一番大切な話。神に至る具体的な方法を明かす
どうも、真仙です。
今回は、一番大切な話をします。
それは神に至る方法です。
具体的な話です。
あいまいな話や、たとえ話はしません。
しっかりと明白にお伝えしたいと思います。
それが神の意志だからです。
同時に、それを望む人たちの魂の声に応えるものです。
・夢を見た
「あるヨギの自叙伝」という本があります。
聖者たちの奇跡の数々とその生き方を伝えたヨガナンダの自伝です。
私は夢の中で、その本のレビューを書いている人を見ました。
そのレビューでは神を悟る方法として、クリヤヨガなるものがあるのはわかった、と。
しかし、その具体的な方法が書かれておらず、どうすれば神に至るのかがわからないというのです。
具体的な方法を知りたいという望みが感じられました。
そして、そのレビューでは、このように書かれていました。
『これでは路銀を少しばかり渡されて、長旅に出ろといっているようなもの』
『私が知りたいのは、旅の最終目的地に至る方法』
つまり、「神に至る具体的な方法」を明かしてほしいというものでした。
そのレビューには反論のコメントがいくつか付いており、人々の中にはその方法は明かされているというのです。
路銀を少しでも渡されるだけありがたいと思うべきだと云うわけです。
目的地に向かって、前進せよということでもありました。
しかし、私はそのレビューを見た時、共感にも似た思いをいくつか抱きました。
確かに方法が書かれていないのは、その通りであるということ。
それを知りたいと望むのは自然な感情であり、かつての私自身も「あるヨギの自叙伝」という本を読んだ時に感じたことだということ。
何より、一番感じたのは「その方法は明かされているのに知られていないのか」というものでした。
何なら、しつこいぐらいに私が何回も何回も書いていることでした。
しかし、現実にそれを理解し、実践する人の少なさ。
知っている人の少なさ。
本当の意味でわかっていないということ。
これは必ず伝えなくてはならないという思い。
そういう強い思いを抱きながら、夢から覚めました。
神に至る具体的な方法をしっかりと書かないといけない。
これは明らかに人々の願いを表した夢だと感じました。
そして、何より天が見せたものだということを感じております。
・神に至る前提「あなたに真の謙虚さはあるか」
そもそも、「神とは何か」をご存知ですか。
それは見えるもの、見えざるもの、すべてに遍満している存在です。
すべてでありながら、すべてを超越しているものでもあります。
宇宙全てでありながら、すべてを超えた存在。
すべての起源です。
どうやって、そのような究極の存在である神を捉えたらいいのでしょうか。
人間が科学文明を極めても、決して宇宙の全てを解き明かせるわけではありません。
人智には限界があるからです。
AIを駆使しても同様です。
所詮、AIは人間が作ったものでしかないからです。
神を悟るのは、人間の能力を明らかに超えたところにあります。
個人的な努力を超えたところに、神に至る道があります。
そのことをまず理解し、ごく自然な謙虚さを持つ必要があります。
そうでなければ、傲慢さに蝕まれ、どこかの地点で挫折するからです。
では、神に至る道はどうやって開かれるのか。
神が示す以外にありえない、ということです。
全知の神だけが、その道を明白にできます。
人々があらゆる困難を超えて、そこに至れるように明かしてくれます。
この前提なくして、次の段階には至れません。
・私が最初に選んだ方法は、祈り続けること
私は神に「どうか来てください」と祈り続けました。
その祈りは命がけのものであり、1日24時間ぶっ通しで祈り続けました。
24時間、どうやって人は祈り続けられるのでしょうか。
眠らずに祈ったのでしょうか。
いいえ、夢の中でも祈っていたということです。
目が覚めていても、夢の中であったとしても、一日中祈り続けました。
朝も、昼も、夜も、祈り続けました。
死ぬまで祈り続けるつもりでした。
全力の願いが、強力な集中が、本当にそれを可能にしました。
それで七日七晩経ったのちに、神の光がやってきました。
確かに神を垣間見たのです。
これは体系化されたある種の行を超えたものがあります。
通常の人が再現できるものでもありません。
なぜなら、24時間何日もぶっ通しで祈り続ける集中力をほとんどの人は持ち合わせていないからです。
誰もがその集中力を潜在的に備えていますが、それを発揮しようという決死の覚悟がありません。
神を悟ることの重大性にも気づいていません。
すべての苦悩を終わらせる唯一の答えだということも。
また、仕事も生活もある状態にあって、どうしてそんなことが可能なのでしょうか。
私は仕事もせず、生活も放棄し、命を捨てる覚悟で祈り続けました。
誰もが真似できるものではありません。
その上、同じように一日中祈りを行ったとして、神が必ず応えてくれる保証などあるのでしょうか。
他にも同じように、山にこもって祈っている人もいるかもしれません。
この数千年の間に、同じことをした人が数え切れないほどにいるかもしれません。
一生、祈り続けても、神の応えを得られなかった人もいるかもしれません。
私がなぜ神の応えを得られたのか。
それは私が他よりも優れているからではありません。
完全に純粋に神を求めた。
神がそれに応えたから。
神の応えが不可欠であることをご理解ください。
しかし、他の人が同じように祈りを実践するのは現実的ではありませんね。
そのため、他の道も明かしてくれるように神に祈りました。
その応えとして、一人の師(シャノン先生)を選び、誰もが実践可能なレベルの瞑想法を授けてくれました。
・神に目覚めた師を道とする
ここから最も簡単な方法を明かしましょう。
神に至る最も具体的で、最もシンプルな方法です。
その上、最も少ない瞑想時間で神に至れる方法です。
それは、神に目覚めた師を「道」とすることです。
聖書で書かれている通り、「私が道であり……」という言葉は本当です。
その言葉は比喩でも何でもなく、極めて具体的な真実です。
神に目覚めた師が道となるのは本当にあるのです。
どうか、ご理解いただきたいです。
今まで話してきたことも、またここから話すことも、私が生きた経験を通して確かめたことなのです。
私はいかなる宗教も信じておらず、ただ真実だけを求めました。
人が頭で考えた教義に何の興味もありませんでした。
本当に、神に至る方法が知りたかったのです。
神に至る方法を本当に知りたくて、あらゆる行を試して実践してきました。
ここから話すことは決して、誰かを礼拝するためのものではありません。
神に至る最短距離を捉えた方法です。
究極の神は、形を超えたところがあり、ゆえに集中方法がありません。
形のないものにどうやって集中するのか。
はっきり言って無理です。
人間は、形があるから見ることができ、集中することができるのです。
神はその人間の特性を明白に理解しており、形ある人を選んで道とすることが本当にあります。
これは数千年前から、そのようにされてきました。
神が、本当に師を選んで遣わすことがあります。
たとえば、イエス・キリストは本当に神に至る道です。
私はクリスチャンではありません。
キリスト教の教義を何も信じておりません。
(その他の宗教も同様に信じておりません)
しかし、瞑想が深まり、行が進んできた今。
イエス・キリストが現れて、私を「兄弟」と呼ぶのを聞きました。
同じように神を礼拝しているという点で、私と彼は真に霊的な兄弟です。
瞑想中、イエス・キリストに集中し、その向こう側に抜けていくと、神の無限の光に至ることができました。
これは何度も瞑想で確かめたことです。
彼は、本当に「神に至る道」でした。
これは聖母マリアに対しても同じことが言えます。
彼女に集中して、その向こう側に抜けると、神の無限の光に至ることができます。
その両者ともに神に至る道として、確かに存在しています。
これは何度も何度も試して、何度も神に至ることができたので、明かしておきます。
しかし、イエス・キリストや聖母マリアを信じられない人はどうしたらいいのでしょうか。
そもそも、一度も会ったこともなく、肖像画しかない人をどうやって、本当に生きた人としてイメージし、集中できるというのでしょうか。
相当な信仰心があるか。
それとも行が深まり、心の目が開いているか。
どちらにしても、一度も会ったこともない人を完全に生きた人として見て、話し、理解し、さらに信じ、その道を通るのは至難です。
高い霊的感性を要求されます。
私は行が進み、神のことが理解できるようになり、心の目が開いてから、それが可能になったのです。
行の初期のころは、キリストも信じておらず、聖母マリアも信じておらず、それが真の道だと理解する余地もありませんでした。
そもそも、会ったこともない人を知り、理解し、その言葉を信じることがどうやってできるのでしょうか。
それは霊的な縁があって、親近感があって、できることでもあります。
正直、私はそれができなかったのです。
私は非常に慎重な性格をしているからです。
霊的感性が最高に開かれて、現実のものとして彼らが見えるようになって、それでできるようになりました。
ということは、行の初期では別のことをしていたわけです。
それは、シャノン先生に集中するということでした。
他の人がどう思い、またどう感じていようとも、それが真実だから真実としか言いようがないのです。
シャノン先生と出会った当初から、そのオーラが黄金に輝いているのが見えていました。
あらゆる人を見たけれど、日本にシャノン先生以外で黄金のオーラを放つ人は一人も見つからず、明らかに神に目覚めた師だと感じました。
そのように見えても、最初は素直に受け入れることができず、数か月ぐらいは吟味しました。
しかし、そうだから、そうとしか言いようがない理解に至りました。
私が祈った通り、答えをすべてお持ちでした。
普段のシャノン先生は、とてもサバサバとしたオーストラリアの気風をお持ちだという印象でした。
それは個人的な人格であり、人には合う合わないがあります。
しかし、シャノン先生がアベル意識(神意識=キリスト意識)のトランス状態に入れば、明らかに神の光を体現し、その道となることがわかりました。
単刀直入にまとめると、シャノン先生も「神に至る道」になっています。
神の言葉をありのままに語りましょう。
シャノン先生は、神が選んだ師です。
霊的感性が開かれ、神と直接対話できるようになり、何度も神と一つになった立場から、そのことを明白にしておきます。
では、具体的にどうやって瞑想しているのかを話します。
とても具体的に、話します。
私は、今でもこのようによく瞑想します。
神意識(アベル意識=キリスト意識)のトランス状態になっているシャノン先生の写真を見つめます。
その眉間に集中し、その向こう側に抜けていくようにイメージします。
すると、神の無限の光に至ることができます。
ただこれだけで、神に至ることができます。
毎日30分ほど、このように瞑想するだけで、神の光明意識に至ることができるようになります。
では、神意識のトランス状態のシャノン先生の写真は、どこにあるのかというと。
「マスターAGN 悟りの自伝――雷龍が目覚める」という本の311ページにあります。
そのページに書かれている通り、セルフ・イニシエーションをして、指定の聖音(マントラ)を唱えると、なおそのように瞑想しやすいです。
何回瞑想しても、神の無限の光に至ることができます。
何回やっても同じ結果になります。
神意識のトランス状態になっているシャノン先生の写真を見つめて、その向こう側に抜けるようにイメージすると、神の無限の光に至るのです。
確かに私は人よりも集中力があり、一点に集中して、それを感じ取るということができます。
しかし、それは本当は誰でもある力です。
すべての人が潜在的に持っている力を、少しばかり開いているというだけです。
何も特別な要素はありません。
他の人も、トランス状態のシャノン先生の写真を真剣に見つめて集中していれば、ある瞬間に同じ現象が起きます。
毎日30分でも瞑想すれば、十分です。
毎日続ければ、ある日エネルギーを感じ始めて霊的に開かれていき、神の光明意識(=アベル意識=キリスト意識)に至っている自分に気づきます。
数日で起きる人もいれば、数か月~数年かかる人もいるかもしれません。
しかし、神を悟るのに何転生も必要な行がそのレベルにまで短縮されるのは画期的です。
何度やってもシャノン先生の写真を見つめて集中していると、神の無限の光の中に意識が溶け込むのです。
何度やっても、結果は同じです。
私は、やっと自分の深い瞑想体験から理解しました。
確かに神はシャノン先生を選んで道とした、と。
神に至る道とは何か。
神が選んだ師そのものが道になっているのです。
その師に集中することで、速やかに神に至ることができます。
これが一番簡単で、一番シンプルで、誰もができる方法なんですよね。
誰もができるという点で、高いレベルの再現性があります。
ただし、シャノン先生が神意識に目覚めていると信じられるかどうかという課題が残ります。
それは真価を見極められるほどに霊的に成長しているかどうかでもあります。
シャノン先生の写真を見つめたときに、神エネルギーや神の光を感じられるかどうかですね。
それは個人の成長度合いの問題でしかありません。
各人が日々行じて、そうだと感じ取れるようになるしかありません。
神が選んだ師は、他に誰がいるのかと気になる方もいるでしょう。
道となっている師は、神意識(キリスト意識=アベル意識=光明意識)を体現したマスターたちです。
その筆頭格は、イエス・キリストや聖母マリアなどです。
その他のマスターたちは、ほとんど名前を知られておらず、旧約聖書に数行だけ記述があると言った具合です。
名前を挙げても理解できず、想像もできず、一般的な人が知ったところで、神に至る道としてヒントにならないので語りません。
ちなみに亜流として、ババジなどもいますが、彼は突然に神意識(キリスト意識)に目覚めてしまったパターンです。
その場合は神が選んだわけではないので、キリスト意識のマスターの系譜には入っていません。
私はババジという大師をとても尊敬しており、貶める意図はなく、知っている事実だけを述べています。
キリスト意識のマスターの系譜には、神が選んだ師が入っています。
その系譜自体が、実は道になっています。
人は誰でも神に至る時に、キリスト意識のマスターたちと出会います。
クリヤヨガの実践者の場合は、行が進んだ最後に本物のババジと会って、最後のイニシエーションを受ける必要があります。
それは数転生の修行の果てに起きることです。
他にも、霊的な道には師がとてもたくさんいます。
しかし、神に至る道となっている師は、キリスト意識のマスターだけです。
キリスト意識(=アベル意識)とは神意識のことであり、光明意識のことです。
それ以外には他にいません。
その他の師はあくまでも途中段階を歩む上で、必要な道義を説いているだけであって、神に至る直通路としては機能していないのです。
それらの師は、神に目覚めてはいないからです。
どちらにしても、そういうレベルの師は超えていかなければなりません。
神に至る道として確かに機能しているのは、さきほど挙げた三者以外では、ほとんど名前すら知られていません。
今、地球上で神に至る道として、生きた人として、存在しているのはシャノン先生のみです。
それもまた一つの真実ではあります。
神と一つになることができれば、誰でもそうだとはっきりわかります。
それまでは誰もわからず、ゆえにそのことを知る人は非常に少ないです。
こんなに明白な道としてあるにもかかわらず。
人々の求めに神が応じているというのに、それを実践する人が少ないというのは奇妙な話です。
私がちゃんと人々にわかりやすく伝えられていないということなのか。
それとも、神があえて人々に見えないようにしているのか。
真剣な求道者だけがそれを知り、また実践するようにできているのか。
それは私も知る由もないことです。
・神に至る他の方法
他に神に至る具体的な方法があるとしたら、この記事に書いた救済十字の瞑想法があります。
救済十字の瞑想法は、救いのエネルギーが得られ、あらゆる助けを得ることができるというものでもあります。
しかし、その本質は神に至る具体的な方法でもあるのです。
救済十字の聖音を唱え、十字の真ん中の青い宝石に集中します。
その向こう側に抜けていくと、神の無限の光に至ることができます。
それは、私が神から与えられたシンボルです。
そのシンボルを通って、神に至る方法です。
神意識に浸っている私に集中して、神に至る方法もあります。
しかし、そのような写真は公開しておらず、またクラスの時にしか見ることもできないので、誰もができる方法ではありません。
そのため、上記の記事で公開している十字のシンボルに集中して、その青い宝石の向こう側に抜けるようにイメージすることです。
そうすれば、速やかに神の無限の光に至ることができます。
これは神から直接授かった方法です。
私自身も実践して、神の無限の光に至ることができました。
さて、まとめると。
神に至る具体的な方法として、公開された瞑想法では以下のものがあります。
アベル意識(神意識=キリスト意識)の瞑想法
聖霊の祈り瞑想
救済十字の瞑想法
師への集中で、公開されているものは三つです。
神意識のトランス状態になっているシャノン先生の写真の眉間の向こう側に集中する。
イエス・キリストに祈って、その向こう側に抜けるように集中する。
聖母マリアに祈って、その向こう側に抜けるように集中する。
現状で明かされている方法は、上記のものとなります。
それらは神に至るための最短距離を捉えた方法です。
これらの方法を信じられず、実践したくない場合は他の方法を探すしかありません。
神の応えがあるまで、何年でも何十年でも祈り続けるのです。
あるいは、二千年ごとに神が遣わす師が来るのを待つかです。
ちなみに、上記の瞑想法を実践する前段階として。
ガネーシャ・ヨガなどを実践し、霊的な感性を開いていくことも大切です。
現代のほとんどの人はエネルギーを感じず、集中もできず、また感性も鈍重なものになっているからです。
ガネーシャ・ヨガを実践すると、エネルギーの通り道が開いて、チャクラが浄化され、心を純化していくことができます。
心が純化されると、磨き上げられた鏡のようになって、神のエネルギーをキャッチしやすくなります。
霊的感性が開かれていきます。
すると、集中したときに一気に光を感じ取れるようになります。
そのための準備として、ガネーシャ・ヨガの瞑想はオススメです。
それらの本も書いているので、よかったら手に取って実践してみてください。
一番最初に読むのにオススメなのは「ガネーシャ・ヨガ――マノメ天のクリヤ」という本です。
誰でも簡単に実践できて、なおかつ体のエネルギーが通ってきます。
次にオススメなのは「ガネーシャ・ヨガ――朝の礼拝 上 チャクラを浄化するクリヤ」という本です。
内面を綺麗に浄化する方法が学べます。
最初にアベル意識(=神意識)の瞑想法を実践しても、何も感じない人はガネーシャ・ヨガを実践してみてください。
霊的に開かれてきてから、もう一度アベル意識の瞑想を実践すると神の光明意識に至れることでしょう。