再入院・手術前所見・・・「対話」と「手紙」 その1
さて、再入院して「膵臓癌そのものの摘出手術」を実施する・・という流れになった。
西洋医学の現状における「膵臓癌標準治療」としては、この摘出手術こそが最大の効果が期待される手段であり、また膵臓癌の特性からすると、「手術可能」なレベルで発覚することはどちらかと言えば「かなり幸運なケース」であるらしい(大概は発見されるのが遅くて「手術不可能」と判定されることが多いそうだ。
しかし私個人としては、「膵臓癌そのものの摘出手術」に積極的に賛同?していたわけではなく、
「出来うることならば、手術は回避したい」
というのが本音であったし、更に言えば「抗ガン剤やら放射線照射」などの治療についても、「積極的にその治療を歓迎する」などという気分ではない。
さてアドヴィタ・ベーターンダ(ラマナの教えもインド哲学的にはそれに属する)では、「この身体は私ではない」という大命題があって、その意味合いでも、今回の病を得て真摯に対峙せざるを得なくなったわけではあるものの、
その一方では、
「なるほど(真我であるところの)私ではないにしても、『身体的存在』にはそれ相応のリアルがあるではないか?」
今実際に身体的に「痛い・辛い・苦しい」というリアル…は、誰のところに発症しているのだろうか?
その「相応のリアル」にアプローチしてみたい・・という欲求は
そうそう簡単に払拭できるものでもない・・のが実情である(笑)。
そもそも「ガン細胞」なるものは、個別の身体とは「別の世界」のもの・・が侵入してきたわけではなく、普通の細胞が何らかの要因で変異したものであり、それ故に単純に「切除して排除する」べき異物なのだろうか?
・・という見解もあるわけざんすね。
その「何らかの要因」の中には「近代医学的見地」だけからではアプローチしえない領域もあるはずだ・・・というのが、一応スピ関連「業界関係者の端くれ?」でもある私の見識でもある。
実はかなり奇妙で唐突な表現かもしれないが、私自身は「膵臓癌との対話」を試みたい・・・という思惑(妄想?・・笑)があった。
「ガン細胞よ、あなたはなぜ変異して『反乱』ともいえるような増殖をすることになったのか?」
そのプロセス全体を、当の「ガン細胞」自身に問いかけてみたい・・・わけである。
その2に続く