「四十頌からなる実在」各節紹介 その2
いずれ「オンライン・ラマナ・サットサンガ」の詠唱用コンテンツとして配信予定の、「四十頌からなる実在(Ulladu Narpadu :ウラドゥ・ナールパドゥ)」の概要解説&各節紹介シリーズです。
【 第1節 】
ナームラガン カーンダ ラール ナーナーヴァーン シャクティ ユラ
Nāmulagan kānda-lāl nānāvān shakti-yula
オールムダライ オッパル オル タライエー ナーマ ヴル
Ōrmudalai oppal oru-talaiyē – nāma-vuru
チッティラ ムン パール パーヌム チェールパダ ム マーロリ ユム
Chittira-mum pār-pānum chērpada-mum āroli-yum
アッタナイ ユン ターナー マヴァヌラグ カルタ ヌイル
Attanai-yun tānām avanulagu – karta-nuyir
【 柳田訳 】
われわれは世界を知覚するのだから、多様なものになりうる力が(世界に)存在することに、異議なく同意しなければならない。名と形をもつ映像、それを見るもの、その上に映像が写される(描かれる)布地、映像を照らす光は、すべてそれ自身である。
【 福間訳 】
我々は世界を知覚しているため、単一ながら多様性を現す力の源が
存在することを認めねばならない。名前と形の織り成す、画像、観客、スクリーン、それらを照らし出す照明。これらはすべて真我である神に他ならない。
【 第2節 】
ムンム ダライ エンマ ダム ムルコル ルム オールム ダレー
Mummu-dalai emma-damu murkol-lum ōrmu-dalē
ムンム ダラーイ ニルク メンドル ムンム ダルム ムン ムダレー
Mummu-dalāi nirku-mendru mummu-dalum – mun-mudalē
エンナ ラハン カーラム イルック マッテー ヤーン ケットゥ
Yennal-ahan kāram irukku-mattē yān-kettu
タンニライ イル ニットラル タライ ヤーグン コンネー
Tannilai-yil nittral talai-yāgun – konnē
【 柳田訳 】
あらゆる思想体系は、三つの基本原理、すなわち個人、神、世界を前提している。ただの一者だけが三つのもののように見える。三つのものが本当に三つであると人が言っているのは、エゴの感覚が存在する限りにおいてだけである。エゴの感覚を放棄し、人の真の状態にとどまることがなすべき最高のことである。
【 福間訳 】
どの宗教教義も、個人、神、世界という三位を根底に置いている。「一つが三つになる」、「三つは常に三つだ」などと言えるのは、自我が生き残っている間だけだ。「私」を消し去り、真我の内にとどまることこそ至高の境地である。
【 第3節 】
ウラグ メイポイ トートラム ウラガリ ヴァー マンドレン ドル
Ulagu-meipoi tōttram ulagari-vām andren-dru
ウラグ スカ マンドレン ドルライッ テン ウラグ ヴィットゥ
Ulagu-sukam andren drurait-ten– ulagu-vittu
タンナイ ヨーン ドンドリ ランドゥ ターナットル ナーナットラ
Tannai-yōrn dondri-randu tānattru nānattra
アンニライ エル ラーック モッパー ムーネー トゥンヌム
Annilai-yel lārkkum oppā-mūnē – tunnum
【 柳田訳 】
「世界は実在である」、「いや、それは人を欺く外観である」、「世界は知覚力のあるものである」、「いや、そうではない」、「世界は幸福である」、「いや、そうではない」。そのような議論をして何の役に立つのか。世界を無視し、単一性と二元性を両方とも捨て自己の真我を知り、エゴの感覚が消え失せた、その状態が、すべての人にとって好ましいものだ。
【 福間訳 】
「世界は実在だ」、「いや、それは偽りの現れだ」。「世界は心だ」、「いや、そうではない」。「世界は幸福だ」、「いや、そうではない」。このような会話に何の益があると言うのか?世界のことは放っておきなさい。まず真我を知りなさい。「一」や「二」という概念を超えた無我の境地に至ることこそ、生きとし生けるものすべての目的地である。
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