17歳でパリの日本料理店で板前をしていた1982年〜83年の話
■労働編
中学卒業後、板前を志し15歳で弟子入りをしてホテルに就職した。早朝から夜遅くまでの修行生活が始まり給料は手取りで5万円。時給に換算したらいくらになるのだろう。
24時間365日、親方と兄弟子と行動を共にすることに疲れた私は、16歳で一旦地元に戻り、いい親方にも巡り会えて順調に板前の修行を続けていた。
板前の仕事は自分には向いていると思っていたが、和食のお店は同年代と一緒に働くことはなくスタッフの平均年齢は40〜50代だったと思う。16歳の子供だったので可愛がってもらったがもっと刺激のある日々を過ごしたかった。
そんなときにテレビを観ていたらアメリカで日本食と寿司がブームになっていた。
これだ!!
アメリカに行くぞ!
POPEYEを愛読書にしていた私はアメリカに憧れがあった。高校に行っていないので留学気分でアメリカに行きたいと本気で考え、お世話になった料理長にアメリカの日本料理店で働く方法がないか聞いてみたりもした。
数ヶ月が経ち、板前修行を中断してチェーン展開している喫茶店で働いている時に、他店舗の店長が過去にパリで働いていたことを知り話を聞きに店を訪ねた。
「パリで仕事をしたいの?社長を紹介するから連絡してみてよ!」
アメリカじゃないが海外だったらもうどこでもいい、フランスはどんなところか全くわからないがとにかく海外で仕事がしたいと思いすぐに社長に電話をした。
2週間後、片道で5時間以上かけて六本木に行き社長と面接をした結果、採用の条件は3週間後にパリに行くことだった。
母は心配したがこのチャンスを絶対に逃したくないと思いパリに行く事を決めた。貯金を使い急遽チケットとパスポートを取る手配をしてなんとかギリギリ間に合った。
シャルル・ド・ゴール空港に到着すると勤務先の専務が車で迎えに来てくれていた。専務が運転しながらパリの説明をしてくれていたが全く耳に入らなかった。空港からパリ市街に向かう景色を見ながら期待でいっぱいだった。
17歳の勢いというのは凄い。言葉や生活や仕事の不安など微塵も無かった。
パリ市街に着くとスタッフが私の部屋を案内してくれた。同居人は元自衛隊員のAさんで迷彩柄のTシャツを着ていて気さくで優しい人だった。
部屋を出て、土地勘もないのにひとりでパリを時間も気にせずのんびり散歩していたら強烈な空腹感が襲ってきた。時計を持っていなかったので街で時計を探して見たら衝撃的だった。
「えっ、夜の9時?何で?」
そう、6月のパリは夜の9時でも青空だった。その後は全く覚えていないがどこかで何かを食べたのだろう。
次の日から早速仕事が始まり、私が働くことになった日本料理店は、天ぷら、すき焼き、寿司、刺身、とんかつなど、店舗の立地から日本人や海外からの観光客が多く来るため、その人達に合わせたメニューだった。
寿司は、店舗入り口脇にカウンターがあり寿司職人が3人いる。寿司以外の料理は店舗奥のオープンカウンターで調理する。店は広くてキレイで9カ国のスタッフが働き共通語はフランス語だった。
初めて聴くフランス語に、話せない、聞き取れない、読めない、このストレスから1週間後に身体に異変が起こる。
熱と腹痛。
支配人が日本語の話せるフランス人の医者に連れて行ってくれたが「毎日暑いですからね、熱も上がるでしょう。あとストレスかな?ゆっくり寝れば治るでしょう」と言われて薬もなく帰宅。
体調不良で早速ホームシックになるが、帰るお金はないのでひたすら朝から晩まで働いた。
1ヶ月後にはパリ生活も慣れてくると、労働環境と給料に関することが気になるようになり、ようやく現状がわかってきた。
給料は面接で社長から1フラン60円と聞いていたが実際は40円だった。1フラン60円の計算で給料が決まっていたので、完全に騙されたと思ったが、スタッフ全員が日本での面接で同じことを言われたと知った。
労働環境は酷く、ほとんどのスタッフに滞在許可書も労働許可書も申請しない。申請しても本人に渡さず会社の管理にする超ブラック企業。
違法滞在に違法労働。
違法がダブルはキツイ!
専務が警察にワイロを渡しているので、抜き打ちチェックのときに警察から「今から店に行く」と電話がかかってくる。抜き打ちでもなんでもないが、その時は一斉にスタッフが目の前のカフェに入り数時間は滞在許可書と労働許可書を持っている人達で営業していた。
この会社にいる限り労働許可書も滞在許可書も諦めることにしたが、給料は何とかしないといけない。
数ヶ月後、社長がパリに来ると聞いた。普段は専務が運営しているので社長が来るのは1年間で数回だけ。このタイミングを逃したら今後も激務で安い給料で働かなくてはいけないと思い、社長が来る日を待っていた。
社長がパリに到着して2日目、経営している免税店にいると聞いたのでアポ無しで社長に会いに行った。私の表情から何かあると察したのか社長は隣のカフェに誘い2人で話すことになった。
私が頑張っていると専務から聞いているとか、とにかく私を褒めまくっていた。当時、物価凍結令が出ていたフランスでミッテラン大統領や政治の話をしていたが、このまま社長のペースで終わるわけにもいかないので、
「社長、給料を上げて下さい。上がらないのであれば日本に帰ります」
私の条件を聞かれ、日本円で8万円上げて欲しいと言ったら即決で承諾してくれた。いま思えば17歳で社長に給料のベースアップを直談判する人も珍しいのではないか。
給料は現金でフランを支給されるのだが、お客のチップを集めてスタッフ全員で均等に分けるため、給料日は全員で給与明細のチップの項目を見るのが恒例になっていた。
8万円のベースアップは先輩達の給料より高い。私の給与明細が見られてしまうと大変なので、給料袋をもらったらチップの確認もしないで急いで部屋に帰っていた。
当時、パリに日本料理店は約30店舗程あり、労働環境が悪い有名な店が3店あった。
ケチの「TOKYO」
しごきの「ICHIBANKAN」
地獄の「OSAKA」
私が働いていたのは地獄の「OSAKA」だった。安い給料と激務で地獄と言われるようになったらしい。
とりあえず、私は労働と賃金のバランスは取れたが、あとは言葉と考え方の問題。
フランス人、イタリア人、韓国人、中国人、ブラジル人、フィリピン人、エジプト人、チュニジア人、そして日本人と9カ国の人間がカタコトのフランス語で一緒に働くため、ストレスでトラブルが多かった。
世界はこんなにも価値観や常識が違うのかと痛感した。日本しか知らなかった17歳の私は、常識って一体何だろうと思い始めた。
■生活編
パリの生活も数ヶ月経つとフランス語は読めるようになった。言葉も聞き取りやすくなり、夢もフランス語で見るし私が話すフランス語の発音も通じている。
パリの生活に慣れてきた頃に直面した問題が人種差別だった。
私はどう見ても観光客でないことが雰囲気でわかるらしい。パリで買った服を着ているしフランス人に慣れている。
船便で日本に荷物を送る手配をしていると、係の男性が荷物の問題点を指摘した。他の荷物を見ても私の梱包はとても丁寧だ。紐の結び方が悪いとか、その場で適当に指摘しているように見えた。
あっ、これはチップか?
10フランを渡したら足りないという顔をされたので、もう10フラン渡したら機嫌が良くなり手続きを済ませてくれた。
ヴェルサイユ宮殿に行くために電車に乗っていると、見回りにきた駅員の男性2人にチケットを見せるように言われて、私のチケットに穴が空いていないのを見ると電車から降ろされた。
電車に乗る前に自分で機械に通してチケットに穴を開ける必要があったようだった。そういえば、大きいポールみたいなのがあったのを思い出し、そこにチケットを通す必要があった。
駅のホームにいたフランス人男性が「そんなの問題ないよ!」と、大きなジェスチャーで私を擁護してくれたが、駅員は私を電車に乗せる気配がない。そして、私が最も恐れていることを言った。
「パスポートと滞在許可書を見せろ!」
私は、いまは持ってないと言うと警察に連れて行くと言い出した。
あっ、これは確実にお金を要求している。
いくらか覚えていないが、2人に現金を渡し、駅員に「お前はこれで自由が買えたんだ!」というニュアンスのことを言われた。
バカンスに行くためにインターレイルパスを買いに主要駅に行くが、滞在許可書を見せろと言われる。インターレイルパスは旅行者が購入するものなので滞在許可書など必要ない。
金なんか渡さない!
そう思ったが、3つの駅で断られてしまう。もう買えないかもしれないと思いながら4つ目のオーステルリッツ駅に行くと、窓口の男性がパスを出したので、すぐに代金の現金を渡して滞在許可書と言われる前に購入できた。
コインランドリーで係の女性に毎回無視されたり、こんなことが日常で起こる。
優しく話してくれるフランス人もいた。オペラ座近くのドラッグストア内にあるレストランで働いているフランソワーズという女性。
休日や早番のときは職場の人達と何度も行った。何回も行くと私の注文はほぼ決まっていて、バゲットが多めに入っている田舎風オニオンスープ、山盛りのフリットが添えられたステーキ、たっぷりのシャンティがのったパフェ。これらを食べながら、フランソワーズや他のスタッフと話すのが楽しかった。
職場の同僚3人で行ったとき、フランソワーズがフランス語の名前をつけてくれた。私は光栄なことにミッシェルと名付けてもらったが、同僚は付けてくれた名前に納得がいかないようで不機嫌になっていた。
他には、オペラ座近くのイタリア料理店のイタリア人スタッフとサンミッシェルのチュニジア料理店のチュニジア人スタッフが優しかった。
仕事でスタッフ同士のトラブルや、日常のフランス人の理不尽な態度で起こるストレスを、フランソワーズや他のお店のスタッフが癒してくれた。
ある日、一生忘れられない、感謝しても感謝しきれないほどの事件が起こる。
仕事が終わり、同僚と食事に行くためにタクシーに乗った。場所を告げたが運転手から返事はなくタクシーは勝手に走っている。
どう考えても行きたい場所と違う道を通り、わざと間違えている。このままボラれるわけにはいかないので、同僚と話してタクシーを止めて料金を払わないで逃げようということになり、タクシーを止めて2人で逃げた!
これは犯罪だ。言い訳になるかもしれないが、それほどフランス人にイライラしていた。
しばらく歩いてからまたタクシーに乗り目的地に着いてタクシーから降りた瞬間、目の前にいたのは逃げたタクシーの運転手だった。
「ボンソワー!」
不気味な笑みで私の胸ぐらを掴んでそう言った。私達を乗せた運転手は何が起こったのかわからない様子だったが、私の胸ぐらを掴みながら説明していた。
同僚に助けを求めようとしたら、なんと走って逃げた!
終わった、警察だ、強制送還だ。
そのとき、通りを挟んだ歩道に全身黒い革の服を着たアジア系の男が私を見ていることに気づいた。お互いの目が合った瞬間、男はどこかに向けて口笛で合図をした。
あっという間に黒い革ジャンを着たアジア系の人達が20人くらい集まり、胸ぐらを掴んでいる運転手とタクシーを囲んだ。
私を見つけた男はリーダー格のようで、タクシーの運転手が金を払わないで逃げたと言っているのを聞くと、
「金なら俺が払ってやる!」
と言って、お金を運転手の顔に叩きつけた。数枚のお札がパッと散った。それでも手を離さない運転手に3人がかりで手をほどいてくれた。
解放された私に男達はもう帰った方がいいと言ってくれたので、数人にお礼を言って帰ることにした。
振り返ると、私が解放されているというのに男達はタクシーを囲んで運転手と激しい口論をしている。大勢の男達に囲まれているので運転手はもう逃げ場がない。
そもそも悪いのは私だ。お金を払わないで逃げたのだから。
そんな私を助けて、代わりにお金まで払ってくれた。きっとあの人達もフランス人に理不尽なことをされているのだろうと思った。
■バカンス編
1年働いたので生まれて初めてバカンスに行くことになった。
私が働いていた日本料理店には毎月数人の新人が入るが、そのうちの9割は早いと1週間、長くて1ヶ月で辞めていくため、バカンスの権利をもらうまで働く人は少ない。
休暇中の給料をもらえて、しかもバカンス代も出る。パリの日本料理店で有名な地獄のOSAKAとは思えない気前の良さだ。
店は休まないので、スタッフは交代でバカンスに行く。私が希望した日程はプレタポルテか何かの時期に重なっていたので、1ヶ月の予定が2週間しか休みをもらえなかったが、それでも十分だった。
インターレイルパスを買うことができたのでヨーロッパを電車と船で回ることにした。スペインに行くかギリシャに行くか先輩たちの意見も参考にしながら行き先と日程を決めた。
パリ→ローマ→ブリンディッシ→アテネ→ミコノス島→ベオグラード→オーストリア経由でチューリッヒ→ジュネーブ→ミラノ→ヴェンティミーリア→ニース→パリ
これを電車と船を使い2週間で回り、3分の2は電車と船に寝泊まりするハードスケジュール。
パリで購入した地球の歩き方とトーマスクックを持ちリュックを背負い最初の目的地のローマを目指した。
電車の中で一晩寝てローマに到着。人の多さと車の多さに驚いた。パリより治安が悪いと聞いていたので、用心しながらそれなりに観光を楽しみんだが、トレビの泉は思っていたのと違い、コンパクトというか小さくて驚いた。とりあえず後ろ向きでコインは投げた。
ホテルで一泊してギリシャ行きの船に乗るために南イタリアのブリンディッシという街に行く。多くの観光客がギリシャに向かうために来ていた。どの観光客もレストランの会計でレシートを細かく見ていて、どうも当時のイタリアを信用していない様子だった。
ギリシャに向かう船はインターレイルパスを使うことで半額で乗れた。船で一泊することになったが、部屋はないので甲板で寝ることになり、甲板は観光客でいっぱいで、持参したワインを飲んでいる人達で夜遅くまで賑やかだった。
シャワーは無料で使えたので良かったが、女性のシャワールームの扉が空いていた。最初はわからずに通るときに一瞬見てしまい、数人の女性が何も隠さずにシャワーを浴びていた。18歳の私はカルチャーショックというか、そこまでのオープンさが理解出来なかった。
ギリシャの港に着いて電車でアテネに向かった。お昼は屋台でケバブを食べて、夜はレストランに入りオープンテラスの席でトマトとズッキーニにお米を入れてオリーブオイルをかけてオーブンで焼いたのを注文した。南イタリアで食べた料理に似ていて、フランスと違いシンプルな味でとても美味しかった。
アテネに到着してホテルを取り、楽しみにしていたパルテノン宮殿に行った。いまは入れる場所が制限されていると聞いているが、当時は宮殿の寸前まで入れた。こんな巨大な建造物を大昔に作ったことに感動した。その他にアテネで驚いたのは、どのお店もコカ・コーラがなくてペプシ・コーラだったこと。
翌日、ミコノス島行きの船に乗っていると、おそらくギリシャ人だったと思うが、ミコノス島は遠いからサントリーニ島に変更したらどうかと何度も提案された。
サントリーニ島の素晴らしさをカタコトの英語で力説されて、その人がスタッフに変更してもらうように説明するとまで言われた。確かにサントリーニ島は近いし早く着いて島でゆっくり観光が出来る。
私はミコノスという響きが心に刺さっていたので、変更はせずに予定通りミコノス島に行った。
港に着くと、大勢の人達が宿の案内をするために集まっていた。価格が安い宿はどこも似ていたので、小学生くらいの子供が一所懸命フランス語と英語で説明している宿があり、そこに泊まることにした。数人がトラックの荷台に乗り夜遅くに宿に着いた。
翌朝、街並みと海の色に目を疑った。
真っ白、そして青い。
キレイだ!
ついに来た!
これが見たかった。
海に近いテラスで食事をして現実とは思えない景色を見ながら数時間ボーッとしていた。
一番の目的地のミコノス島を満喫して、今度はスイスに向かうためにベオグラードを目指した。
ベオグラードは当時ユーゴスラビア連邦の社会主義国家。不安もあったが電車の乗り継ぎのため4時間ベオグラードで時間を潰すことになり、お腹も空いたので両替してレストランを探した。
街の印象は全体的にグレーという表現が合うような暗い街並みだった。キオスクみたいなところでお土産のボールペンを買った記憶がある。セルフサービスのレストランを見つけたので、何の料理か全くわからないが、とりあえず選んで食べることができた。
その後、チューリッヒに向かう途中の駅で、いま思えば凍りつくような事件が起こる。
ヨーロッパの長距離の電車は6人用の個室になっていて、私は自由席に座っていた。
目の前に30代くらいの男性が座り、気さくに話しかけてきた。彼は自分のバックから小さな袋を取り出して、彼の説明では「これはコーヒー豆が入った袋で、国境を通るときに1人1袋しか持てない」と、ジェスチャーを交えながら必死で1袋預かって欲しいと説明する。
隣の席のフィンランド人の女性2人にも同じように袋を預かって欲しいと説明していて、匂いを嗅いで触った感触も確かにコーヒー豆だった。
国境を通過するまでの間、私とフィンランド人で1袋ずつ預かることにした。
予定時刻を過ぎても電車は出発しない。こんなことはヨーロッパでは当たり前なので、出発するまでのんびりしていると、袋を渡した男性が駅員に呼ばれて電車から降ろされた。
そして、男性が帰らないまま電車が出発してしまい、フィンランド人とアイコンタクトでコーヒー豆はどうしようという空気になった。
夜になり、個室の電気を消して寝ていると、急ブレーキの音が鳴り、電車が止まったのがわかった。
バタバタバタという足音が聞こえて、私のいた個室のドアがいきなり大きな音を立てて開いた。電気が付いてスーツを着た大柄の男性が私に1枚の写真を見せた。
寝ぼけていたので最初はわからなかったが、コーヒー豆の袋を預けた男性の写真だった。写真を見せながら「カフィ、カフィ」と連呼している。
あっ、コーヒー豆の袋かと思い「カフェ?」と答えると大きくうなずいた。
私とフィンランド人が男に袋を渡すと、それを持って行き、すぐに電車は出発した。
あの袋はなんだったのだろう?バカンスから帰り、先輩達にその話をしたら、
「麻薬じゃないの?コーヒー豆に隠す場合が多いみたいだよ、もしそうだったら麻薬の密輸は重罪だからユーゴスラビアで一生刑務所だったかもしれなかったよ、危なかったね」
危なかったなんてもんじゃない、写真を見せた男が袋だけ持って帰り、私を連行しなくて本当に良かった。
そんな事件の翌朝、チューリッヒに着いた。中世のとてもキレイな街並み。ドイツ語はまるでわからないが、前日の事件を考えると何の問題もなく十分楽しめた。
チューリッヒに一泊して翌日はジュネーブに着いた。まず驚いたのは物価の高さだった。言葉はフランス語だがフランスとは少し違う。数字の数え方が違っていて、確か60だったかな?最初はわからなかったがすぐに慣れた。
当日に安いホテルとレストランを探したがなかなか無い。今回の1番の出費はジュネーブだったが、治安も良く人も親切で街もキレイだったので納得した。
翌日、ミラノ経由で南フランスのニースに向かった。乗り換えのためにミラノ駅で降りて駅構内のカフェに入った。ミラノ駅の大きさに驚き、カフェラテを飲みながらニース行きの電車を待っていた。
最後の目的地のニースに到着。最初に驚いたのは人々が明るくて親切だった。
パリと全然違う。
ホテルでもレストランでも親切だ。観光の街で私もニースでは観光客なので、特に親切だったのかも知れないが、同じフランスとは思えなかった。
ニースのビーチサイドでのんびりしながら、この2週間で行った場所、景色、電車で知り合った人、食事、事件などを振り返った。
翌々日にパリに戻り、ギリシャで買った海綿のスポンジのお土産を仲のいい人達に渡した。安いし軽いし持ち運びに便利だから買ったのだが、想像以上にみんなに喜ばれた。
危ないこともあったが、18歳のバカンスは貴重な体験が出来た。そのときのチケットや入場券など、ボロボロになっているが、いまだに大切に持っている。
■スタッフ編
スタッフは日本人以外に、フランス人、イタリア人、中国人、ブラジル人、韓国人、フィリピン人、エジプト人、チュニジア人が一緒に働いていた。
共通語はフランス語。とは言ってもカタコトのフランス語で、全くフランス語が話せない人達もいた。
今回は国籍編ということで、特に記憶に残っている、フランス人、イタリア人、韓国人、フィリピン人、エジプト人、チュニジア人を順番に紹介してみようと思う。
最初はフランス人から。社長がフランスにいないため、レストラン3店舗と免税店2店舗の運営を任されている日本人専務の秘書をしている女性。よくレストランに来て大きな声でスタッフに指示を出していた。
スタッフの困りごとなどを即座に解決してくれる頼れる存在。私がストレスでアパルトマンのらせん階段で怒りをぶちまけていると、誤ってガラスを割ってしまった。すぐに対応してくれてフランスではあり得ない程のスピードで翌朝にガラスは元通りになっていた。
ただ、滞在許可証と労働許可証に関することはスタッフに絶対に譲歩しない強行姿勢。
普段は優しいが、一度頭に血が上るとどうにもならない。フランス人は早口だが、更に拍車をかけて早口で怒りをぶち撒ける。
私が体調を悪くして仕事を休んでいると部屋に様子を見に来てくれた。元自衛隊員Aさんと一緒の部屋で、Aさんが部屋を散らかしているのを見て激怒。いつもの早口で名前を連呼しながら怒りのマシンガントークが炸裂していた。
次はホールスタッフのイタリア人。多くの人はイタリア人といえばラテン系で陽気なイメージがあると思うが、彼の場合はかなり違った。スタッフの中でズバ抜けて地味で暗い。人と話すことも少なく表情も暗く人とあまり目を合わさない印象でラテン系のラの字もない。
地味な彼だが、私が調理をしながらカウンターから客席を見たときに、彼のスマートなサービスを見て驚いた。
フランス人の女性が指でタバコを挟みながら口元に持っていき、彼にマッチを下さいと頼んだ瞬間、上着のポケットから素早くライターを出してタバコに火をつけた。ライターをポケットに戻すと同時にマッチを取り出して女性のタバコの上にそっと置いた。
一瞬の出来事で、あまりにもスムーズで驚いた。あの地味な彼がやった事だから余計にカッコよく見えた。これがラテン系丸出しのイタリア人だったら手慣れたキザなサービスと見ていたかもしれない。
ただ、「あの時のサービスカッコよかったよ!」と言える雰囲気の彼ではなかったので言わなかったが、いま思えば言っておけば良かったと思う。
次は地下調理場で仕込みや、スタッフのまかない作りの手伝いをしていた韓国人。普段は一緒に仕事をするこもとなく話すこともなかった人。
ある日、彼はスタッフから一斉に非難される事件を起こす。
〝労働編〟にも書いたが、彼は厚切りの豚肉を照り焼きにしたまかないを作った。スタッフにはマグロの照り焼きだと説明して、脂身の部分は切り落としていたので、見た目にはマグロっぽく見えたので、最初の一口目は何の疑いもなく食べた。
食べた瞬間「えっ?」後ろの席、横の席、斜め前の席から「これマグロ?違うだろ!」
食べればわかる、それは豚肉だ。そこからチュニジア人J氏に悲劇が起こる。イスラム教のJ氏は生まれてから豚肉を食べたことがない、自分が食べているのが豚肉とわからずにかなりの量を食べてしまっていた。
豚肉と知ったJ氏は涙を流しながら「もう死んでしまう」とパニック状態になり、J氏をなだめる人達と、韓国人を責める人達が真っ二つに別れて店内は騒然となる。
韓国人が「マグロか豚肉か見ればわかるでしょ、間違えるかな」と言った瞬間、スタッフの怒りは頂点に達し、胸ぐらを掴まれてどこかに連れて行かれた。その後はどうなったか知らない。
次は同い年で、一緒にカウンターで調理場の仕事をしたフィリピン人。詳しくは知らないが、フィリピンの孤児でフランス人家族の養子になったらしい。養子になったのは数年前のことらしく、フランス語を流暢に話せる感じではなかった。
学校も行かずに働いている理由はわからないが、毎日、職場に来て働いていた。私が指導する役目になっていたのだが、言葉の問題と調理経験がないのと激務のため、お互いのストレスはピークに達していた。
そんな時、彼に豚肉を切ってもらっていたのだが、どう見ても分厚い。
150gと説明して計りもあるが、切ったあとに測ろうともしないため、分厚い豚肉が増えていく。厚いと説明すると「厚いのが何が悪い?厚い方がいい」と彼が言った瞬間に、これが瞬間湯沸かし器か!と思うほど一瞬で頭に血が昇り、気がつけば2人で乱闘を始めていた。
営業中で、しかもカウンターには常連客のデザイナーがいたので、スタッフ数人が止めに入り、ようやくお互いも冷静になり、改めてデザイナーの客を見ると、箸を持ったまま体も顔も凍りついていた。
翌日、専務が店に来た。個別に事情を説明するようにと客席の奥に呼ばれた。私は顔の傷は階段で転んだと説明した。そんな嘘は通用しないが、フィリピン人が殴った傷だと言えばバイトのフィリピン人がクビになる可能性もあるから嘘をついた。フィリピン人も後で呼ばれて説明していたが、なんと、私と全く同じで階段で転んだと説明したらしい。
2人の話を聞いた専務は、喧嘩両成敗ということで、今回の件は終わりにしてくれた。
次は皿洗いのエジプト人。カウンターの横に洗い場があるので、毎日、料理人やホールスタッフが話しかけたりしていた。
30代くらいで大柄。狭い洗い場に身体を縮めて朝から晩まで洗い物をしていた。いつも笑顔で温厚な性格の彼はスタッフからも人気だった。
温厚な彼に、板前の先輩Yさんがからかうようになった。
ある日、Yさんが髪の毛や体毛のことをからかっていた。私から見ても度が過ぎたからかい方で、しかもしつこいと思って見ていたら、エジプト人がYさんを抱き上げて、洗い物をするシンクの中に突き落とした。満杯にお湯が張ったシンクの中に落とされて必死で外に出ようとするが、エジプト人に押さえつけられて出られない。
私は、エジプト人が頭を押さえて沈めるかもしれないと思って見ていたが、流石にそこまではしなかった。いまでも強烈に覚えているのは、Yさんが暴れているのを押さえつけているエジプト人の顔が笑顔で、いつもの温厚なエジプト人のままだったということだ。
次は洗い物とご飯炊きと味噌汁作りをしていたチュニジア人。韓国人に豚肉を食べさせられたのは本当に悲劇としか言いようがない。
普段のチュニジア人J氏は、スタッフから日本語を教えてもらい、母国語のフランス語と日本語を話し、コミュニケーションもうまかったのでスタッフから信頼されていて、彼の作るご飯と味噌汁はいつも安定した味で美味しかった。
チュニジアは徴兵制度があるので、いつかチュニジアに帰るのか聞いたら、徴兵は父親に頼んで免除してもらっていると言っていた。
いつも真面目に仕事をしているJ氏だが、自分の失敗を絶対に認めなかった。要は謝るということをしない。フランス人も同じようなところがあるがJ氏は徹底していた。
カメラを貸して欲しいと言われたので貸したが、1ヶ月以上戻ってこない。カフェのテラスでお茶をしていると目の前をJ氏が通ったのでカメラを返して欲しいと言ったら逆ギレされた。
私が帰国して数年後に、パリで一緒に働いていた人と合ったときに、J氏の話になった。彼は日本が大好きになり、日本に遊びに来ていたと言っていた。日本語も話せるので治安のいい日本を満喫したに違いない。
最後に日本人。料理人、ホールスタッフ、地下調理場のスタッフ、寿司職人と、大勢の日本人スタッフがいた。
ある日、仕事が終わり部屋に戻ると1人の寿司職人K氏と数人のホールスタッフにキッチン横のフリースペースに呼ばれた。K氏は、どうも私の態度が気に入らないようで態度を改めるように言われ、謝れとまで言われたが、私は改めるつもりも謝る気も全くない。謝らないでいるとK氏から顔に膝蹴りを食らった。
目の上がパックリ割れて大量の出血。目が開かないくらいの出血だったのでひとまず解散になり、結局、最後に謝ったのはK氏だった。そのときの傷はいまでも瞼にクッキリ残っている。
板前は夫婦で来る人達が多かったのがいまでも不思議に思う。30代の夫婦が多く仕事はすぐに慣れるが、生活に関しては慣れるのが遅く休みの日もあまり出かけないで部屋にいるようだった。
夫婦で日本の習慣を大切にして、パリの新しい生活習慣を積極的に取り入れようとしていない様に見えた。
ホールスタッフの日本人は社員の他にも多くのバイトがいた。元自衛官、元旅行代理店、元芸能人、俳優、画家、六本木のニューハーフ、ニューヨークやロンドンの日本料理店から来た人、働きながら世界中を旅行している人、星付きのフランス料理店で働いているコックが給料が安いのでバイトしている人、日本で知り合ったフランス人の彼氏を追っかけて来た女性、前科がある人など、色々な人の話を聞くのは、当時17歳の私にとっていい人生勉強になった。
常識も価値観も違う9カ国の人間と、様々な過去を持つスタッフと年中無休で営業するのはとても難易度が高い。
環境に適応できない人達は、精神的にも体力的にもキツくなり数週間で辞めていた。当時のパリの差別的な環境にも適応して長く働いていたのは店長も含めてダントツで料理人だった。
9カ国の人達と同時に働くために気づいたこと。
コミュニケーションを取るのに言葉はとても大切だが、それ以上に大切だと感じたのは、相手の文化や習慣を理解して日本流を押し付けないということ。
特に時間の感覚はみんな違う。日本人は仕事が早い、それは素晴らしいことだが、それを他の国の人達には理解してもらえなかった。相手のペースと能力を知り、最適なポジションを与えれば、お互いの持ち場でベストなパフォーマンスで仕事が出来る。
これは、日本人同士でも言えることだと思う。
最後までお読み頂きありがとうございます。サポートのお金は今後の学びのため使わせていただきます。