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25才まで生きた心地がしなかったアラサー女の半生 #9


救急搬送


 父に通帳管理の話を提案すると。抵抗せず受け入れました。細かく考えるのを面倒くさがっているように見えました。母は何がおもしろくなかったのか、1度ミーティングに参加したきり、拗ねた子供のようにこの件に関わってこなくなりました。しばらくして父の通帳は、社協に預けられることとなりました。これで、父が稼いだお金に関しては全て、役場と社協の職員で編成されたチームが管理することになり、固定資産税をはじめとしたあらゆる滞納の返済と、転居、土地の売却までを、第三者がサポートしてくれる運びとなりました。
 この話をまとめるために、私は夜中働いて、昼間に実家や役所を走り回るという生活をしていました。2カ月で体重が10kg落ち、でも何故か下腹だけは出ている、毎月の生理がどんどん重くなって吐く。という異変がありましたが、実家の問題が片付いた清々しさで心がいっぱいでした。
 仕事のシフトを元の昼間に戻し、それから少し経ったある夜。私は腹部に猛烈な痛みを感じ、身動きがとれなくなりました。気持ち悪くて何度も吐きます。どうにか救急車を呼び、近隣の総合病院に救急搬送。CTを撮る前に、ぽっこり出た下腹を妊娠と勘違いされるひと悶着を経て、下った診断は"子宮内膜症"と"卵巣のう腫"。下腹のふくらみは腫瘍によるものだったのです。
 医師に提示された選択肢はふたつ。ひとつはこのまま緊急手術をするというもの。ただし、運ばれた病院では大きく切開する手術しかできず。長めの入院になってしまう。ふたつめは、再び具合が悪くなるリスクを負って、遠方の大学病院へ通い。腹腔鏡手術で腫瘍を摘出する方法。この手術ならわずかな切開で済むので、入院も、仕事への復帰も短期間のうちに済む。
 医師からは、ねん転(腫瘍がもとで卵巣がねじれて耐えられない激痛となる)のリスクもあるので緊急手術を、とすすめられましたが、私は後者の腹腔鏡手術を強く希望しました。理由は、何の準備もなく緊急手術をした場合、家族を頼ることになってしまうからです。心配をかけたくないなどという、けなげな気持ちはみじんもありません。両親にアパートの鍵を渡して、荷物をとってきてもらうことすら、死ぬよりも嫌なことになっていました。もちろん医師にそんな事情はいちいち説明しません。必死に屁理屈をこねて、緊急手術を回避した私は、車で1時間かかる大学病院の産婦人科へ通うこととなります。

絶縁


 救急搬送から、遠方の大学病院の通院を経て、手術をするまでに7カ月かかりました。通院の運転は毎月、手術の日以外全て、自分でおこないました。卵巣のう腫の治療に、職場が協力的だったのがとても助かりました。以前、別の社員が産婦人系の病気で通院していたことがあったそうです。工場の仲間たちは、心配の声をかけてくれました。
 反対に、家族には治療の進捗は一切話しませんでした。"居ない方が楽だな"と考えるようになっていたからです。病気は、家族との溝をより浮き彫りにしていきました。
 手術の付き添いも、成人した妹に頼みました。妹曰く、何も言わない私に母が拗ねている。とのこと。うっとおしいと感じました。昔、パチンコへ行って帰らない母に何度も電話をしましたが、いつの間にか立場が逆転し、こんどは私が母からの着信を無視するようになっていました。
 手術の前か後か、忘れてしまいましたが。母に「心配だから実家に顔を出しなさい」と呼び出されました。
 その頃には、実家は古い家から引っ越しができ、世帯向けのアパートに、両親ときょうだいのうち3人が暮らしていました。出て行った土地も、不動産のHさんの尽力で無事に売却。滞納していた数千万の税金を完済し、そのおつりを引っ越し費用としました。
 久々に会った母は、はじめのうちは、私の体調を気遣っていましたが、次第に本音が漏れます「通帳管理というのが厄介。お米も自由に買えなくて困っている」愚痴は止まりません。母は、私が手術をする病気になろうが自分のことしか考えないのだ、と思いました。
 父の通帳管理も、生涯続きます。役場と父とで定期的にミーティングも行われます。そこへは"言い出しっぺ"の私も呼ばれます。
 通帳管理の過程で知ったことですが、非正規雇用の父の稼ぎに余裕はなく、母も気まぐれにパートに出るのみ。かなり切り詰めなければ、実家の家族たちは暮らしていけない状況でした。しかし父は、ろくにプランも見ず、安くなるといううたい文句だけに飛びついて、インターネットのプロバイダを変更したがったり、必要のない買い物をしたりと、マトモに現状に向き合いません。
 ミーティングでは、いつの間にか、私が父を叱る役割となっていました、仕事帰りに役場に呼びつけられ、年寄りの父を説き伏せる。自分はなにをやらされているのだろうと疑問を持ちました。
 「通院、手術で疲れたので、しばらくそっとしておいてほしい」と、役場の職員に相談したのは手術を終えた27才のころです。お世話になった職員のKさんは移動でいなくなってしまい、仕事を引き継いだ新たな担当の方と、また関係を作っていく気にはなれませんでした。
 距離を置きはじめた私に対して、両親は急にベタベタと距離を詰めてきました。地元のスーパーで偶然出会えば「困ったことはない?」と話しかけてきたり。食事に誘ってきたり。そこには嫌悪感しかありませんでした。
 とおい昔。まだ私が子どもだったころ。晴れた日はよく家族写真を撮りました。写真好きの母が作った大量のアルバムの本棚が、リビングにありました。父が農協に用がある時は、弟とその近くの公園に連れて行ってもらい、遊びながら父を待ちました。遠出をするとしたら、水族館と遊覧船のコースと決まっていました。オシャレをうまくやれない私は、母が着飾る姿に憧れていました。学生時代に体操選手だった父の、たくましい腕に安心感を覚えました。両親の心根は善人だと、ずっと信じようとしていました。黙って、我慢して待っていれば、いつかまた穏やかな家族の時間がやってくるのだと、どこかで待っていました。
 しかし、いつからか、私と家族とで、どんな関係をもてばよいのか、いっさい思い描けなくなっていました。
 ある時、父に、思いつく限りの暴言を書いたショートメールを打ち。家族全員の連絡先をブロックしました。役場からの連絡も無視をしました。スーパーで見かけることはあっても、互いに話しかけることは無くなりました。
 30才のある日、個人的な用があって役場の窓口へ行ったとき。父と鉢合わせました。何の言葉も湧いてこず、無視をして用を済ませました。隣の窓口から「あの子はあいさつもしない」と職員に愚痴る父の声が聞こえました。なんの感情も湧いてきませんでした。

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