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神に至る道が絶えぬように、ありのまま明かす

どうも、真仙です。

どうすれば、人は神に至ることができるのでしょうか。
その道は一体どこにあるのでしょうか。

今回は、私の瞑想体験をそのまま書き記します。
今日、死んでもいいように神に至る道を明かします。

もちろん、今日死ぬわけではありません。
しかし、誰も人間の生死を司っていない以上、明日生きている保証などありませんので。

今日という日を全力で生きるように、このことを書きます。

・神に至る道は数え切れないほどにあり……

神に至る道は巡礼者の数だけあり、数え切れないほどにあります。
全てを挙げ尽くすことはできませんので、今回は私自身が体験したものを一つ選んでお伝えしましょう。

・どのような人が神に至るのか

瞑想体験や技法を書き記す前に、その前提をしっかりと書いておきます。

神とは、いわゆる神々の事を指しているわけでもなく、また一人間の事を指しているわけでもありません。
また、神に至るためには、神に目覚めたマスターでさえも超えていかなければなりません。

私が語っている神とは、究極の神についてです。
神とは、宇宙の根本です。すべての源流です。
全存在がそこから現れ、そこに消えていくのです。

前提として、私が語る神は「源(Source、Original)」ということです。

神とは、すべての原点です。
それは完全に純粋なものです。

山の頂にある水のように、清らかです。
そのため、神の境地も完全純粋なものです。

もし、神の境地に至りたいなら、至極単純なことです。

完全に純粋な心となれば、いいのです。
生き方、考え方、あらゆる面で改めていき、完全に純粋な心となれば、前段階の準備が完了したことになります。

完全に純粋な心であれば、これから書き記す瞑想法を実践すれば、必ずや神の境地に到達することでしょう。

しかし、あなたが純粋でなければ、純粋な境地には至れません。
純粋な波動に合わないからですね。

天国の扉を開いても、天国の中に入れない。
そういう事態になります。

純粋でなければ、今からお伝えする瞑想法を実践したとしても、何も感じないことでしょう。
しかし、日々瞑想を行うことで、自分を純化していけば、必ず神の境地に到達する日が来ます。

神に至る。それは人によっては何転生もかかることです。
自我を砕き、己の欲望をすべて浄化し、世俗的な関心を断ち切り、あらゆる面で清らかなものとならなければならないからです。

そうして、全世界を超えて、神に祈れるようになった時、応えがあります。
世界の全てを捨てたとしても、余りあるほどの幸福を得ます。

それは私が体験していることから、断言できます。

究極の神は、至上の喜びを用意しています。
自己の本性を悟るとは、その喜びを味わうことです。

これから語ることは、私が歩んだ道の一つです。
神に至る道をあらゆる面で実践し、様々な道を見つけましたが、そのどれよりも最短の道です。


・神に至る瞑想法と体験

まず、はじめに私の瞑想体験をありのまま書きましょう。
その体験の中に瞑想法となるものもすべて含まれています。

瞑想のために静かな部屋で呼吸を整えて、楽に座るのです。
みぞおちに集中し、その奥にある背骨にまで意識を集中していきます。
その背骨には隠されたチャクラがあり、脊柱上の七つのチャクラとは違ったものです。

ハートチャクラでも、第三チャクラでもないものがあるのです。

みぞおちの奥にある背骨に集中していると、そのチャクラが開いてきます。
そのチャクラに集中していると、黄金の十字が見えてきます。
その十字の真ん中に、薔薇色のような濃厚な赤色の光があります。

その光こそ、意識の座です。

私を含めたあらゆる人が意識を持つことができている理由です。
キリスト意識の薔薇十字とも呼ばれるものです。
その意識の十字は、誰もが持っています。

みぞおちの赤い光に集中していると、急に赤い光がにじみ始めます。
周りにまで赤い光が広がって、そこにピンク色の光がぱっと広がっていくのです。

その瞬間、みぞおちから全身に赤色を帯びたピンクの光が満たされていきます。

全身の力が抜けていき、リラックスが深まります。
とろけるような幸福感に満たされていきます。
ただ、存在しているだけで幸福なのだと思えるほどです。

神への感謝が自然に湧いて、心から祈りたくなります。
地上のどんな困難もこの幸福を味わうと、泡のように消え失せていくのが感じられます。

幸福と喜びの源泉は、意識そのものにあり。

さらに黄金の十字の赤い光に集中していると、十字の向こう側に抜けていきます。
打って変わって、純白の光が見えてきます。

その純白の光は、すべての色がはがれたかのようにも見えます。
完全に純粋な色合いにも見えて、次第にあまりのまぶしさに周りが見えなくなっていきます。

一面、粉雪が満ちたようにも見えるし、白銀の世界になったかのようにも見えます。

この純白の境地こそ、神意識の光明世界です。
キリスト意識(光明意識)の境地とも呼ばれるものです。

純粋な心の持ち主だけが、この境地に達します。
この境地は、完全に純粋なものだからです。

何も見えないぐらいにまぶしい光の世界で、大いなる喜びを感じます。
心身が純粋な至福に満たされていきます。

すべての人の魂は、神意識の光でできています。
人が意識を持つことができるのは、この神の純粋な光によってです。

この純白の境地で意識が拡大すると、あらゆる人の胸の内側に自分がいるように感じます。
神と同じように普遍意識に溶け込んでいきます。

ここで願ったことはすべて叶い、ここで問いかけたことはすべて答えられます。
なぜなら、全知の神意識だからです。
そして、全知であるだけではなく、全てを実現する力(全能性)も宿しています。

神の光は、この宇宙全てを構成する光そのものだからです。
全世界をすべて創造し、すべて実現した力がここにあります。

この境地に到達した魂は、神との一体化を果たします。
神をどこにでも感じられる場所です。
左右上下、内にも外にも、神は満ち満ちていることがわかります。

私は純粋なるこの境地に到達した時、魂が溶けて、全世界も溶けてなくなったように感じました。
神と直接対面を果たし、その存在をやっと知ることができました。

形を超えた神と再会し、溶け合うのです。
一つになった時にすべてわかります。

私は神を味わったからこそ、心からお伝えできます。

どんな人も神から生まれて、神の元へ還っていきます。
神はあらゆる人の中にいて、あらゆる瞬間を演じています。
そうして、どの瞬間においても呼びかけています。

ここに帰ってきなさい、と。

あらゆる人が救われるまで、神は最高の愛のために手を差し伸べ続けます。
宇宙の始まりから終わりに至るまで。

神は宇宙が生まれる前から存在し、終わった後にさえも存在し続けています。

・まとめ

神に至る瞑想と体験をお伝えしました。
瞑想法自体は、誰でもできるぐらいにシンプルなものです。
みぞおちの向こう側に集中するものだからですね。

しかし、その奥深さは計り知れないものがあります。

私は何年も心を込めて、この瞑想法を行い、ある瞬間にできるようになりました。
忍耐強さを求められ、その忍耐に神が応えてくれました。

ただ祈るだけでも、神意識に到達する人もいましょう。
しかし、それがどれほど困難な事かも体験的に知っています。
何度も生まれ変わりながら祈り続けても、神に到達できない人もいるほどです。

この瞑想法を知り、実践し、さらに心を純化していった人は必ず神の境地に至ります。

これ以外にも様々な道があり、その中でも神に至る精髄と呼べるヨガもあります。
ヨガの中のヨガを実践すれば、心を効果的に浄化していくこともできます。

その一つに私の師が編み出したガネーシャ・ヨガもあります。

完全に純粋な人は、ここで明かした瞑想を誠心誠意実践すれば、一生のうちに神の境地に到達することでしょう。
しかし、そうでない人は、まずはじめに心を純化していくことをオススメします。

いずれにしても神に祈り、神を瞑想することです。
それ自体が心を純化していくことに繋がります。
神から光がやってきて、その光によって心身が洗い流されていくからです。

たとえ、今日という日に神に至る道がすべて途絶えたとしても、各時代の人々の求めに応じて、神は新たに道を用意します。
ここで書いたことが忘れ去られたとしても、その必要に応じて再発見されることでしょう。

私はこのことを書くことで、心より平安に満ちています。
書いている最中も、神の光を感じていました。

今日、天に還ることになっても、神に至る道が誰かの心に行き渡るようにと書かせていただきました。
たとえ、これから何年生きることになっても、神の至福と共に在りましょう。
神に至る道を示し続けることが、私の生き方の中心です。

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。