ショートショート/「妄想」
「・・・そこはチベットの山奥だったんですが、すごいものを見たんです」
パイプ椅子に腰かけた男は、目の前の男に高揚した口調で続けた。
「大きな池の畔にぼろぼろの小屋があって、その前で老人が池の中に浮かぶ小島を眺めていたんですね。
何をしているんだろうと見ていたら、突然、その老人がその小島に向かって歩き出したんですよ。
え?そうです。水面の上をそのまま歩いて行ったんですよ」
壁を背にした椅子で耳を傾けていた男は目を見開き、叫ぶように言った。
「まるでキリストじゃないですか!」
「そ、そうなんですよ!知られざる奇跡の聖人が、この現代であってもチベットにはいるのです!」
そのとき、部屋のドアが開き、2人の若者が入ってきた。壁を背にした男に軽く会釈をすると、1人がパイプ椅子の男に声をかけた。
「じゃあ、今日はこのへんで・・・。行きましょうか?」
男は立ち上がるように促され、2人の若者に両腕を抱えられるようにしてドアに向かった。
ドアが完全に閉まるのを待ってから、壁を背にした男はうんざりするような口調でつぶやいた。
「やれやれ、まだ妄想の世界にどっぷりはまったままか・・・。
今日もまた話を合わせてはやったが。彼は精神上の何らかの兆候に気づいた段階で、もっと早く受診にくるべきだった。
とは言え、自分で兆候に気づくこと自体が無理と言えば、無理か・・・」
ドアの外に出ると、2人の若者はパイプ椅子に座っていた男からすぐさま手を離し、丁寧に頭を下げた。
「先生、どうもお疲れさまでした」
「いやいや、君たちこそ、いつも手間をかけるね。新たな治療法の模索中とはいえ、面倒をかけてすまない。しかし、今回の反応を見てもやはり・・・」
若者たちに“先生”と言われた医師は、ドアにしつらえた集音マイクと小さなマジックミラーの覗き窓から中の様子を伺い、こう口にした。
「彼はまだ、自分が精神科の医者だ、という妄想が全く抜けてないな」