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「海辺の彼女たち」が、違和感を民主化してくれた

久しぶりに映画館で映画を見る、ということをした。
東中野にある、1スクリーンだけの小さな映画館。

そこで『海辺の彼女たち』なる作品を見た。

なかなか、言葉にも感情にも表せない。
消化できない。そんな違和感があった。
でもこの映画の、この三人のおかげで、少しその違和感に光が照らされた感じがした。

(ネタバレはないです)

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僕はこの春、種子島のとある農家さんのところで1週間ほど働かせてもらったのだが、そこで二人のベトナム人の技能実習生の子たちと仲良くなった。

二人とも、僕と歳はほんのちょっとしか離れていない女の子。

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短い期間ではあるものの、同じ仕事を共有することでちょっとずつ仲良くなっていった。
それこそ初めは日本語の話だったり仕事の話だけだったが、次第にいろんなことを打ち明けてくれた。


ベトナムでの高校時代の話。もう数年家族とも会えていないという話。

福岡に親友がいるという話。もっと日本を旅行してみたいという話。

周りが日本に出稼ぎに行くから自分も、という理由で日本に来たという話。

週6日間、7時間働いているという話。

住む場所も実習制度上の決まりらしく、道を挟んだ工場の目の前だという話。

そして、本当は学校に行きたかったという話。


もちろん、日本で4、5年も働けばベトナムでは十分なお金が貯まるのだろう。
僕がお世話になった農家さんも大変面倒見が良かったし、
二人がもたらしてくれる若い力にとても助かっているらしく、大事にしてくれるだろうとも思う。


でも日本の、僕らが住むこの国の離島で、同じような歳の女の子たちが、
ただちょっとバックグラウンドが違うというだけで、田舎の工場で週42 時間も働いているという事実に直面して、

疎外感というか、無力感というか、申し訳なさというか、
表しがたい違和感を感じた。


***


この映画は、僕が見たものよりもずっと壮絶だった。

主人公は、同じくベトナムからやってきた、三人の若い女性たち。
故郷ベトナムにいる家族のため、そして幸せな未来を夢見て、技能実習生として日本に来た三人だったが、奴隷のように扱われる劣悪な職場から逃走し、斡旋業者を頼りに北国の漁港にたどり着く。
いわゆる不法就労という状況で生きていく彼女たちを描いた、というもの。


技能実習制度において、実習生自身はとても弱い立場にある。
特に酷いのは、実習生自身が実習先を選べない、かつそこに数年間固定されるということだ。
僕がお世話になった農家さんのように、実習生も会社の一員として大切に扱ってくれるところに配属されれば幸運だが、
数年間辞めていかないという制度を悪用して、劣悪な環境で働かせたり、パワハラが横行する実習先もある。

この映画自体はドキュメンタリーではないが、監督自身が実際に実習生からのSOSメッセージを受け取り、取材を進めていくことから構想された物語だということだった。

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(出典「海辺の彼女たち」)

この映画のことは、日本で起こっていることとは到底思えなかった。
日本が舞台なはずなのに、どこか遠い国の出来事のように感じる。

でも同時に思った。これは、目を背けてきた、光が当てられてこなかった、隠されてきたようなものが映画という形で見せられているだけなのだと。
実は全てこの国の人々とつながっているのだと。

僕らが8時過ぎにスーパーで買う3割引のしめ鯖も、彼女たちのような、
技能実習生が仕送りのために一日15時間とか働かされてここまできているものなのかもしれない。
僕らがセブンで買う百円のアイスコーヒーも、世界のどこかで僕と同じような少年が学校にも行けずに摘んだものなのかもしれない。

僕の後輩はこのことを「外部化」と表現していたが、至極その通りだと思う。


***


不法滞在・不法就労は犯罪である。ごもっともである。
出稼ぎに来るのに、避妊をしない・子供を作るのは無責任である。ごもっともである。


そうだろうか?

不法就労はもちろん雇う側がいないと成立しない。
そこには、不法就労のようなリスクを取ってまで労働力を確保しないと経営が成り立たない、市場競争に勝てない。そんな産業もあるのかもしれない。

そして、そんな社会を作り出してしまっているのは、東京のような大都会で、全てを知ったような気になっている我々かもしれない。


性教育が普及していれば、避妊の知識があったかもしれない。
そこには、十分な教育が受けられない、その国、その社会、その家庭の事情があるのかもしれない。
性教育が普及しないことで人口ボーナスを享受できているのかもしれないし、それによってとある産品の製造や環境問題を途上国に丸投げできるのが、僕ら先進国の住民なのかもしれない。

ちょっと想像力があれば、「外部化」されてきたその先が、全てではなくても、少し見える。


***


種子島で出会った二人のことで、ちょっと社会の歪みが見えて、違和感を感じたと同時に、何をすればいいのかの無力感があった。

この映画で観た三人のことで、違和感が罪の意識に変わった。

罪の意識と無力感の中で、自分には何ができるのか、なかなか分からずに苦しんでいたが、ふと昨日読んだニュースレターで紹介されていた概念で、目の前が開けた気がした。

「違和感の民主化(Democratization of Discomfort)」


これはイェール大学の心理学者、Jennifer Richesonが社会のエクイティを高めるため、
社会正義のために考え方として提唱しているものということだった。

アクセスを広げている(エクイティを高める)ことは、一部の特権階級の人たちがこれまで当たり前に享受していた快適さ(Comofort)をみんなが享受できるようにすることではなく、むしろみんなが同じように居心地の悪さを共有できる(We are equally uncomfortable)ことなんです。みんなが同じテーブルに着き、ほかの人たちに言うべき正しい言葉を知らない状態。それはつまり、お互いに対して思いやりをもち、思慮深くなり、みんなが自分の常識について考え直すことなんです。(Lobsterr Letter vol.112より)

本来彼女が意図していたこととは解釈が違うかもしれないが、僕はこの考え方に一定の救いを得た。


自分があの場所に立ち、あの映画を見て、彼女たちと向き合い、違和感と不快感、無力感を感じたこと。
それによって何もできないことに悔しさを感じると同時に、今まで見えなかった彼女たちのような存在に思いやりを持てるようになったこと。

それ自体が、社会正義に繋がっているのかもしれないと、少し肯定された気がして、救われた気がした。


***


この映画を見て、人は罪の意識を感じるだろう。

社会に対して、自分に対して、嫌悪感や違和感を感じるだろう。

でも、それこそが一歩なんだと思う。それまでは違和感すら感じず、無知の幸せを享受しているだけだったのだから。


違和感を開拓し続けること。阻害されている誰かの不快感を共有すること。それなしには始まらない。

とある病気のせいで社会の歪みがどんどん広がっていくであろうこの時代に、この小さな映画館で、この映画のチケットが売り切れていたということが、僕にとってはとても希望が持てるものだった。


この文章があなたを少しでも不快にしてくれたのなら、僕は嬉しい。



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