自己評価の意義と問題点
1. (1)ゴーン氏が犯行を否認しているのに、多くの報道ではあたかもゴーン氏が強欲な犯罪人であるかのような報道のされ方をしている。
(昔はあれほど日産の危機を立て直した功労者のように崇められたのに、逮捕されると、手のひらを返したように、今回の疑惑だけならまだしも、やれコストカットは悪だからあんなの人間のやる事じゃないとか、人と施設を切ることは誰でもできるだとか、ネットでは言いたい放題である。だったらお前がやってみろといいたいのだが…まあいいや。)
でもそれが裁判で真相が究明されない以上、それが事実かどうかも分からない。
そして事実だとしても、その事実に対してどう評価するかによって有罪かどうかも分からないし、有罪だとして、それがどの程度の量刑に値するのかもも分からない。
事実とそれに基づく評価、この2点がないとただの陰謀論か感情論に基づく中世の魔女狩りにしかならない。
(2) しかし、これらのプロセス、特に評価が難しい。
事実はまだわかりやすい。証人の発言の信用性といった問題はあるものの、ある程度科学的に認定できるから。
でも事実の解釈や量刑と言った評価は必ずどこかに主観が入るものだから難しい。
2. そしてそれは何も刑事裁判だけじゃなく、会社の人事評価の場合にもあてはまる。
もちろん、仕事の場合は、上記の人の人生が左右される場合と比べれば、まだ柔軟に出来る場合が多い。
でも上記の場合と同様、他人を評価する場合、その評価する人間の価値観や立ち位置によってバイアスが入る。検察官と弁護士では言っていることが全く違うように。
そこで他人の評価に加え、自己評価も必要ではないかと思う。刑事裁判で本人が身の潔白を主張できるように。
自己評価とは自分、他人の基準に照らし、自己の価値を決めること。
これにより、総合的に評価ができるようになるので、評価対象の本人にも納得性が生まれるのではないかと思う。
3. ただし、昨日のブログでも述べたように評価対象の本人には自信過剰バイアスがある。
それに加え、自信がない人も会社や評価する上司から嫌われたくないという思いがある。
その結果、自己評価を高く設定してしまいがちとなる。
そのことは、自社の場合で言えば、毎回、従業員意識調査の中で服装や職務態度の項目が以上に高いことからも窺われる。
もちろん、本当にその点についてしっかりされた方もいらっしゃるのだが、中には会社の指導が必要なくらいにそうじゃない方まで、自分は服装や礼式はしっかりしていると言っている場合が多い。
やはり、評価者としては、自己評価を聞いたり、アンケートを取る場合、そのへんの心理を踏まえなければならないと感じた。
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