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スパイダーマンも20年かけて成仏していく…(『スパイダーマン No Way Home』感想)

この記事には、映画『スパイダーマン ノー・ウェイ・ホーム』等のネタバレがあります。

最大級の成仏映画

 このところ積年のクソデカ感情を「赦される」あるいは「成仏」させられる映画が多い。『仮面ライダー 平成ジェネレーションズ FOREVER』しかり『シン・エヴァンゲリオン劇場版』しかり『マトリックス レザレクションズ』しかり。

 これらは、20年なりのいくつかの(いくつもの)シリーズ作品を総括するとともに、その根底に流れる主題とその制作にまつわる波瀾万丈さに呼応した(平たく言えば「付き合って」きた)ファンを包み、全肯定してくれる作品たちだ。愛していてよかったと。

 年始に公開された『スパイダーマン ノー・ウェイ・ホーム』もその通りで、あの頃の「ライノが出てきてその後どうなったんだよ!」というアメスパ2の「オレたちの戦いはこれから的なシリーズ打ち切りラスト」でさえ、劇中で各ピーター・パーカー達による「スパイダーマンあるある談義」の流れで、アンドリュー演ピーターが「サイのアーマーを着たロシア人(セリフ微妙に覚えてなくてすみません)」に触れてくれたちょっとした刹那で、心の中の燻りがサッと晴れて昇華されてしまう。

 あそこでも、ここでも、至る場所、至るシーンで20年来の「"映画版"スパイダーマン」が成仏していく。最大級の成仏映画、まさに20年法要、興行収入は大勧進の如く。自分で言ってて意味わかんねぇけど。

 そして我々は『スパイダーバース』の経験者でもある。あのアニメーション作品の視聴後感として「池上遼一版の小森クンも出てきてええんやで」とニッコリしていたオタクたちは、それで満足するはずもなく、MCU作品で実写スパイダーマンが続くならレオパルドンが登場するか、東映版をリブートして濱田龍臣を主演にしなければ気が済まないはずだ。俳優の濱田龍臣にピーター・パーカーというか小森ユウを演じてほしいとのは個人的な願望です!

『スパイダーマン ノー・ウェイ・ホーム』は、そんな面倒くさいスパイダーマニアたちの20年を温かく総括するだけでなく、エンドゲーム後の「キャップと社長のいないMCU作品だからって消化試合みたいにすんなよ、フェーズ4はちゃんとしろ」という偏りまくったスパルタ感覚を払拭し、エンドロール後の視聴者に「ヴェノムまで繋いじまうのかよ! 次はマイルスだな!」と将来作品を予想するスパイダー感覚を授けてくれる作品でもある。

 ぼくはこの映画を観る前に、二日かけてサム・ライミ版『スパイダーマン』3作とマーク・ウェブ版『アメイジング・スパイダーマン』2作を復習しておいた。これが大正解であった。なので、観る前に何らかの予習復習をしておきたい、という人はMCUを全部観るという方向ではなくて、各監督版の『スパイダーマン』を観ておくというのが良い感じがする。

その男、ドクター・ストレンジ

 序盤、前作ラストの「スパイダーマン」=「ピーター・パーカー」バレを虚偽映像とともに広められたところから物語は始まる。報道するのはデイリービューグルのJ・ジョナ・ジェイムソン(以下、JJ)。サム・ライミ版スパイダーマンでの同役で、前作『ファー・フロム・ホーム』のラストで彼が映し出された時にはマジかよ、と思ったものだ。

 このJJ、最初はグリーンバックでいかにもトンチキ情報在宅配信おっさんYouTuberですという風情なのだが、後のシーンでしっかりしたスタジオで収録しているあたり、スパイダー焼け太り(そんなデビルイヤーは地獄耳みたいな言い方すんなや)してんなぁ、という感じ。

 正体バレのおかげで、ガールフレンドであるMJとの逢瀬も市民全パパラッチ化の現代ではおぼつかず、スパイダーマン追放派と擁護派に挟まれて大学進学もフイに。そこで以前の戦いで出会った「魔法使い」のドクター・ストレンジになんとかしてもらおうと、彼を訪ねる……というのが導入部分。

 MCU版でのピーターは、なんというか思慮の浅い少年風情というのが貫かれていて、常に大人達に勇み足を窘められている。窘めたくなる、すなわち可愛がりたくもなるというのは、おそらくすでにヒーローとなった「行く末としての大人」達に似た性質を持っているからなのだろう。

 アイアンマンもドクターも、初登場作品では大人としては未熟な部分が描かれていて、彼らが超人的なパワーを得る前後でそれに起因する数々の苦難が立ちはだかり、屈折や喪失があり、乗り越える度にこじらせながらもケリをつけていた。決して「完璧な大人」になりきれているとは到底思えないキャラクターなのだけれども、少なからず彼らは「落とし前をつける、折り合いをつける」ということをやっていくし、それは多くのアメコミ的ヒーローで描かれる大人の姿でもある。

 でもドクターは、アイアンマンことトニー・スタークがピーターに対して父親然として厳しく振る舞っていたことを考えると、ちょっと詰めの甘い(=ドライなこと言うくせにめちゃくちゃ優しい)ところがあって、ピーターが「きかん坊」を発揮すると「だから私は子供を持たなかった」みたいなことを言ってしまうし、魔法でしくじっても魔法で辻褄を合わせれば、あるいは辻褄が合いきらなくてもしょうがない、けど後悔はしっかり抱え続ける、そんなフシがある。

 能力でできることは全部やるが、そこからはみ出る部分があったときに、初志貫徹だとか根性だとかの精神力で乗り越えようというスタンスではない。1,400万回トライできるなら1,400万回冷徹にトライし、1,399万9999回目に例えば「あと1回! これまで全部失敗してきたが、最後の一つに俺は賭ける! なぜなら俺は1,399万9999回トライした男だからだ、うぉおおおおおお!」というドラマチックなノリは持たない。

 1,400万回の世界滅亡をシミュレーションした果てに、トニー・スタークが生き残れない未来を選択するしかなかったからこその、ドクター・ストレンジだ。

 ピーターはドクターに正体バレのことを人々から忘れさせる魔法の術を使ってもらう。予告編映像にあるように、術をかけている途中にピーターがやいのやいの例外設定をするように言う。ピーター、黙っとれや! と言いたくもなるし、そうこうしているうちに術は不完全なものに。すなわち……失敗。

 このあたり、ピーターには覚悟がなく、ストレンジには逡巡があったことがまるわかりで、一瞬で二人の格が下がる。ほんとうに下がる。

春映画(概念)とはこういうものだ!

 ここからのテンポがすごくよい。ドック・オク、グリーンゴブリン、リザード、エレクトロ、サンドマンといったサム・ライミ版&マーク・ウェブ版でのヴィラン(宿敵)が当時のキャストで続々登場。春映画(←特撮オタク用語)ならぬ新春スパイダー祭が加速していくわけです。マルチバース表現が9つの地球がぶつかり合ってしまうとかでなくてよかった。

 発生してしまったのは「スパイダーマンがピーター・パーカーであると知っている者を、あらゆる世界から呼び寄せる」という珍現象。地球上の人々への「忘れる」という脳内活動への魔法的アプローチが、数多のマルチバースを超えて「知る」に作用し、果ては何者かが「やってくる」という現象に紐づく理屈がよくわからないが、起こってしまったのだからしょうがない。そもそも指パッチンで人々が半分消えてしまう世界なので。

 別々の世界が融合されようとしたり、行き来できたり、というのは特撮オタクにとって春の風物詩。別世界からやってくる同じ名前のヒーローが、万一オリジナルキャストでなくても、声が過去収録使いまわしのライブラリでも、雑な名乗りでも、あるいは見たことのない技である「アギトの光る手刀」や「ゴーストの上B」や「キバの鎖なぎ払いアタック」がお出しされても、全部を呑んできた我々に、多少の「解釈違い」や「雑」など許容範囲。『仮面ライダーディケイド』以降、干支が一周するくらいにはこういう演出を何度も何度も何度も見せられてきた特撮オタク、面構えが違います。

 しかしこれは東映作品ではなくMCU作品。徹底的にやってくれている。面倒くさい特撮オタクのスパイダー感覚をもってしても、サンドマンとリザードの人間態が過去映像か写真かを加工したような質感だった以外は「ざ、雑〜っ!」という「二義的な面白さ」を感じるところは無し。面白さにいちいち一義的か二義的かということを言い出しているあたり、鑑賞する態度としてどうなのかというところはありますが。

 掴むところはきっちり掴んで、そっと触れたところにもきっちり感触がある。けれどこれは、20年にわたるスパイダーマン映画やMCU作品の視聴経験から来るものであり、さらに東映の春映画にあれやこれや言ってきた蓄積があるからであって、一見さんお断りな雰囲気があるかないかといえば、めちゃくちゃあるじゃんこれ! というのは否めない。

3作使ってやっと"スパイダーマン"に

 MCU版のスパイダーマン映画は『ホーム・カミング』『ファー・フロム・ホーム』『ノー・ウェイ・ホーム』の3作あって、さらにMCU作品におけるスパイダーマンの初出が『キャプテン・アメリカ/シビル・ウォー』という「アベンジャーズと銘打たれていない集合映画」なものだから、ほんとうに前提知識というか視聴ハードルが高い。「MCU全部観ろ勢VSスターウォーズ観る順番こだわる勢」をやって、対消滅してくれたら楽なのに。(←余計な波風を立てるな)

 けれど、3作使ってトム演ピーターは、やっと名実共に「スパイダーマン」になった。これはどの感想ブログにも書かれていることなのですが、原作アメコミもアニメもサム・ライミ版もマーク・ウェブ版も「未熟さと自分勝手から、育ての親であるベンおじさんを喪う」→「『大いなる力には大いなる責任が伴う』を主人公が実感し、体現していく」→「『親愛なる隣人』ヒーローとして大衆を惹起する」というというストーリーラインがある(あった)わけです。

 この「お約束」をMCU版ではぶった切っていた。

 人々の記憶にある「スパイダー概念」に寄り掛かる形で「ヒーローのオリジン」を薄めにした上でスパイダーマンを扱ってきたとも言える。もちろん、MCU作品にはたくさんのヒーローがいて、それぞれに悲哀や挫折からの復帰を含んだストーリーがあり、再三そういうのを見せつけられているので、スパイダーマン「でも」それをやるというのはクドイ、というのはあったのかもしれない。

 それが今回、「未熟さと自分勝手」のスケールがマルチバース規模に拡大され、呼び寄せてしまったヴィランによって「メイおばさんを喪う」ことになり、『大いなる力には大いなる責任が伴う』ことを歴代スパイダーマンに補強され、当初望んだとおりではあったとはいえ他者からの認識を全て失って、あらためて『親愛なる隣人』たるヒーローとして起つ。

 ピーターが新しく住むアパートは、こころなしかサム・ライミ版でのアパートに似ていて、家主の家賃支払日が月初だというセリフまで聞こえてくる。そして、ミシンと手製のスパイダースーツが映り、映画は幕を下ろす。

 当然「ここからがほんとうのすぱいだーまんだ」と期待するわけだが、3作+αにわたってトニー・スタークに、ニック・フューリーに、そしてドクター・ストレンジに振り回されてこれでは可哀想が過ぎるな、という感想も持った。

 特に前作『ファー・フロム・ホーム』でのニック・フューリーは最悪だと思っていて、まあ、なんで最悪かは同作のラストまで観るとわかるのだけれども、いずれにしたってメキシコでの「大地のエレメント」出現時にミステリオことクエンティン・ベックの狂言もどきを見抜けなかったことから後の騒動に繋がっている。

 登場人物たちのちょっとした迂闊さ、詰めの甘さ、言うなれば「だろう運転&かもしれない運転」の差みたいなところが積み重なって大惨事になるのはMCU作品の常だし、好物といえば大好物なのでぼくの小説『ブロックチェーン・ゲーム 平成最後のIT事件簿』もそういう風合いにしてあるほどなのだけれども、『ノー・ウェイ・ホーム』というタイトルどおりとはいえ、あまりに切ないラストであった。

続編への期待は半々

 天涯孤独の身となったピーター・パーカー。これまでのMCU作品で出会った面々もスパイダーマンの正体を知らなくなったので「誰も知らないローカルヒーロー」になったのだと言える。もし続編が描かれるとしたら……という妄想は尽きないが、しばらくトム版ピーター・パーカーには穏やかな日々を送ってほしいと思う。

 そこで……やっぱ東映版のリブートですよ!

(了)


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