セルフレジから考える資本主義
毎朝会社の最寄りのコンビニを利用する。
レジは有人レジ、セルフレジのどちらもあるが、大体進みの早いのがセルフレジなので、特に急いではいないけれどお会計のスムーズなセルフレジを当たり前のように選んでいた。
ところがある時ふと、
「有人レジの意味とは?」と考えた。
そんなのセルフレジでは対応できない、公共料金の支払いや、配送受付、ホットスナックの注文などがあるし、時に人がやるよりもスムーズで、お客様で勝手にやってもらえれば、その分スタッフも別の業務ができて、トータルで見て効率的だからというのが理由だろう。
前もって言うが僕は行き過ぎた資本主義や、成長、効率などを追い求める資本主義的な考え方が苦手だ。
なのでセルフレジで効率化されたコンビニでは、きっと前よりも人員が必要なくなって人が減らされるか、もしくは効率化によって生まれた時間で休むことなく、また新たな仕事を見つけて労働をする。このどちらかだろう。
人は便利になればなるほどその恩恵として休むのではなく、効率によって生まれた時間を労働に充てる。これは人がこれまで進化してきた理由でもあり、恩恵でもあり、その反面仕事のために生きる奴隷のような生き物になったと言えるんじゃないかと思う。
資本主義があるからこそ、自分は生きていられるし、おそらく自分が死ぬまでのあいだに日本が社会主義の国になることはないし、資本主義はなくならないだろうから、これからもずっと付き合わなければならない。
アパレルで働く自分はたまに、社内のショールームにある、あまりに細分化された人々の好みによって生み出された、多種多様な衣服や小物の数に目眩がしそうになる。
「こんなにたくさんの種類の服がはたして必要なのだろうか?
「誰が必要としているんだろうか?」
日本は少子高齢化が進み、人口は減少している。
政治が悪く、ここ何十年も物価は上がれど僕たちの給料が増えることはまったくない。
なんなら税金は上がり、社会保障は縮小され手元に残る可処分所得なんか数えるほどだ。
そんな中誰が一着何万もする服を買えるのか。
それでも会社は去年よりも売れ、予算は〇〇%だからこんな売上げじゃ今月も未達だ、とお金を必死で作ろうともがき、社員にプレッシャーを与える。
買う人間の数が減っていて、買えるお金も無いのに、売上げが上がる方がおかしいといつ気づくのだろうか?
ないところからお金は生まれないので、そんなのは結局同じパイの取り合いで、いつまでも他よりも優れたものを、優れたサービスを、最新の製品を、と企業の争いは加熱する。
その先にあるのは働く人の心を削り、仕事のために生きるような生活をし、さらには環境まで破壊され続けていくディストピアだ。
先日妻から原宿・表参道のエリアに新たな商業施設ができると聞いた。
これも同じこと。
人の数が減ってるのに、新しく作ってどうするのか?
別に原始時代に戻れとかそういう話をしたいのではなくて、何ごとも時間をかけて考えたり、少し立ち止まったり、ぼーっとして休んだり、お昼を食べたら昼寝をしたり、いったん効率を無視してやらないかなと思いたい。
休みの日にしたいことをするために仕事をする。逆に仕事の疲れを癒すために休むのではない。
そんなに一生懸命働かない。
非効率と思えることにも意味をみつけたい。
そう思ったら、意地でもセルフレジじゃなくて有人レジに並ぶようになった。
レジの人はもしかするとセルフレジ使えよ!って思ってるかもしれないけど、僕はレジをしてくれる人の仕事を無くさないでほしい思いで並んでいる。
レジの人とのコミュニケーションなんてたかがしれているが、
「あ、新しい人だ」とか、「この人めっちゃ丁寧だな」とか、「今日はいつものあの人いないけど辞めちゃったのかな」とか僕は結構考えたりするタイプだ。
なんならいつも行くスーパーの阿久津さん(仮名)が、前まではレジ打ちのスピードがめちゃくちゃ遅かったのに、今ではスムーズにこなせている姿を見て、
「成長したな…阿久津…!」
と勝手にその成長を喜んでいたりもする。
セルフレジに「成長したな…!」とは絶対思わない。僕の心は全く動かない。
人と人が関わるとは、直接中身のある言葉を交わさなくても、伝わるものがたくさんあって、それが効率や売上げみたいなものに追いやられて、姿を消していくのはなんとも寂しい。
なので僕はこれからも阿久津さんのレジに並ぶ。
いろいろと書いたけれど、資本主義というシステムをすぐに変えるのはかなり難しい。
でも政治を変えることは、自分たちでやろうと思えばすぐできる。
そのためには、自分たちが社会を変えられるという自信を持つ必要があって、そのためにどうすればいいのかという本を最近読んだので、今度はその話しをしたいと思います。