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悪人正機の悪人はどんな人?
おはようございます!
仏教(特に浄土真宗)が好きな
その辺にいる凡夫です
以下の目次で本日は書かせていただきます
悪人正機とは
悪人正機とは
めっちゃ簡単に言うと
悪人こそが救われるという教えです
(そのまんまですね)
親鸞の教えは
歎異抄に書かれているように
善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや。
僕も受験の時に漢文で習った記憶がありますが
抑揚の表現である
いわんや〜をや。ですね
後の部分は、言うまでもないというように
強調するために使われると思います
善人は往生するのだから、悪人は言うまでもない(悪人なおさら往生する)
「往生する」は
一旦、「救われる」と理解しても
良いと思います
とにかく悪人は言うまでもなく
救われるそうですね〜
次にじゃあ誰が悪人なのか?を掘り下げます
悪人の定義
善人と悪人の境界線は
(仏から見た)善人と悪人かどうかです
仏は煩悩が一切無い
浄らかさ100%の存在です
そのような存在の行いを基準として
悪人と定義しているので
ほとんどの人間に
当てはまるように思います...
人に親切をしたり
利益目的ではなく善行をしようとしても
見返りを求めるか
良い行いをしている自分の
社会的な評価を求めるものだと思うので
毒(煩悩)が心に無い
済んだ善行というのは
どこまでも煩悩が心の中から湧いてくるので
不可能では無いかと僕は思います
まぁでもそんな凡夫の人間(悪人)を
どこまでも深い慈悲で
救おうとするのが阿弥陀仏なので
安心していただけると幸いです
だからと言って
じゃあ善行しなくても良いんやな
怠けていても
阿弥陀仏に救われるでしょというと
それはそれで懈怠という
欲(煩悩)によって行いを変えているのに
過ぎず、煩悩具足の凡夫であることに
変わりありません
つまり、いつでもどこでも
心から完全に浄らかな行いが
できない人が悪人である
親鸞はそう結論付けていると思います
現段階で僕はそう理解しています
(間違っていたらコメント欲しいです)
心から完全に浄らかな行いという表現が
分かりにくいと思いますが
仏教を勉強していくと
何を持って浄らかなのか
浄らかな行いとは何なのか
というのは
次第に分かるものかなと思ってます
僕は学べば学ぶほど
そして自分の心を見つめれば見つめるほど
「うん、善人は無理!」と思いました
そんな悪人ガチ勢の
僕でも救われるそうなので
ワクワクですね
しかし、過去に散々悪い行いをしているので
死んだら地獄に行くかもしれませんね〜
そこは正直、分からないです
まとめ
・善人悪人は仏基準で決まる
・自分が善人なのか悪人なのかは、仏教を聞き続けないと分からない