「四十頌からなる実在」各節紹介 その11
22年12月より「オンライン・ラマナ・サットサンガ」プログラムEにての配信中の、「四十頌からなる実在(Ulladu Narpadu :ウラドゥ・ナールパドゥ)」の概要解説&各節紹介シリーズです。
【 第28節 】
エルム ブム アハン ダイ エル ミダッタイ ニーリル
Ezhum-bum ahan-dai ezhu-midattai nīril
ヴィルンダ ポルル カーナ ヴェーンディ ムルグ ダルポール
Vizhunda porul-kāna vēndi – muzhugu-dalpōl
クーンダ マディ ヤー ペーチュ ムーチャ ダッキ コン ドゥッレー
Kūrnda-madi yāl-pēchu mūcha-dakki kon-dullē
アーン ダリヤ ヴェーン ドゥム アリピ ナンポール ティーンドゥ ダラム
Āzhn-dariya vēn-dum aripi-nampōl – tīrndu-dalam
【 柳田訳 】
人が(その中に落した)ものを確かめる(取り戻す)ために水の中に潜るように、人は言葉と呼吸を制止して自己自身の中に深く潜り込み、「私」が現われてくる場所を発見すべきである。これを知れ。
【 福間訳 】
水中に落ちたものを見つけるため、水底深く潜る人のように、言葉と呼吸を制御して、自己の内に深く潜り込むことで、人は自我の湧き起こる源を見いださなければならない。
【 第29節 】
ナー ネンドル ヴァーヤール ナヴィラー ドゥッラー マナッ タール
Nā-nendru vāyāl navilā-dullāzh manat-tāl
ナー ネンドレン グンドゥ メナ ナードゥ ダレー ジナーナ ネリ
Nā-nendren gundu-mena nādu-dalē – jnāna-neri
ヤーマン ドリ アンドリ ドゥナー ナーマドゥ ヴェン ドルンナル トゥナイ
Yāman-dri andri-dunā nāmadu-ven drunnal-tunai
ヤーマドゥ ヴィチャーラ マー マーヴァ ダナール ミー ムライエー
Yāmadu vichāra-mā māva-danāl – mī-muraiyē
【 柳田訳 】
内に向けられた心で、「私」という言葉を発することなく、内部に「私」の源を捜し求めることが真の知識の道である。「私はこれではない、私はそれである」と瞑想することは、補助物であるかもしれないが探究ではありえない。
【 福間訳 】
内に向けられた心で、「私」という言葉を発することなく、「私」という想いの湧き起こる場所を探すことが叡知の道である。「私はこれではない。私は『それ』である」と黙想することは、探究の助けにはなるが、探究そのものとは言えない。
【 第30節 】
ナーナー レナ マナムル ナーディ ユラ ナナヴェー
Nānā rena-manamul nādi-yula nanavē
ナーナー マヴァン タライ ナーナ ムラ ナーン ナーナー
Nānām avan-talai nāna-mura – nān-nānā
トーンドル モンドル ターナー ガ トーン ドリヌ ナーン アンドル ポルル
Tōndru-mondru tānā-ga tōn-drinu-nān andru-porul
プーンドラ マドゥ ターナーム ポルル ポンギ トーン ドラヴェー
Pūndra-madu tānām porul pońgi – tōn-dravē
【 柳田訳 】
内に向けられた心が「私は誰か」と探究し、ハートに達すると、「私」(エゴ)であるそれはしょんぼりとうなだれ、一者(真我)が「私-私」としてひとりでに姿を現わす。そのように見えるが、それはエゴではない。それは全体である。それは本当の真我である。
【 福間訳 】
内に向けられた心が、「私は誰か?」と探究してハートに融け入るとき、「私」は死に絶え、一者である「私−私」がひとりでに姿を現す。※6
「私−私」として現れるが、それは自我ではない。それは完全な実在、真我である。
※6 代替訳:「私」は恥じ入って頭をうなだれ、一者である「私−私」がひとりでに姿を現す。