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僕は、日常的に人が死んでいく環境で生きている。ICUで死ぬ人もいれば一般病棟で死ぬ人もいるし、緩和ケア病棟で死んでいく人もいる。数日前に言葉を交わした人がもう帰らぬ人になっている。敵のいない戦場みたいだ。 この職場に来た当初は、人が死ぬたびにその人の生きてきた過程に思いを馳せたりしていた。どこで生まれどこで育ち誰と過ごし何を生きがいにしてきたのか。苦労もあっただろうし、蔑まれたこともあっただろう、その時一緒にいてくれた人はいただろうか。 でも、もうそんなことはしなくなって
「自分が居てもいいんだ」と思える場所を見つけるのは、意外と難しい。 僕は、長らく居場所というものがあった時期が少なかったように思う。「自分が居てもいいんだ」という居場所がないのは、身の置きどころがないこと、帰る場所がないことになる。 「場」に居場所性を求められない人は、往々にして他者との関係性や、儀礼的行為にその代替を求めるように思う。特定の友達や恋人に依存する人、酒や煙草や賭博に依存する人。また昔の僕にとって「勉強をすること」「良い成績を取って褒められること」はもはや儀
短いエッセイなのだが、とても好きなものがある。 萩原朔太郎『僕の孤独癖について』。 萩原朔太郎は、大正〜昭和の詩人。ろくに知っているわけでも無いのだが、一応詩集は持っていて、「猫町」などは楽しく読んだ。(「猫町」はあまり詩らしくはないが…。) 「僕の孤独癖について」は、彼自身の少年期〜現在までの対人不安・強迫的なものの変遷を晩年に綴ったものだ。 青空文庫で公開されているものを少し引用してみよう。 こういう冒頭から始まる。いかにも引きこもっていそうな根暗な人間が書きそう