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思春期に父親代わりのヤクザが私に教えてくれたこと

母は私が5歳のときに離婚した。大雨の中、家庭裁判所の人が来たときと、苗字が変わり幼稚園の名札が変わった日をいまでも鮮明に覚えている。

母は当時20代後半で、離婚後に男性が家に来ることもあった。小学生のときに、この人が父親になるのかな?という人がいたが、何かのトラブルがあり、その現場を見ていたので、これはもう別れると直感した。

数ヶ月経った頃、学校から家に帰るとパンチパーマで体が大きくスーツ姿の男性M氏が優しい笑顔で私を見た。

M氏は週に一度くらいは家に来ていた。1人で来たり、何人か仲間を連れて来ることもあり、母は水商売の仕事で自分の店を持っていて、日曜日は休みのため、土曜日の夜か日曜日のお昼頃に来ることが多かったと思う。

家に来るときは必ずといっていい程スーツ姿で、真夏も長袖のシャツを着ていた。

そのタイミングでようやく風呂付きの家に引っ越すことが出来た。ある日、M氏が風呂に入っているのをすりガラス越しで見たときに長袖の理由がわかった。

首から手首、足首まで全身刺青だった。


それでようやく理解した。M氏がよく家に連れて来た人達は、母のことを姐さんと呼んでいたことを。

私が中学2年になった頃、急に学校に行けなくなった。友達とは遊ぶし外も出かける。担任の先生や教育委員会から来た人が家に来たときは、一緒にキャッチボールをしたりゲームをするが、どうしても学校だけは行けなかった。

担任の先生は学校の図書館で本を読んだり、グラウンドで遊んでいてもいいから学校に来てはどうかと提案したが、やはりどうしても出来なかった。

幸いなことに、母も祖父母もM氏も、学校に行きなさいとは一言も言わず、同級生も普段通り遊んでくれて、昼間によく行っていたのは、祖父が営んでいたカメラ店と、そのすぐ側にあるレジャー会館内のゲームセンターだった。

私は映画が好きで、部屋の壁に映画のポスターを何枚も貼っていた。小遣いも少なく年に数回、友達とお菓子やパンを持参して映画館でファンタを買って観るのが楽しみだった。

それを知ったM氏は、私に1枚の名刺を渡してくれた。それはM氏の名刺で、裏に小さな字で何か書いていた。

「この名刺を映画館の受付に出しなさい、そのまま入れるから」

えっ!タダで入れるってこと?

数日後、名刺を持って映画館に行った。受付は女性が2人いて、小学生の頃から知っている人達なので恥ずかしかったが、タダで観られるんだからと勇気を出して名刺を出した。

「どうぞ、入って下さい」

本当だ!
入れた!
しかも名刺は無制限に使える。


田舎の映画館なので、最新作と昔の映画の2本立てで、私はポール・ニューマンとスティーブ・マックイーンのタワーリング・インフェルノと、宇宙戦艦ヤマト愛の戦士達が特に好きで3回以上は観た記憶がある。

名刺でタダで観ていると知った母は「映画を観たいならお金をあげるから名刺で入らないで!」と私をよく説得していたが、中学を卒業するまで名刺で何回観たのかわからない。

M氏とは、2人で映画を観に行ったり、ご飯を食べに行ったり、当時、大流行したインベーダーゲームも、知り合いのお店で100円玉をタワーで積んでくれて、名古屋打ちをマスターするまで思う存分やらせてくれたり、一緒にお祭りも行き、芝生に座っているだけで、テキ屋の方達がわざわざ食べ物を持って来てくれた。

M氏が乗っていた車と小学生の私

普段から優しく、わがままを聞いてくれて1度も怒られたことはなかったが、ある出来事があった。

私はいつも母に対する態度はよくなかったが、ある日猛烈に反抗した。

それを見たM氏は私の体を押さえつけた。

怒りもしない、何も言わない、ただ押さえつけているだけ。私はそこで何かを感じて悟った。

それは、感情を表すことでもなく、言葉でもなく、何か本能的な、動物的な感覚で、自分の行いを正された。

中学3年になり、M氏は私に数冊の本と雑誌を持って来てくれた。本宮ひろ志の「俺の空」全巻とポルノ雑誌を数冊。性の知識を本来なら先輩達などから教わることをM氏はしてくれた。

そろそろ、卒業と進学を真剣に考える時期が来た。

先生達の話し合いで、中学を2年間行っていないのだから、最低でも1年は留年してから卒業するしかないと言われたが、そんなときに義務教育は15歳までと知り、担任の先生に「中退します」と言った。実際は公立の中退は無いので、校長室で校長と担任から卒業証書をもらった。

さぁ、卒業してからどうする?

M氏に「手に職をつけた方がいい、板前はどう?」と勧められた。

もう、なんでもいい。これまでのことをリセットしたい、環境も変えたいと思い、板前になると決めた。

まず最初にM氏が私にしてくれたことは、地元で有名な料理店に何軒か連れて行ってくれて、その中でも特に有名だったふぐ料理店を勧めた。親方は「まずは普通に料理の修行をした方がいい」と言って弟子入りを断った。

次は、M氏が経営していた料理店で以前働いていた板前B氏を家に連れて来た。

以前というのは、アル中のB氏は営業中の店を勝手に閉めて、常連客と飲み歩いているのをM氏に見つかり、その場でクビになっていた。

そして、無類のギャンブル好きで、借金でどうにもならなくなり、労災のお金を目当てに、2度、調理場で小指を自ら切断していた。なのでヤクザではないのに両手の小指の先がない。

ギャンブル好きで小指の先が2本なく、アル中でM氏からグビになった人が優秀な先輩を紹介してくれるという。少し不安もあったが、いつも穏やかで優しくM氏も板前の腕には太鼓判を推していたので紹介してもらうことにした。

どんな人を紹介してくれるのだろう?

奇跡的にも、親方は市長の孫で早稲田大卒の人だった。アル中で小指の先が2本ない人からの紹介とはとても思えない。

私は12人目の弟子で、兄弟子は元暴走が多く、ほぼ中卒だった。

弟子入りと同時にホテルに就職することになり、そこは昭和天皇も泊まったことがあるホテルで、田舎者の私には十分すぎる就職先だった。

ホテルに行く当日、M氏とB氏が一緒に付き添ってくれた。そして、私がまだ乗ったことがない飛行機に乗せてくれた。2人とも服装も仕草も、言葉遣いもとても紳士だが、どう見ても堅気ではないM氏と、小指の先が2本ないB氏と初めて乗った飛行機はいまでも鮮明に記憶に残っている。

2人は親方と会い、挨拶も済ませてホテルに一泊して翌日に帰ることになり、帰る間際にM氏から、

人の言うことをよく取ること。
挨拶をしっかりすること。
素直でいること。

これだけは必ず守るようにと言われた。


この記事を書いていて、改めて思い出した。約束を守れていない自分が情けないが、いま気づくタイミングなのかも知れない。

数ヶ月後、M氏は刑務所に入ることになり親方に電話をしたらしい。

親方から「電話があったよ、これからもよろしくお願いしますと言われたよ。」

これから刑務所に入るというのに、そこまで気遣いをしてくれた。

刑務所から出所したころ、母には新しくお付き合いしている男性がいた。自動車の整備工場で塗装をしている堅気の普通の人だった。

M氏と母と新しい彼と話し合いがあったらしい、それを聞いて本業はヤクザなのだから、もの凄い修羅場を想像したが、母は何の揉め事もなくM氏と別れたと言っていた。

その後、母は無事に再婚した。

母が亡くなる前に聞いたのだが、M氏は奥さんがいる人で母は愛人だった。M氏と別れるときに奥さんと1度だけ会うことがあり「主人が迷惑をかけて本当にすみませんでした」と奥さんは土下座をしたらしい。

母は結婚後に癌が見つかり、約2年半入院をしていた。癌の進行は早くあっという間に全身に転移していた。

もう私と会うのは最後かも知れないと悟った母は、病院に頼んで母の病室に私が泊まれるベッドを用意してもらった。

いつの間にかM氏の話になり、母がこう言った。

「Mさんに、あなたがパリから帰り東京にいることを知らせたんだよ、そしたらMさん、あなたが住んでいる駅に行ったんだって、ここにあなたが住んでいるんだと思いながら、しばらく駅前を歩いて、そのまま帰ったみたいだよ」

新幹線を使っても片道4時間はかかるのに、わざわざ来てくれたと思うと、心の底から大事にしてくれたことに言葉が見つからなかった。

その数日後、母は43歳で亡くなり、M氏とも会っていない。

母から「何かあれば電話してみたら?」と言われて電話番号が書かれた紙をもらったが、1度も電話をすることもなくその紙もいつの間にか無くした。

学校にも行かない私に、いつも母とM氏は「頑張れば何にでもなれる」と言い続けてくれた。

M氏は、私の根性が腐らないように、いつも励ましてくれた。道を外さないように、面倒を見てくれる人を探してくれた。

本当に感謝している。
改めて深い愛情と言葉を思い出した。

母とM氏が私を大切に思い、心から愛してくれたように、私も自分自身を大切にして愛したいと心の底から思った。

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