (saṅkaṭa)」(困難)からの解放への深い確信を表現しています。
「गुसाईँ (gusāīṃ)」という称号は、「गो (go)」(感覚)の「स्वामिन् (svāmin)」(主)という語源に基づき、完全な自己制御を成就した存在を意味します。これは第35節の「चित्त (citta)」の制御という主題を完成させる表現です。
「गुरु देव की नाई (guru deva kī nāī)」は、ハヌマーン神の二重の性質を表現しています。「गुरु (guru)」は無明の闇を払う導師としての性質を、「देव (deva)」は神聖な光明を与える神性を表します。これは第34節の「अंतकाल (antakāla)」(最期の時)における導きの約束と呼応しています。
「कृपा करहु (kṛpā karahu)」という祈願は、前節までに描かれた様々な恩寵—第35節の「सर्व सुख (sarva sukha)」(完全な安楽)や第36節の「संकट (saṅkaṭa)」(困難)からの解放—の総括的な請願となっています。この表現は、知的理解を超えた純粋な帰依の感情(भक्ति भाव, bhakti bhāva)への昇華を示しています。
この節は、讃歌全体を通じて描かれてきたハヌマーン神の多面的な性質—力強き守護者、慈悲深き導師、解放をもたらす救済者—への完全な信頼と帰依の表明となっています。
第38節
जो सत बार पाठ कर कोई
छूटहि बंदि महा सुख होई॥३८॥
jo sata bāra pāṭha kara koī
chūṭahi bandi mahā sukha hoī ॥38॥
この神聖なる讃歌を百回、心を込めて唱える者は誰であれ、
あらゆる束縛から解き放たれ、最高の至福を得るでしょう。
逐語訳:
जो (jo) - 〜する者は(関係代名詞)
सत (sata) - 百 [古典サンスクリット語のशत (śata)]
बार (bāra) - 回、度
पाठ (pāṭha) - 読誦、聖典の朗読
कर (kara) - する、行う [古典サンスクリット語のकृ (kṛ)]
कोई (koī) - 誰であれ、いかなる人も
छूटहि (chūṭahi) - 解放される、解き放たれる
बंदि (bandi) - 束縛、拘束 [古典サンスクリット語のबन्ध (bandha)]
महा (mahā) - 最高の、究極の
सुख (sukha) - 至福、安楽
होई (hoī) - 生じる、得られる
解説:
第38節は、ハヌマーン・チャーリーサーの功徳(फल श्रुति, phala śruti)を説く部分の始まりです。第37節で示された帰依の感情が、具体的な修行法とその成果へと展開されています。
「सत बार (sata bāra)」(百回)という数は、象徴的な意味を持ちます。ヒンドゥー教の伝統において、数百(शत, śata)は完全性と全体性を表します。これは第37節の「जै जै जै (jai jai jai)」の三重の讃嘆が示す完全性をさらに深化させた表現です。
「पाठ (pāṭha)」は、形式的な暗唱ではありません。第35節の「चित्त धरई (citta dharaī)」(心を向ける)の実践として、深い信愛(भक्ति, bhakti)と集中(एकाग्रता, ekāgratā)を伴う読誦を意味します。
「बंदि (bandi)」は、ヨーガ哲学でいう「बन्ध (bandha)」の概念を指します。これは物質的な制約(प्राकृतिक बन्धन, prākṛtika bandhana)のみならず、無明による精神的束縛(आध्यात्मिक बन्धन, ādhyātmika bandhana)をも含みます。第36節の「संकट (saṅkaṭa)」からの解放がより深い霊的次元で展開されているのです。
「महा सुख (mahā sukha)」は、第35節の「सर्व सुख (sarva sukha)」の完成形として理解できます。これは世俗的な幸福を超えた、解脱(मोक्ष, mokṣa)に伴う永遠の至福(परमानन्द, paramānanda)を意味します。
この節は、信仰(श्रद्धा, śraddhā)と実践(साधना, sādhanā)の調和を説き、前節までの devotional な感情を具体的な修行の道筋へと導いています。それは日々の実践を通じて究極的解放に至る道を示す、実践的な指針となっています。
第39節
जो यह पढ़े हनुमान चालीसा
होय सिद्ध साखी गौरीसा॥३९॥
jo yaha paḍhe hanumāna cālīsā
hoya siddha sākhī gaurīsā ॥39॥
このハヌマーン・チャーリーサーを信愛をもって読誦する者は、
シヴァ神御自身が証人となりて、必ずや霊的な完成を得るでしょう。
逐語訳:
जो (jo) - 〜する者は(関係代名詞)
यह (yaha) - この [古典サンスクリット語のइदम् (idam)]
पढ़े (paḍhe) - 読誦する、朗読する [古典サンスクリット語のपठ् (paṭh)]
हनुमान चालीसा (hanumāna cālīsā) - ハヌマーン・チャーリーサー(四十の詩節からなる讃歌)
होय (hoya) - 〜となる [古典サンスクリット語のभू (bhū)]
सिद्ध (siddha) - 完成された、成就した
साखी (sākhī) - 証人、証言者 [古典サンスクリット語のसाक्षिन् (sākṣin)]
गौरीसा (gaurīsā) - シヴァ神(ガウリー女神の主) [गौरी (gaurī) + ईश (īśa)]
解説:
第39節は、第38節で説かれた功徳をさらに強調し、最高神シヴァ(गौरीसा, gaurīsā)自身による保証を提示しています。
「पढ़े (paḍhe)」という行為は、第38節の「पाठ (pāṭha)」と同様、単なる機械的な読誦ではありません。「भक्ति (bhakti)」(信愛)と「श्रद्धा (śraddhā)」(信仰)に基づく、心からの献身的な読誦を意味します。これは第37節の「कृपा (kṛpā)」(恩寵)を引き寄せる重要な実践となります。
「सिद्ध (siddha)」は、ヨーガの伝統において深い意味を持つ術語です。これは「सिद्धि (siddhi)」(完成・成就)の状態に達することを意味し、以下の三つの層位で理解されます:
आध्यात्मिक सिद्धि (ādhyātmika siddhi) - 霊的な完成
योग सिद्धि (yoga siddhi) - ヨーガの超自然力
भक्ति सिद्धि (bhakti siddhi) - 信愛の完成
「साखी गौरीसा (sākhī gaurīsā)」という表現は特に重要です。「गौरीसा」はシヴァ神を表す尊称で、「गौरी (gaurī)」(パールヴァティー女神)の主という意味です。シヴァ神は「साक्षी (sākṣī)」(遍在する純粋意識としての証人)として、この讃歌の効力を保証します。これは第37節の「गुरु देव (guru deva)」の概念をさらに深化させ、最高神による直接の保証という形で示されています。
この節は、第38節で説かれた「महा सुख (mahā sukha)」(最高の至福)への道が、確実に開かれていることを、宇宙の最高原理であるシヴァ神自身が保証するという、究極的な確信を与えています。これによって、信仰者は完全な安心と確信をもって修行に励むことができるのです。
第40節
तुलसीदास सदा हरि चेरा
कीजै नाथ हृदय मह डेरा॥४०॥
tulasīdāsa sadā hari cerā
kījai nātha hṛdaya maha ḍerā ॥40॥
トゥルシーダースは永遠にハリ神の僕として生きます。
主よ、どうかこの心の内に御座所を設けたまえ。
逐語訳:
तुलसीदास (tulasīdāsa) - トゥルシーダース(作者の名)
सदा (sadā) - 永遠に、常に
हरि (hari) - ハリ神(ヴィシュヌ神の別名)
चेरा (cerā) - 僕、奉仕者 [古典サンスクリット語のचेट (ceṭa)]
कीजै (kījai) - なさってください(敬意を込めた願望形)[古典サンスクリット語のकृ (kṛ)]
नाथ (nātha) - 主、守護者
हृदय (hṛdaya) - 心
मह (maha) - 〜の中に [古典サンスクリット語のमध्य (madhya)]
डेरा (ḍerā) - 御座所、聖なる住まい
解説:
第40節は、ハヌマーン・チャーリーサーの結びの詩節として、作者トゥルシーダースの究極的な帰依の境地を表現しています。
「तुलसीदास सदा हरि चेरा」という表現は、第37節の「गुरु देव (guru deva)」への帰依をより個人的な次元で深化させています。ここでの「सदा (sadā)」は、第38節の「सत बार (sata bāra)」の数量的完全性を、永遠性という質的な次元へと昇華しています。
「चेरा (cerā)」という言葉の選択は重要です。これは単なる「僕」以上の意味を持ち、「प्रेम सेवा (prema sevā)」(愛に基づく奉仕)を表現する言葉です。第37節の「गुसाईँ (gusāīṃ)」への完全な帰依の態度を示しています。
「हृदय मह डेरा (hṛdaya maha ḍerā)」という表現は、第39節の「सिद्ध (siddha)」の真の意味を明らかにしています。「डेरा (ḍerā)」は単なる住まいではなく、「दिव्य निवास (divya nivāsa)」(神聖な御座所)を意味し、第38節で説かれた「महा सुख (mahā sukha)」(最高の至福)の具体的な実現を表しています。
この最終節は、讃歌全体を通じて描かれてきた様々な徳性—第35節の「एकनिष्ठ भक्ति (ekaniṣṭha bhakti)」(専一な帰依)、第36節の困難からの解放、第37節の「कृपा (kṛpā)」(恩寵)—が最終的に収斂する地点を示しています。それは「आत्म समर्पण (ātma samarpaṇa)」(完全な自己奉献)を通じた、神との内的な一体性の実現です。この境地こそが、バクティ・ヨーガの究極的な目標であり、真の「सिद्धि (siddhi)」(完成)の状態を表しているのです。
結偈
पवन तनय संकट हरन, मंगल मूरति रूप।
राम लखन सीता सहित, हृदय बसहु सुर भूप॥
pavana tanaya saṅkaṭa harana, maṅgala mūrati rūpa।
rāma lakhana sītā sahita, hṛdaya basahu sura bhūpa॥
風神の御子よ、苦難を取り除きたまう方よ、
吉祥そのものの姿をとる方よ、
ラーマ神、ラクシュマナ神、シーター女神とともに、
どうか我が心に宿りたまえ、神々の主よ。
逐語訳:
पवन तनय (pavana tanaya) - 風神の御子
संकट हरन (saṅkaṭa harana) - 苦難を取り除く方
मंगल मूरति (maṅgala mūrati) - 吉祥なる現れ、祝福の化身
रूप (rūpa) - 形態、姿
राम (rāma) - ラーマ神
लखन (lakhana) - ラクシュマナ神
सीता (sītā) - シーター女神
सहित (sahita) - 〜とともに
हृदय (hṛdaya) - 心
बसहु (basahu) - お住まいください(敬意を込めた命令形)
सुर भूप (sura bhūpa) - 神々の主
解説:
この結びの節は、ハヌマーン・チャーリーサー全体を総括する祈りとして位置づけられています。第40節までに描かれた讃歌の本質が、ここで凝縮された形で表現されています。
「पवन तनय (pavana tanaya)」は、ハヌマーン神の根源的アイデンティティを示します。風神(वायु, vāyu)の御子という属性は、第38節で説かれた解放(मुक्ति, mukti)への力の源泉を象徴しています。風のように自由自在な性質は、霊的解放の可能性を暗示します。
「संकट हरन (saṅkaṭa harana)」という表現は、第36節の「संकट मोचन (saṅkaṭa mocana)」の概念を発展させ、より積極的な救済者としての側面を強調しています。「हरन (harana)」は単なる除去ではなく、根本的な解決をもたらす力を示唆します。
「मंगल मूरति रूप (maṅgala mūrati rūpa)」は、第39節で言及された「सिद्धि (siddhi)」の具現化として理解できます。これは祝福をもたらす神の顕現(दिव्य अवतार, divya avatāra)を表現しています。
特に注目すべきは「राम लखन सीता सहित (rāma lakhana sītā sahita)」という表現です。これは第37節の「गुरु देव (guru deva)」への帰依の具体的な形として、ハヌマーン神の理想的な奉仕の姿勢を示しています。ラーマ神への完全な帰依(पूर्ण समर्पण, pūrṇa samarpaṇa)が、解脱への道として提示されているのです。
最後の祈願「हृदय बसहु (hṛdaya basahu)」は、第40節の「हृदय मह डेरा (hṛdaya maha ḍerā)」をより直接的な祈りとして昇華させています。これは外的な礼拝から内的な合一へと至る、バクティ・ヨーガの本質的な道筋を示唆しています。
最後に
こうして全40節にわたる『ハヌマーン・チャーリーサー』を読み解いてみると、トゥルシーダースがそれぞれの節に込めた巧みな韻律や神学的深み、そしてハヌマーン神が象徴する「献身(भक्ति)」のエッセンスが浮き彫りになります。本来、『ハヌマーン・チャーリーサー』は単に唱えるだけのテキストにとどまらず、日々を生きる上での指針や心の浄化、さらには自己を超えた霊的な成長へと導く霊妙な力をもった讃歌です。インドの多くの人々が、早朝や特定の曜日(主に火曜日や土曜日)にこのチャーリーサーを奉読するのは、その加護を祈るという意味合いだけでなく、自分自身の内面を見つめ直す行為でもあります。
まず、師への礼拝から始まる序詩の段階で、このテキストが伝統的な「グル・ヴァンダナー」(師への帰依)という形を踏襲していることに注目していただきたいところです。これはヨーガ哲学やヴェーダーンタ思想など、インドの霊性文化全般に見られる特徴であり、あらゆる学びと解放の道筋は「正統なる導師」への敬意から始まる、という古くからの教えを示しています。その上で、ハヌマーン神は師にも等しい存在として、読誦者の心の中に「正しき智恵」「浄き力」そして「深い慈悲」を流し込む、いわば内なる導き手として機能するわけです。
次に、本文においてはハヌマーン神がもつ多面的な姿が描かれます。幼少期の純真無垢なエピソード、ラーマ神とシーター妃を支える縁の下の力持ちとしての活躍、邪悪なる存在を退治する力強さ、一方で敬虔なる帰依者の理想形を体現する謙虚さ——それらが、八つのシッディ(神通力)や九つの宝といった象徴に結びついて表現されています。これは「力と慈悲」「勇猛と純真」という一見相反する特質が、ハヌマーン神の中で完全に調和していることを示唆しています。
さらに、『ハヌマーン・チャーリーサー』は読誦者自身の人生を変容させる力をもつとされます。第三者としてのハヌマーン神を讃えるというよりも、むしろ“自らの心の中にハヌマーンを呼び覚ます”ことで、困難を払拭し、隠された勇気や他者への奉仕の心、神聖なる使命への強い情熱を引き出してくれるのです。トゥルシーダースは、その恩寵を受け取る具体的な方法として「くり返し唱える」ことを薦めていますが、そこには心を一点に集中して祈ることで雑念を払い、結果としてハヌマーン神の徳目が自らの意識を浄化してゆく、という心理的・霊的なプロセスが隠されています。
本稿を通じて解説したように、『ハヌマーン・チャーリーサー』は、物語として楽しむだけでなく、実際に唱え、瞑想し、自分自身の内面をハヌマーン神のように強く、かつ優しく成長させるための「ツール」としても優れています。インドの言い伝えでは、この讃歌を心から唱える人は、ハヌマーン神によって苦難が取り除かれ、必要な守護や智恵が授けられ、最終的にはラーマ神との合一という至高の境地に至るとも語られています。ぜひ皆さんも、この偉大な猿王ハヌマーンの物語と讃歌から、一歩踏み込んだ霊的インスピレーションを受け取ってみてください。唱えるたびごとに、強さと献身の尊さを新たに感じ取れるはずです。
【参考文献】
Sanskrit Documents "hanumaan chaalisa by tulasidasa - हनुमान चालीसा"
https://sanskritdocuments.org/doc_z_otherlang_hindi/chaalisa.html
[Sanskrit Documents Collection, Last accessed: December 29, 2024]