「四十頌からなる実在」各節紹介 その7

22年12月より「オンライン・ラマナ・サットサンガ」プログラムEにての配信中の、「四十頌からなる実在(Ulladu Narpadu :ウラドゥ・ナールパドゥ)」の概要解説&各節紹介シリーズです。


【 第16節 】

ナー マンドリ ナーレードゥ ナーデードゥ ナードゥン ガール
Nām-andri nālēdu nādēdu nādun-gāl

ナー ムダンペール ナール ナーットゥル ナーム パドゥヴァム ナー ムダンポー
Nām-udambēl nāl-nāttul nām-paduvam – nām-udambō

ナー ミンドラン ドレンドル モンドル ナーディン ガン ゲング モンドラル
Nām-indran drendru-mondru nādin-gan gengu-mondral

ナー ムンドゥ ナーナディル ナームー ナム アーミヴ
Nām-undu nānadil nāmū-nam – āmiv


【 柳田訳 】
われわれが探究をすすめるとき、われわれを離れた時間や空間とはどんなものなのか。もしわれわれが肉体であるならば、われわれは時間や空間の中に巻き込まれている。しかしわれわれは本当にそうなのか。われわれは、今も、あのときも、またいつも、ここでも、あそこでも、またすべての場所で、同じものである。われわれは存在する。時間や空間を超えたわれわれだけがある。


【 福間訳 】
我々が存在しなければ、時間や空間も存在しない。もし我々が身体としてあるなら、時間と空間に巻き込まれる。だが、我々は身体だろうか?
今も、あのときも、そしていつでも、ここでも、あそこでも、そしてどこでも、我々は同じである。それゆえ、我々は時間や空間を超えて存在するのだ。



【 第17節 】

ウダル ナーネー タンナイ ウナラール クナン ダーック
Udal-nānē tannai unarār kunarn-dārkku

ウダ ララヴェ ナーンタン ウナ ラールク ウダ ルッレー
Uda-lalave nāntan una-rārku – uda-lullē

タンヌナン ダー ケッライ ヤラ ターノリル ナーン イドゥヴェー
Tannunarn-dār kellai-yara tānoliru nān-iduvē
  
インナ ヴァダム ベーダ メナ エンヌ ヴァーイ ムンナーム
Inna-vardam bhēda-mena yennu-vãi – munnām


【 柳田訳 】
真我を実現した人びとにとってだけでなく真我を実現していない人びとにとっても、肉体は「私」である。(真我を)実現していない人びとにとっては、「私」は肉体に限定される。肉体の内部で真我を実現した人びとにとっては、「私」は無限に輝く。これが両者のあいだの違いであることを知れ。


【 福間訳 】
真我を実現した人にとっても実現しない人にとっても、身体は「私」である。だが、真我を実現していない人の「私」は身体に拘束され、身体の中にいながら真我を実現した人の「私」は無限に輝いている。両者の違いはここにある。



【 第18節 】

ウラグン マイ ヤーグム ウナル ヴィッラール クル ラーック
Ulagun-mai yāgum unar-villār kul-lārkku

ウラガラ ヴァーム ウンマイ ウナ ラーック ウラギ ヌック
Ulagaļa-vām unmai una-rārkku –ulagi-nukku

アーダーラ マーイウル ヴァットラー ル ムナルン ダー ルンマイ
Ādāra māiuru-vattrā rum-unarn dār-unmai

イーダー グム ヴェーダ イヴァー ケンヌガ ヴェーダ
Īdā-gum bhēdam-ivar kennuga – bhēda


【 柳田訳 】
世界は(真我を)実現していない人びとにとってだけでなく、実現した人びとにとっても実在している。実現していない人びとにとって世界は単に世界にすぎない。実現した人びとにとっては、真理は形をもたず、世界の基礎として輝く。これが両者のあいだの違いであることを知れ。


【 福間訳 】
真我を実現した人にとっても実現しない人にとっても、世界は実在である。だが、実現していない人にとって、実在は世界に限定され、真我を実現した人にとって、実在は世界の根源として無限に輝いている。両者の違いはここにある。










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