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第十四話 「疎外感」

一人部屋にこもって勉強や自作のゲームをするのに夢中になっていた一方で、集団で何か一つの事に取り組むのが嫌になってきた。特に嫌な思い出として記憶に残っているのは、図工、なわとび、運動会である。子供なら誰でも喜びそうな時間だが、私にとってはただただ苦痛の時間だった。

その日の図工の時間は、折り紙で鶴を折ろうというものだった。先生が教壇に立ち、工程を順に説明していく。最初は簡単だった。隣の子と楽しくしゃべりながら、和気あいあいとしたムードで進行していった。すると、急に難易度が上がる工程があり、私はそこでつまずいて出来なかった。そうこうしている内に、先生は次の工程へ進んでしまう。みんなも出来たようで、次に進んでいく。つまずいてしまった私は、周りに聞こうにも、みんなはみんなで次の工程を見逃しまいと必死である。つまずいた奴に手を貸してくれるほど、世の中は甘くなかった。

私はこの瞬間に、図工の時間が嫌いになった。あの、取り残される感じがトラウマのようになってしまったのだ。

こうして、私の机には、羽ばたく事の叶わなかった鶴が横たわった。

なわとびも同様だ。体育の時間に校庭に集まり、良く晴れた天気の中、子供達は無邪気にはしゃいでいる。前跳び、後ろ跳び、あやとび、この辺はなんとか出来た…いや、見栄を張ってしまった。まともに出来たのは前跳びだけだった。そしてまたも、急に難易度が上がる。二重跳びだ。私は一回も出来ずにいた。すると、出来ていない子に指導してまわっていた副担任の先生が、私に目を付け近づいてきた。手首を早く動かすなどのアドバイスを受けるが、一向に出来ない。しかも、十回出来た人から座っていくということまでやりだした。一回も出来ないのに十回もやれるか。どんどん周りは座っていく。こうして、私を含め、数人の「できそこない」が残った。さらし者とはこのことだ。

これを機に、私の苦手リストには「なわとび」が加わった。

そして、この苦手リストに運動会まで加わる。厳密に言うと、運動会自体が嫌なのではなく、運動会に起きたことがひどすぎた。

その日の運動会は晴天に恵まれ、とてもすがすがしい日だった。全校児童が校庭に集まり、それを取り囲むように父兄が集まっていた。私の母は、仕事の都合なのか、はたまた種目に参加したくなかったのか、お昼の休憩時間には弁当を作って行くからと言っていた。正直、楽しみだった。今まで、こういうピクニック的なことが無かったからだ。私は、運動会の定番種目である、徒競走、綱引き、玉入れ等をそつなくこなしていった。そしてお昼休憩の時間になった。みんなそれぞれ家族の所に散っていく。私は辺りを見回したが、母の姿はどこにも見当たらなかった。しばらく待っても一向に現れる気配が無い。みんなが楽しそうに家族同士で集まって昼食を楽しんでいる中、とぼとぼ辺りを行ったり来たりしていると、そんな私を見かねたのか、おそらく同じクラスの人の親が声を掛けてくれ、団らんに混ぜてくれた。

「これ食べていいよ」

と、おにぎりや玉子焼き、からあげ等を差し出してくれた。恥ずかしさとみじめさでいっぱいだったが、空腹には勝てずいただくことにした。
あの時声をかけてくれた方、ありがとうございました。

時は進み、休憩時間も終わりが近くなり、午後の部の準備が始まろうとしていた。すると、ようやく遠くに弁当箱を持った母が見えた。感動の親子の対面かと思いきや、私は母を見た途端、なぜか吐き気に襲われた。良く晴れた午後の昼下がり、和やかな父兄と子供たちの笑顔、最高のシチュエーションの運動会、そんな中、私の母はいかにもスナックのママ風のいで立ちで、香水の匂いもきつく、その格好で弁当箱を持っているのが滑稽に映った。

「なんなんだうちの親は」

他の家はお母さんもお父さんもいて楽しそうだ。この家だけ他と全く違う。恥ずかしい。こっちに来るな。

母の作った弁当には、おかずが所狭しとひしめき合っていた。しかしなぜか、その弁当を食べたかどうかの記憶がない。もう次の記憶には、私はリレーでがむしゃらに走っていた。アンカーだった。私の走りを母が見ていたのかも記憶がない。おそらく、母に吐き気を感じた時点で、記憶を保存してもしょうがない相手だと脳が認識したのだろう。

授業で取り残され、母親にも取り残された私の心には、疎外感だけがしっかり残ったのだった。

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