第二十七話 「悪夢」
(悪い夢でも見ているのだろうか、なんだこの状況は…)
そう思いながら、私は全身ずぶ濡れになって立ち尽くしていた。
それは、9月の下旬、修学旅行の日に起きた。
初めての修学旅行は、それなりに楽しかった…はずだった。あの出来事さえなければ…。
本来なら、修学旅行の思い出を存分に語る所なのだが、その後に起こった事が強烈過ぎて、思い出は消し飛んでしまった。
よく晴れた日の下、歴史ある城を巡り、名所を散策し、渡すあてのないお土産を買い、帰路についた。
帰る頃には雨が降り出していて、学校に着く頃には雨はいよいよ激しさを増していた。こんなに雨が降るとは思っておらず、雨具を用意していなかった私はずぶ濡れを覚悟した。クラスのみんなの大半は、家の人が車で迎えに来てくれていたようだった。うらやましい限りだ。
家まで徒歩2~30分程、まぁ、いけなくはない。
私は大雨の中、黙々と歩いた。辺りはすっかり暗くなり、暑さの残る九月と言えど、これほどの雨にあたれば、体は次第に冷えていき、体力は奪われていった。
あのつまらない家に、これほど帰りたいと思ったことは無かった。
うつむいてひたすら地面を見つめながら歩くこと30分弱、ようやく家の明かりが見え、ホッと胸をなでおろす。やれば出来るものだ。
私は家に着くなり、母の心配する姿を横目に、すぐさまお風呂を沸かし、肩までどっぷりと湯船に浸かる。至福の瞬間だ。血行が促進され、体中に血液が行き渡るのを感じた。ふと、耳を澄ますと、ザーザーと言うより、ゴーゴーに近い雨音が聞こえる。まったく止みそうにない。あんなに天気が良かったのがウソのようだ。
私はお風呂を出て、パジャマに着替えた。母が気を利かせて布団を敷いていてくれたので、私は飛び込むように寝転がる。すると、布団のあまりの気持ち良さに、疲れがどっと押し寄せ、すぐにでも眠れそうな状態になった。時間はまだ、午後6時を回ったばかり。今寝てしまえば間違いなく夜中に起きてしまう。明日も学校がある。今寝てしまうのはまずい。しかし、この睡魔は尋常じゃない。ダメだ。寝よう。
この何気ない、睡眠欲に素直に従っただけの行動が、結果、自分の命を救うことになる。
案の定、目を覚ました。家の中はシンと静まり返っている。雨はまだ降っているようだった。時計を見ると、深夜0時を回ったばかり。私はトイレに行こうと、むっくり体を起こした。すると、何か違和感がある。少し揺れたような、バランスを崩したような、そんな感覚だ。まぁ、寝ぼけているだけなのだろうと思い、立ち上がり、部屋のふすまを開けた。
その時の光景は忘れもしない。八畳ほどあった台所が、一面湖になっていた。
私は呆然とする。
これは夢か?いや違うようだ。ここは外か?いや、家の中だ。じゃあなんで家の中に湖が出来てるんだ?
私はトイレに行くのを忘れ、混乱と恐怖のあまり後ずさりをする。と、次の瞬間、敷いてあったカーペットが気持ち悪い感触と共にぐにゃんと沈んだ。めまいを起こしたのかと思ったがどうやら違う。部屋全体沈んでいる。いや、大雨のせいで水かさが上がって部屋全体が浮いていたのだ。
私はようやく状況を理解し、湖となった台所をつま先立ちで通り抜け、寝ている親を起こしに行く。
「おかぁ!水!水が上がってきてる」
母は何事かと目を覚ます。同時に、隣で寝ていた義父も目を覚ました。私はもう一度叫ぶ。
「水!水が床から上がってきてる!」
当時、床上浸水という言葉など知らなかったので、こう説明する以外なかった。
私の必死の訴えを聞いて、母と義父が慌てて起き上がった瞬間、布団が、いや、床全体が歪んだ。表面張力が決壊した瞬間だった。
それからはまさに、地獄絵図である。母はもう何が何やらパニック状態。義父は妹を抱きかかえ、みんなで玄関を目指す。居間は水で溢れ返っていて、タンスやこたつがゆらゆらと揺れている。この異様な光景の中、もう一度自分に聞いてみる。
これは夢か?いや、夢じゃない。
玄関に着き、いざ脱出だ。全員傘を持ち、玄関のドアを開けた。次の瞬間、どっと濁流がなだれ込んできた。家の中だったから、水位の上昇が緩やかなだけだったのだ。それがドアを開けたことにより一気に解放され、水位はあっという間に腰のあたりにまでなってしまった。
「これはまずい。死ぬのかも」
そう思った。
傘などもはや意味がない。このままではおぼれ死んでしまう。とにかく高い所に行かねば。全員傘を捨て、激流の中、私達は少しずつ前に進む。だんだんと水位が上がっていくのがわかる。急がねば。近所の家もみな浸水していた。この土地の高さでこの状態なら、この地域は全滅だろう。近所に住む友達は大丈夫だろうか。
そんなことを考えながら一歩一歩前に進み、200メートル程先にある国道を目指す。さすがに国道は無事なようで、車が何不自由なく走っているのが見える。その高低差はたった1メートルか、あっても2メートル程度だ。まるで地下世界の住人にでもなったような気分だ。
そうこうして、私達はようやく、異世界から脱出することが出来た。
私達は、とりあえず国道の反対側にあるコンビニを目指した。信号が青になり、全身ずぶ濡れの一家が夜中に裸足で横断歩道をとぼとぼと渡る。なかなかの見慣れぬ光景に、驚いた人もいたことだろう。靴は水の重みで歩行の妨げになるので、途中で脱いできた。いや、脱いできたというより濁流に脱がされたに近いが。
私達はコンビニに着くなり、駐車場にぐったりと座り込んだ。ヘトヘトだ。ひとまず命は助かったと安堵するものの、すぐに不安に襲われる。
「これからどうするのだろう…」
家には全部置いてきた。母がかろうじて、パニックの中でもしっかり通帳と印鑑だけは守り抜いたようだった。
途方に暮れていると、義父が胸ポケットに忍ばせていた携帯電話を取り出し、誰かと話し始めた。どうやら相手は弟さんで、今から車で迎えに来てもらい、いったん俺(義父)の実家に行こうとのことだった。
義父の実家は、一度は行ったことがあったのだが、山奥にポツンとある古びた一軒家で、掘りごたつだし、ボットン便所だし、虫は多いし、正直行きたくない。
が、この状況では背に腹は代えられない。
弟さんを待っている間、ずぶ濡れの服を絞り、コンビニでTシャツを買い、待つこと数十分、弟さんが到着し、車に乗り込んだ。車は義父の実家に向けて走り出し、私は車の窓から家のあった方を見る。
ついさっきまで気持ち良く眠っていたのに…。
もう一度自分に聞いてみる。
これは夢か?
いや、残念だ。夢じゃない。
こうしてあっさりと、この家での生活に終わりが訪れた。
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