人生に絶望している人にこそ見てほしいBLドラマ「恋愛至上主義区域」
最初に「恋愛至上主義区域」というドラマを知った時、「webtoonで流行りの小説世界への転生ものか、ファンタジーラブコメ?面白そうだから見ようかな」と軽い気持ちで視聴を決めた。
奇しくもそれは、私が本気で自殺を考えた日から僅か3ヶ月後の出来事だった。
今でも発作的に「あのとき死んでおいた方が楽だったのかも」と思うことはあるけれど、このドラマを見たことで気づかされた自己愛を思い出して踏み止まれている。
そういった意味で、「恋愛至上主義区域」というBL ドラマは私にとってかけがえのない作品になった。
他人を愛し愛されることは素敵だけれど、それ以前に自分を愛して大切にすることを怠ると、人は簡単に死を選んでしまう。
だから何よりもまず自分を愛そう、そんな切実なメッセージをこの作品は視聴者に与えてくれる。
【恋愛至上主義区域あらすじ】
※FODより抜粋
29歳のテ・ミョンハは、先輩の小説「恋愛至上主義区域」がゲーム化されるという話を聞く。その翌朝、目を覚ましたミョンハは自分がゲームの世界に迷い込んでいることに気づく。高校3年生に戻ったミョンハは、ゲームの世界で“チャ・ヨウンを幸福にせよ”というミッションを与えられる。しかし、捜し出したヨウンは不幸のどん底にいるだけでなく、人を寄せつけない冷たい目をしていた。ミョンハはあの手この手で“推し”のヨウンを幸せにしようとするが…。
【登場人物】
ミョンハ
主人公。現実では29歳。先輩が作ったゲーム世界へ飛ばされる。
ヨウン
ミョンハの先輩が書いた小説に出てくるサブキャラクター。有名な陸上選手。ミョンハと似た境遇。
サンウォン
スポーツブランド社長の息子。不良。ミョンハに惚れる。
ギョンフン
ミョンハのクラスメイト。遠距離恋愛中の彼氏がいる。
シア
ギョンフンの妹。モデル。陸上選手ヨウンのファン。
先輩
ミョンハの先輩。ヨウンが出てくる小説を書いた。ミョンハをゲーム世界に誘った人。
FODで日本語字幕版が配信されてるのでぜひ見てください!という布教も兼ねています
※以下、ドラマ本編の重大なネタバレを含みます
初めて「恋愛至上主義区域」を最後まで見た時に受けた衝撃は、それはもう天変地異か!?と言いたいくらいのものだった。
何故かというと、BLドラマという枠に知らず知らずのうちに固執していたせいか、これを一般的な恋愛もの――他者愛をテーマに描いたドラマだとばかり思っていたからだ。
作中で頻繁にミョンハとヨウンの類似について語られてはいたものの、まさかこのドラマの本質が「ミョンハ≒ヨウン」であり自己愛についてだとは思ってもみなかった。
まるで新しい世界の見方を教わった気分だった。
このドラマの始まりは、29歳のミョンハがひょんなことから先輩が作ったゲーム世界に入り込んでしまったところから始まる。そして先輩に与えられるミッションをクリアしてハッピーエンドを目指す、というストーリーだ。
作中で先輩からミョンハに与えられるミッションは、そんな無茶な!と思うほど無謀な目標もあるが、よくよく考えてみると全て生きる上で必要不可欠なものを表している。
お金、友達、他者からの承認、そして自己愛。
ミョンハは先輩が書いた小説を読んだ時から自分と似た境遇で苦労するヨウンに同情していたので、ヨウンのために必死になって与えられたミッションを次々とこなしていく。
ここまでの話の流れはよくあるものだし、ヨウンを救ってミョンハはゲーム世界に残りハッピーエンドなのかなと想像できた。
でもそれだけじゃない。
この作品のテーマは一見すると「ミョンハがヨウンを救うこと」だけれど、本当は「ミョンハがミョンハを救うこと」こそが真のテーマだ。
8話でこのネタばらしをされた時の驚きは、2度と忘れられない。
可哀想な境遇の好きな人を救う話だけでも充分ヒロイックで感動的な作品になったはず。でもこの作品は敢えて自分で自分自身を救う話を描いていて、そのことがとても素晴らしいと感じたし、BLジャンルで描いてくれたこともありがたかった。
自分で自分を救う、ということ。それは自己愛を育む、ということ。
「自己愛」と聞いて、いいイメージを持っている人はどれくらい居るんだろう。自己愛という言葉の響きからは、なんだか卑しいもののような、否定的なイメージばかりが脳内に浮かぶ。
自己肯定感、というとポジティブな感じがするのに不思議だ。似た意味を持つ言葉なのに。
そして、この恋愛至上主義区域の主人公ミョンハには、自己愛がない。それは彼の言動からも読み取れる。
己の身に危険が迫っても気にしていなかったり。過去に「あなたは人を愛せないのよ」と恋人に言われ振られ、サンウォンにも「ミョンハさんは愛され方を知らない」と厳しい言葉を吐かれる。
このエピソードで語られる「自己愛がないと上手く他人を愛する事も出来ず愛される事も出来ない」というテーマは、よく世間で言われる「自分を愛せないと恋人も出来ないよ」という親切ぶった説教と似ているように思えて、少し違う描き方をしていると思う。
だってミョンハ、自己愛がない状態でもヨウンのことを愛し始めていたし。自分を愛せなくても他人を愛することはできる、と私は思う。むしろ他人を愛することの方が遥かに容易だから。
でも自分を愛せなければ人からの好意愛情をうまく受け入れられないので、「愛され方を知らない」という言葉は的を得てるなーとも思う。
他人にどう言われようが自分の中で自分の価値はないから、作中でどんなにサンウォンから好き好きアピールされてもミョンハは適当にあしらうし、ヨウンから愛されても初めは戸惑っていた。
「自分を愛せないと他人も愛せないよ」という考え方、じゃあ他人を愛せない人間は人間失格ですか?(苦笑)って気持ちになるから好きではないし、ちょっと違うんじゃないかと常々感じている。
確かに他者愛と自己愛は切っても切り離せない相互関係にあるとは思う。幼少期に親から愛された成功体験があるとないとでは、その後の人生がまるで違ってくるから。
他人に愛された記憶があるということは、何があっても帰れる安全な居場所があるということ。
たとえるなら、高所から生身で地面にダイブしたとしてもふかふかの分厚いクッションがあるようなもの。愛された記憶がない人にはそのクッションがない。
だから困難な出来事に遭遇した時、すぐに極端な思考に陥ってしまう。
生きるべきか、死ぬべきか。
だってこれ以上頑張って生きていたって安息の地はない、そう思えるからだ。
現実世界のミョンハはそこで死を選び、本当に死んでしまった。
そしてミョンハはその極端な思考に陥ってしまう気持ちを実際に体験していたからこそ、ヨウンが衰弱していく様を見てそれこそ自分の事のように胸を痛めていた。ある意味ヨウンはミョンハ自身でもある(ヨウンは先輩がミョンハのためにミョンハそっくりに生み出した存在だから)ので、当然と言えば当然だけど。
ミョンハはヨウンのことを心配できるのに、どうして現実世界では死を選んでしまったのか。
それは自己愛の低さからというのが1番の理由だけれど、最後の引き金を引いたのは間違いなく「母親からの否定」だ。
ミョンハと母親の関係性については、ドラマの中盤で明らかになっていくが、「ミョンハが現実世界で母親に会いに行っていた」ことは8話でようやく明かされる。
このシーンは何度見ても辛いし、泣いてしまう。
ミョンハの母親は幼いミョンハを捨て祖母に押し付け、祖母のことも捨てた。それなのに自分は離島で幸せな家庭を築いている。
そんな最低な人に、ミョンハは最後の最後で縋り、そして奈落の底へ落とされてしまった。
人生に絶望し、それでも救いを、答えを求めて母親に会いに行ったミョンハの気持ちを思うと本当に悲しくてたまらない。きっとミョンハは無意識のうちに母親なら優しく受け止めてくれるんじゃないかと期待していたんだと思う。
でも、母親の答えは「存在の否定」だった。だからミョンハは水底に沈み死んだ。
親からの愛情がふかふかのクッションだとすれば、親からの否定は刺さったまま永遠に抜けない棘のようなものだ。刺された瞬間、その一撃だけでもう生きていけないと感じるほどの痛み。
ミョンハが死に場所に海を選んだのも悲しくて仕方ないな、と見るたびに感じる。海が好きだからなのか、母親が海辺に住んでいるからなのか……。そもそも海というモチーフ自体が母胎を連想させるので、母親という存在から逃れられない地獄をも感じる。
海で死ぬ作品というと映画ノッキン・オン・ヘブンズ・ドアの美しいラストシーンがこれまで自分の中の「海での死」の最たるイメージだったけれど、ミョンハの死に様は暗くて冷たくて絶望感しかなく、この作品では死を過剰に美しくは描かないんだなと思わされた。
8話で現実の記憶を取り戻したミョンハが、死んだ時に全てを後悔した、という台詞がある。ここの台詞がまさに自死を躊躇う人の心境そのものを表していて、共感し過ぎて毎度号泣するシーンだ。
ミョンハだって、死にたくて死んだわけじゃない。こう言うとすごく矛盾して聞こえるけれど、「死にたい」の言葉の裏には確かに「生きたい」という心の声がある。
これはミョンハが流れ星に願い事を言うシーンからも読み取れると思う。
最初にミョンハが流れ星に願ったことは、「消えてしまいたい」
次に願ったことは、「誰かにいてほしい。心配してくれる人。絶望した時に支えてくれる人。愛してくれる人が欲しい。(そんな人がいたら)」
死にたい消えたいというのは逃げ場所を探してのSOSであって、言葉通りの意味ではなかったはず。だからこそ死の瞬間、後悔が頭の中を駆け巡ったんだろう。
死ぬ直前のミョンハに、少しでも自己愛のかけらや他人から愛された実感があればこうはならなかった。
祖母にも母親(祖母の娘)ほど愛されてないと感じていたミョンハ。恋人と上手く付き合えなかったミョンハ。友達もいなかったミョンハ。世間から認知されておらず、消えても誰も自分を気にしないと思っていたミョンハ。
このミョンハに欠けていた全てを「ミッション」としてミョンハに与え、もう一度やり直すチャンスをくれたのが謎の先輩というわけで。先輩、本当に何者なんだ……。
名前も正体も明かされないまま終わった「先輩」だけれど、私はすごくすごくこの先輩のことが好きだ。先輩は最初から最後までミョンハを見守る視線がとても優しいので、先輩が何者だろうとミョンハのことを案じ助けようとしてくれていた気持ちに偽りはないと思う。それもまたひとつの大きな愛だなとも思う。
先輩がミョンハに課した最大のミッション「ヨウン(≒ミョンハ)を幸福にせよ」とは、先輩がミョンハへ説明した通り「他人を通して自己愛を学ぶこと」を意味している。この考えも、衝撃的だった。他人を通して自己愛学んでもいいんだ!?っていう。
このドラマ(原作小説も)は、これまで世間から良しとされていなかった物事に対して肯定し優しい視点を持っているから、本当に色々と考え方を改めさせられた。
他人を愛し癒すことで過去の自分を愛し癒す。
他人を利用したセルフケアと言うと聞こえは悪いけれど、それで2人とも幸せになれたのなら優しい世界だとも思うし、これは芸術やフィクションの中での昇華とも似た意味を持つと思う。自分の抱える報われない感情と似た物語を作り上げたり見たりして、マイナスな感情をプラスに変換させる。
あと、ここでひとつ疑問なのはミョンハとヨウンは他人なのか?同一人物なのか?という点だけれど、私はこの2人はニアリーイコールの関係性なんだと解釈している。全く同じ存在ではないが、限りなく近しい存在と言えばしっくりくる。
自己愛のないミョンハに自己愛を学んでもらうためには、ヨウンという他人とも自分とも区別のつかない存在が必要だったからこそ先輩が生み出したんだろうし、その先輩の思惑は功を成した。
ミョンハが自己愛を獲得出来たのはいつなのか。それはミョンハが最後に先輩と再会し、真実(現実世界のこと、ヨウン≒ミョンハのこと)を知っても尚、ヨウンを求めて走り出したあの瞬間こそが、本当の意味でミョンハの自己愛が芽生えた瞬間なんだと私は感じた。
ヨウンは本当の意味で他人ではない。現実世界の人間でもない。ほとんど自分自身のようなものだけれど、それでもヨウンを愛している。そんな自分を受け入れたミョンハ。これも自分を愛することだと言えるんだ、そんな優しいメッセージが8話ラストのミョンハとヨウンの再会シーンに込められているんじゃないだろうか。
この作品を見ていると、自然とセルフケアについて考えさせられてしまう。何故、他人に優しくすることは簡単なのに、自分には優しくできないんだろう、とか。他人を傷つけることには抑止力が働くのに、自分を傷つけることは躊躇わないんだろう、とか。
何も考えずにただ日々を過ごしていると、自分のことを傷つけおざなりにすることに慣れ切ってしまう。これってセルフネグレクトじゃないか?と思うようなことにも、麻痺した感覚では気づけない。
「自分を大事にするとかなんかダサいし」という感情。そもそも世間的に見て価値のない自分を大切になんか出来るわけない。自分なんかいなくなればいいと、毎日気づかないうちに自分自身を虐め抜いて生きて。
そしてある日、心がポッキリ折れてしまった。
29歳のミョンハが死のうとしたことを、私は否定したくないと思う。その気持ちが痛いほどわかるから。
そして、この「恋愛至上主義区域」を見てから、絶望したとき最後に縋れるのは他でもない自分自身なんだと気づかされた。
縋る場所を誰か他人にしてしまうと、作中のミョンハのように存在を否定されたとき、本当に絶望させられてしまう。
だから、みっともない底辺な自分でも、自分くらいは「まあ、生きていてもいいんじゃないか?」と認めてあげることが出来たのなら。
これから先、何があっても選択肢を間違わずに生きていける。きっと。
「恋愛至上主義区域」というタイトルについて。
このタイトルって皮肉だなーと思っている。自己愛について語っている作品なのに、まるで真逆の内容かのように誤認するタイトル。わざとなのか?キャッチーさを狙ったのか?真相はわからないけど、理由を考察するのも楽しい。
恋愛はなくても正直困らない。けれど無償の愛はそれを経験しているのといないのとでは人生の幸福度が大きく違ってくるものだ。そして生きていく上で最も必要なことは、自分を愛すること。
愛が全て!と言われると、Aro/Aceの自分からするとげんなり顔をしてしまうが、こういう解釈なら受け入れやすいなーとか。
愛って他者愛だけではないし、恋愛だけが愛というわけでもない。
サブキャラクターについて
サンウォン
劇中内で最も子供っぽいキャラだと思う。一見やさぐれてる不良だけれど、保護者からの関心に飢えている子供。ネグレクトされてる家庭環境が見え隠れしていたし、そもそもサンウォンがミョンハに惹かれたのってヨウンやギョンフンの保護者役をしていたからだと思うんだよな……。ああいう風に世話を焼かれたい、それが興味を持ったきっかけじゃないかな?と考えている。恋愛感情なのか?って言われるとあまりにも子供っぽい。でもそんな形の愛も否定しないこの作品のありようが好きだ。
ギョンフン
聡明で大人っぽいキャラクター。それでいて妹のシアといる時や彼氏と連絡を取り合っている時に年相応の振る舞いをしていて、好感しかない。ミョンハに対して恩義を感じていて慕ってる様も可愛い。ギョンフンと彼氏のエピソードもっと知りたかった。原作の外伝読めば出て来たりするのか?
シア
ドラマ版ではあまり出番がないものの、ミョンハとヨウンのいい友達兼相談相手で、その関係性が大好きなキャラクター。ヨウンのファンだったけれどヨウンの恋愛相談に乗ってくれるノリのいいギャル。ミョンハを介して集まった友達グループの中でもムードメーカーはシアだと思うんだよなー。けして恋愛関係にならない親しい友人って関係性が大好物なので、ミョンハと仲良く会話してる場面も大好き過ぎる。
先輩
結局何者だったんだろう。ミョンハが願ったお星様?(ファンタジー)それとも世界の創造主?はたまた昔ミョンハが世話になったバーの店長?
なんにせよあの慈悲深さと優しさは、得難い視聴体験をさせてくれた要の存在だった。
最後に。
恋愛至上主義区域に出てくる海への印象は、その瞬間ごとに異なってくる。
序盤はキラキラとした、青春のイメージ。ミョンハが死んだ時には、暗く絶望のイメージ。そして最後にミョンハがヨウンの元へ帰って来た時、希望のイメージに変わる。
この作中内での海への感じ方のように、死にたいと思ってしまう気持ちを上手く変化させて生きたい、と願っている。
そもそも、生きる権利がない人間なんて本当はいない。当たり前のことなのに、何故か人は時々うっかりそのことを忘れる。
自己愛を他人を害する道具として振りかざすのは良くないが、自己愛がないと生きていけない。つまり、自責思考も他責思考も偏り過ぎると歪みを生む。
(それにしてもBLドラマを見て基本的人権について考えさせられる日が来るとは思わなかった)
死にたいと考えてしまうこと自体は、否定出来ない。生きていれば辛くて苦しいことが起こるし、逃げ場所がなければ死にたくなってしまう。
それでも最後の手段に出る前に、「いやいやでも自分は中々悪くない人間かも」「せめて自分だけでも自分を認めてあげようかな」とストップをかけられるような、そんな心持ちをこの「恋愛至上主義区域」という作品は教えてくれた。
これから人生に絶望するたび、この作品を見ると思う。そして先輩がミョンハにもう一度やり直すチャンスを与えたように、私も私へやり直すチャンスをあげようと思う。
絶望した時にこそ見てほしい。
「恋愛至上主義区域」は、そんなBLドラマだ。
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