言葉の重み
人々が普段からどれだけそれを意識しているかは分からないけど、言葉というものは非常に重みがあるのだと思う。
普段の会話、LINE、Instagaram、こうやってnoteに文章を書き残すのだってそう。
人によって捉える言葉の像も違う訳であって、自分が何気なく言った一言が誰かには深く刺さっているものだったり、逆に自分が意味を持たせて放った言葉であっても、相手には何気ないものとして流されている場合だってある。
それが時に大きな問題として表に浮き上がってきたり、それ以前に、気付かない間に知らぬ溝を生んでいたりすることもある。
実際、SNSでは何気なく放った一言が後々になって槍玉に挙げられている様子は度々目にする。
そういうのを踏まえると、言葉を持ち、この世界で生きていくことはどうにも重く責任を伴っている。
それに気付いたとき、残りの人生大雑把に見積もって数十年、酷く大変なものだと思った。
言うまでもなく、非常につらい。
時に誰かを傷つけることもあれば、時に自分の発言が槍玉に挙げられることもあるだろう。
でも、言わなければ分からないのだ。
言わなければ時に昂るこの感情も、誰かと共有したいこの気持ちも、何も伝えられないし、分かち合うことが出来ない。
日本においては、”言わなくても分かる”という文化・美徳もあるけど、でも言わないと分かんないことだってたくさんある。
言葉は素晴らしいと思う。
言語を持ち合わせ、生きられていることに、デメリットよりも遥かに大きく別のものを感じられるようになったことを、私はすごく嬉しいことだと思う。
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このトピックを話すにはあまりにもちょうどよく、1週間前まで語学留学の目的でドイツに滞在していた。
そこで出会ったたくさんの非日本語圏の人たち。語学を勉強していて本当に良かったと思った。
この世界にはあらゆる言語が散りばめられるように存在していて、その言語圏の人と話すためには日本語だけでは足りない。
別の価値観。別の生き方。別の文化。
そういった今まで自分の中になかったもの、また、少し自分に似ているもの、そのあらゆる記憶と経験が私にとっては尊いものだ。
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言葉は流動的である。
現地では日本語ではない言語を用いて生活していたけど、留学前と今では別のなにかが私の中では生まれていて、それが日常生活の中で、日本語外国語に関わらず今後言葉として紡がれていく。
あの時紡いでいた言葉は今もう紡がないかもしれないし、今紡いでいる言葉もあと数日後には紡がなくなっているかもしれない。
大きく言えば、幼く自分の名前を漢字で書くことすらできなかった時代と今では、明らかに書く文章が変わっている。
そうやって日々変わってく人生を、言葉を、私は非常に尊いものだと思っている。
これは、そういう流動性の過程を示す備忘録だと、初めに自分に示しておく。
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