「四十頌からなる実在」各節紹介 その3
いずれ「オンライン・ラマナ・サットサンガ」の詠唱用コンテンツとして配信予定の、「四十頌からなる実在(Ulladu Narpadu :ウラドゥ・ナールパドゥ)」の概要解説&各節紹介シリーズです。
【 第4節 】
ウルヴァン タン アーイン ウラグ パラ マットラーム
Uruvan-tan āyin ulagu-para mattrām
ウルヴァン タン アンドレー ルヴァットリン ウルヴァッ ライ
Uruvan-tan andrēl uvattrin – uruvat-tai
カンヌル ダル ヤーヴァ ネヴァン カンナラール カーッチ ユンドー
Kannuru-dal yāva-nevan kannalār kātchi-yundō
カンナドゥ ターン アンダ ミラー カンナーメー エンニル
Kannadu-tān anda-milā kannāmē – yennil
【 柳田訳 】
もし人が形をもつならば世界や神もまた形をもつだろう。もし人が形をもたないならば誰が、またどのようにして世界や神の形を見るだろうか。眼なしに何かを見ることができるのか。本当の眼は無限者の眼である真我である。
【 福間訳 】
もし自己に形があるなら、世界や神も形を持つ。
もし自己に形がないなら、誰がどのように世界や神の形を見るのか?
見る眼(見る者)なしに視野や光景が在りえるだろうか?※1
真我こそが無限なる真の眼(見る者、意識)なのである。
※1 代替訳:見られる対象が見る眼以外の何だと言うのか?
【 第5節 】
ウダル パンチャ コーサ ウルヴァダ ナール アインドゥム
Udal-pancha kōsa uruvada-nāl aindum
ウダル エンヌン チョッリル オドゥン グム ウダル アンドリ
Udal-ennun chollil odun-gum – udal-andri
ウンドー ウラガム ウダルヴィ トゥラガッ タイ
Undō ulagam udalvi tulagat-tai
カンダール ウラロー カラル ヴァーイ カンダ
Kandār ularō kazharu-vāi – kanda
【 柳田訳 】
肉体は五つの鞘の形をとっている。それゆえこれらの五つは「肉体」という用語に含まれている。肉体のないところに世界はあるだろうか。誰か肉体なしに世界を見たものがいるだろうか。
【 福間訳 】
身体は五つの鞘(※2)でできている。
それゆえ、これら五つは「身体」という言葉で表されている。
身体がなければ世界は存在しない。
身体なしに世界を見た人がいるだろうか?
※2 五つの鞘:真我を覆い隠す五つの鞘。
アンナマヤ・コーシャ(身体の鞘)。
プラーナマヤ・コーシャ(生気の鞘)。
マノーマヤ・コーシャ(心の鞘)。
ヴィジニャーナマヤ・コーシャ(知性の鞘)。
アーナンダマヤ・コーシャ(至福の鞘)
【 第6節 】
ウラガイム プラン ガル ウル ヴェーラン ドラッ ヴァイム
Ulagaim pulan-gal uru-vēran drav-vaim
プラ ナイム ポリッ クッ プラナーム ウラガイ マナム
Pula-naim porik-kup pula-nām – ulagai-manam
オンドライム ポリ ヴァーヤール オルンディドゥ ダ ラーンマ ナッタイ
Ondraim pori-vāyāl orndidu-da lānma-nattai
アンドリ ウラグンドー アライ ネーレー ニンドラ
Andri ulagundō arai-nērē – nindra
【 柳田訳 】
世界は五つの(種類の)感覚対象の形を持っておりそれ以外の何物でもない。これらの五つの感覚対象は五つの感覚器官によって知られる。一つの心が五つの感覚器官によって世界を知るのだから、心を離れて世界があるだろうか。(私に)答えよ。
【 福間訳 】
世界は五つの感覚器官による知覚作用でできている。
感覚はその知覚作用を対象として感じ取る。
感覚を通して世界を知覚するのは心でしかない。
世界が心以外の何だと言うのか?