求めよ、さらば与えられん
タイトルに掲げたのはキリストの言葉だけど、昨日まさにこの言葉どおりの体験をしたのは、思い立って出かけた初期仏教講演会においてだった。
会場の日暮里まで、最寄りの駅から一時間強の電車旅(乗換駅を間違えたり一駅前の西日暮里で降りてしまったりした結果二時間弱の旅になったけど)の車内で「生きる作法」というタイトルの文章を書いていた。(昨日アップ済み。)
最近ポッドキャストでコテンラジオを延々と連続再生しているのだけれど、車中で高杉晋作のシリーズが最期の回まで来て、パーソナリティーの深井さんが幕末期の動乱やその中での混乱、立場の違い、信じるものの違いから起こる残虐性とその結果沢山の命が失われたこと、そういったものの上に成り立っている今現在の世界があり、良いか悪いかで断じることはできるはずがないということを語っているのを聞いて至極腑に落ちちたのだが、しかしそうした動乱に自分自身は巻き込まれたくないと思ったり歴史の葛藤の結果として生まれた今現在の世界が虚しく思えるのも事実で、そんなことを車窓の紅葉した街路樹とその間に間に現れる戸建てやアパートの群れを眺めながら頭の中でぐるぐる掻き回していた。そのうちなぜか書かなくちゃならない気がして書き始めたのだった。
ひとを批判したり批評したり評価したりしないで生きていきたい、そのためには結局、自分の心から汚い心を除いていくしかないけれど、さて、その方法がわからない。ということを書いた。ここ最近、わたしのなかにちょろちょろと湧き始めしだいにうねうねと渦巻きはじめていた疑問がここで言語化された。
日暮里の手前の西日暮里で間違えて下車したときにちょうど書き上がったnoteを閉じて、降り間違いに気づいてもう一駅山手線に乗りやっと着いた日暮里駅から道に迷いながらなんとか会場に辿り着いて、あちこちで迷ったお陰で昼食を抜き結果かなり冴えた状態で法話を聞くことになるのだが、法話の後半であれ?もしや…?
長老がお話くださっているのは、人生の設計図を人任せにしない、そのために心をどう扱うか…まるでつい先程電車の中で私の中にもやもやと渦巻いていた疑問をお見通しなのではと思うほど、お話を聞き進むほどにわたしの疑問は解きほぐされていった。仏教の思想はわたしにはまだまだ難しいので、いつもわかったようなわからないような、といった心持ちでふわっとインプットしているが、今日ばかりは必死で頭を回転させながら、空腹で冴えた脳味噌も手伝って、わたしはどうするべきなのかを、学んだ。学べたと思う。
思えば、今回講演会に来た成り行きも導かれたようなところがある。仏教に興味があるのでよくYouTubeでスマナサーラ長老の法話を聞いているが、東京までは気軽な距離ではないのでリアルタイムでの法話会には滅多に出掛けない。今回は家族の予定が潰れたりしてこの週末がフリーになり、家でやりたいことをしてもよかったのだが、3日程前にふと「行こう」と思うに至りすぐにインターネットで申し込みを済ませ粛々と出掛けた。
家族の予定が潰れたことは私にとって残念なことで、軽く気落ちしていたが、かと言ってその代わりに出掛けたかったわけではなく、ぜひ出掛けなくては!と勢い込んでいるのでもなく、やるべきことをやるような気持ちで粛々と出掛けてきたのだが、こういう行為が私にはとても珍しいことなのだ。いつも大抵妄想過多で、自分が関わろうとする出来事に正負どちらかの、なにかしらの思い入れを持って挑んでしまうことが殆どだからだ。
ここしばらくの日々において頭の中でぐるぐると巡る思いがあったことも事実で、それを解消するために法話を聞きに行こうと思ったわけではないが、なにかを求めてはいたのだと思う。
いろいろな宗教や教えをごっちゃにして申し訳ない気持ちもあるが、見えないところで示されていたディレクションを感じずにはいられない今回の経験を神のお導きとか引き寄せとかいった超常現象みたいな価値観に帰するのは趣味に反するので、このシンプルな言葉をやはり言いたい。
求めよ、さらば与えられん。