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「花束みたいな恋をした」の余韻

 恋愛映画を観に行ったのは、いつぶりだろう。 坂元さんの脚本は好きだけれど、観にし行くつもりはなかった『花束みたいな恋をした』の評判を聞いて、行った私は大概ミーハーだなと苦笑するけれど、本当に行ってよかったと思った映画だった。

  脚本の坂元さんの言葉選びが本当に素敵で、土井監督の演出が見事で、じんわりと心に種を植え付けられた映画だった。 誰かと語りあいたくなる物語だった。

 あらすじは以下の通りである。

東京・京王線の明大前駅で終電を逃したことから偶然に出会った 山音やまね麦むぎ (菅田将暉)と 八谷はちや絹きぬ (有村架純)。 好きな音楽や映画が嘘みたいに一緒で、あっという間に恋に落ちた麦と絹は、大学を卒業してフリーターをしながら同棲を始める。 近所にお気に入りのパン屋を見つけて、拾った猫に二人で名前をつけて、渋谷パルコが閉店しても、スマスマが最終回を迎えても、日々の現状維持を目標に二人は就職活動を続けるが…。 まばゆいほどの煌めきと、胸を締め付ける切なさに包まれた〈恋する月日のすべて〉を、唯一無二の言葉で紡ぐ忘れられない5年間。 最高峰のスタッフとキャストが贈る、不滅のラブストーリー誕生!
──これはきっと、私たちの物語。


 私が感じたことを箇条書きしていこうと思う。 大したことは考えていない。 (以下ネタバレあり)


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恋愛という音楽をL(ラブ)で聴く絹とR(リアル)で聴く二人

 映画は2020年、二人が各々別の恋人に、「(を片耳イヤホンで音楽を聴いている)流あじれている音楽が異なるから、片耳ではなく両耳で聴くべき」だと熱弁しているシーンから始まる。 付き合ってすぐ、音楽を一つのイヤホンで聴こうとする絹と麦。 そこを 音楽業界人に1時間説教されるわけだが(それをまともに聴いていた二人何故wとは思うけれどw)、結局、二人は「恋愛」を違う音で聴いていたからこそ、そこに齟齬が生じたのだ、ということが巧く描かれているのかなと思った。 イヤホンという道具を用いて描くところが巧い。

 恋人のことを相談していて、「恋愛って賞味期限あるから。 また、別の人を探せばいいよ 」と言われる恋愛感情を優位とする絹と、「相手の嫌なところに、かさぶたみたいに蓋をして別れない理由を探すのよね」と言われる恋愛感情以外の情で繋がっている麦。 年齢を重ねて「社会」を意識する麦と、あくまで個人が起点の絹の温度感が見事で、こういう恋愛は多いだろうなあと思って非常に興味深かった。 


「大きなドラマのない恋愛」

 私は恋愛を主軸としたドラマが苦手なのだけれど、その理由の一つがステレオタイプの恋愛ばかりだからだ。 ドジな主人公、俺様なイケメン、素敵な当て馬、強気な美人ライバル… …。 お互い、いがみ合っていたが、段々惹かれていき… …。 もちろん、その中にも名作はあって、見ていて楽しいものもあるけれど、形骸化したそれをここでもかと強調する作品を好めなかった。 そこでいうと、この映画には大きな「ドラマ」はない。 終電を逃した男女の趣味が合って、何となく惹かれていき、価値観がずれていって別れるという、大きなヤマのないドラマである。 ただ、これが現実の恋愛に近いものである。 絶対的な価値で恋愛する恋愛なんて殆どなくて、相対的な価値観の中で恋愛していくというのを上手く描いているなあと思った。


「サブカル」の調理法

 この映画が成功した理由に、二人が惹かれった共通の価値観が「サブカルチャー的なもの」だったところにあるだろう。 出てくる文学や音楽が絶秒に「サブカル的なもの」で、恋愛的なものを求めて見に来た方々には、未知の言語であるだろうなと思いつつ、そこは「価値観が同じ二人が恋愛した」という広義の物語として、昇華される。 どちらも面白く消化できる、この映画はさしずめ、「米津玄師的映画」と言えるのではないだろうか。 その温度感もあざとくて好きだった。
絹が麦の家の本棚を見て発した「ほぼ同じ本棚じゃん」という台詞に、Twitterで同棲を始めたカップルがアップした同じ本が2冊ずつある本棚を思い出した。本棚って指向性が出るから面白い。
もっとも、「サブカル的なところ」で私が爆笑してしまったシーンは、映画好きと自称する男性が「おすすめの映画は「ショーシャンクの空に」」というシーンがあったのだけれど、私以外周りの人が笑っていなかったので、少々切なくなったのだが。

「天竺鼠のLIVE」に行かない選択肢をした絹、行くのを忘れていた麦 

 絹は、楽しみにしていたライブと自分を邪険に扱うイケメンとの食事を天秤にかけ(断れなかったとはいえ)、食事を優先し、実際にライブに行かなかった。 一方の麦は、グーグルマップに自分が映っていたのが嬉しくてそれに浮かれていて、その後、燃え尽き症候群になっている間にライブを忘れてしまい、行けなかった。 恋愛や仕事において、 意識的に選択する絹と、周りに流される麦が、その経緯からも読み取れるかなと思った。

 仕事も「生きるって責任」と夢のイラストレーターを諦め、「堅実に」仕事に打ち込んでいる。 「仕事とはこうあるべき」という「べき」によって真面目に働いている。 一方の絹は、条件の良い仕事を辞め、「自分が楽しい仕事」を選択している。 どちらが正しいというわけではない。 ただ、性質として大きく異なっているということを比較しながら丁寧に描いていく様に感激した。

 考え方がずれていくのを「靴」で描写しているのも巧いなと思った。 同じ靴を履いていた二人が違う温度を帯びていく。 それを靴で表現するのは、シンプルで洒落ているよなと思いながら観ていた。


「花束みたいな恋をした」というタイトルの意味は?

  このタイトルもかなり考察の余地があるタイトルだと思う。 そもそも、このシンプルなタイトルの響きが美しくて、そのシンプルさに嫉妬する。 坂元さんは、複数の意味を持たせるのが巧い。 「沢山の思い出が連なった、美しい恋をした」ともとれるし、「最初は美しくとも、潤いを失っていき、やがて枯れていく恋愛」ともとれる。

 私は「〇〇の恋」とまとめられない恋をだったと捉えてみようと思う。

 麦と絹が静岡に旅行に行った際、撮った写真の中に、ある花が映っていた。 その 花の名前を尋ねる麦に、絹は「男の人に花の名前を教えてしまうと、その花を見たとき思い出してしまうから」と花の名前をあえて教えなかった。 その花は、マーガレットだった。 マーガレットの花言葉は、「恋占い」「真実の愛」「信頼」。 絹は麦に、それを教えなかったというところに二人の関係の結末に、意味性を持っていて興味深かった。

 川端康成の小説の一節に、「別れる男に、花の名を一つは教えておきなさい。 花は毎年必ず咲きます。 」というものがある。 麦の中の絹も、絹の中の麦も結局のところ、「絶対的な存在」では 結局、麦と絹は「こうだ」といえる恋愛が出来なかった。 「恋愛”ごっこ”」いわば「花束”みたいな”」恋をしていたということだ。 そういう皮肉めいた意味合いを持たせているのかなと思って、改めて、その幅の広さに感激した。


 こう書いたけれど、観た者が「考察する」という行為によって「名作化」している部分もあるよなと思いながら、これを打っている。 夏目漱石の小説も勿論名作ではあるのだけれど、それを考察する優秀な読者たちによって名作性を強めている部分がある。 「問いをくれる」面白い映画だった。 ラブストーリーもたまには悪くないなと思った今日この頃だった。

追記
めちゃくちゃ良いnoteがあったので、貼っておきます。小説家の方の考察noteです。

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