世界のタブーを解放している日本のア二メ。
なぜ日本のアニメはこんなに生まれたの❓
こんにちわ。Saraです。
日本のアニメや漫画・ゲームの進化というのは本当に凄まじく、誰もが虜になって耽溺した日々があるのではないだろうか?
私も生まれたときからヒーロー&変身アニメに心奪われ、学生時代は特にその世界観の住人と化していた(笑)(=゚ω゚)ノ
やがて大人になり、社会人となり、私なりに社会や世界情勢を知っていくと、日本のアニメは、世界にはない唯我独尊的な存在であることに気づいていった。
その理由の一つは、海外ではなにか物語を2次元で泳がそうとするときには、アニメーションを作るという発想よりも実写化に走る傾向があるからだと思う。
日本のように国土が狭く、山河に囲まれすぎていない国の場合は、国土面積と人口比率と資本に恵まれていれば、迫真の実写が撮影しやすいからだろう。日本の複合的条件を考えれば、アニメーションが発達するのは必然だったとも言える。
もう一つは、日本人のイマジネーションの力である。日本人の想像力は、私が知る限り、昔から脈々と受け継げられている。たとえば江戸時代の人たちは、貧しさを想像力で補い、粋な風流人だったという。幕末期の識字率はなんと世界一で、貧困だからこそ、旅行にいく発想もお金もなかったとしても、イマジネーションで海の彼方に思いを馳せて、みんなで語り合っていたらしい。国土条件に恵まれていない国は、想像力が働きやすい。
日本人にはアニメーションを作らせるのに、民族性がマッチしていたのだと思う。
世界からみたら、日本のアニメはタブーが少ない。
何よりもこの国は、宗教上の理由で作れないストーリーが発生しづらいのだ。歴代アニメを見ると、ギリシャ神話や北欧神話・キリスト教的世界観・仏教的思想観などをさり気無く伏線として、盛り込んでいるアニメは少なくない。例えば、新世紀エヴァンゲリオンは聖書の原型と言われている死海文書を中心に、アダムとリリスという世界観を醸し出しているのは有名ですね。
これは、キリスト教が根強い国では、まず作れなかったと思う。日本は、聖書も「書物」として捉え、客観的視点で学術的に考察が許され、堂々とスクリーンに登場させることが出来る、数少ない稀有な国と言えるだろう。たとえば「聖(セイント)お兄さん」は、立川の安アパートにイエス・キリストとブッタが一間の部屋で、ほのぼのと仲睦まじく暮らしているというストーリーだが、いったい日本以外のどこの国で、放映を許されただろうか?
(・o・)
このアニメを観た海外での反応は、
「日本人スゲーΣ( ̄□ ̄|||)。こんな発想、日本でしか生まれないよ。自国じゃ無理だよ。」と感嘆の声を上げた人もいるらしい。
多くの日本人は感覚的にわかっているのだ。キリストもブッタも、正義の優越やどちらかのみとかいう概念よりも、東洋と西洋が混ざり合い、お互いに良いところを引き出し合うことで、化学反応が生まれ、進化していくことのほうが、ずっと有意義であるということを。
私はこの作品に触れたときに、「本当は天界にいるブッタもキリストも仲良しなのに、地球がそれを認めてないだけなんじゃないの?」と作者が訴えている気がした。
日本の特性が生かされているアニメ。
日本に生まれることが出来たのなら、自分次第で宗教上の思想をどこからか押し付けられることは少なく、海外の良いところを素直に捉えて、「良いものはいいね。素敵だね。」と受け入れる器が、この国の根幹にある長所だと私は感じている。
それが、我が国が「和」の国と言われている所以の一つだと思う。
今の日本人の心の奥底には、オウム真理教の事件以来、どうしても宗教に対する不信感がなかなか拭えない現状があり、拒絶反応がなかなか強い我が国では、漫画や小説そして、アニメが間接的に私たちに語り掛けてくれている窓口となってくれているのだ。
世界ではタブーとしてなかなか語れないデリケートなカテゴライズを、この国では自由がある程度認められているからこそ、日本人のイマジネーションが相重なって、沢山の作品に忍ばせ、未来に向けてのそれぞれの著者の見解と問いかけが、どこか新時代黎明期の架け橋となってくれているように感じる。
私は、海外からみたら、異例のこんな特性に恵まれた日本という国だからこそ、本当は日本人にしか出来ない何かがきっと、機が熟し、点と点が繋がり、円が形作られていく時にスパークしていく予感がする。
まずは、日本人が日本人の素晴らしさに一つ一つ気づいて、感じることで自信をつけてくれたらと、切に願う。
最後に、日夜これほど素晴らしいアニメを世に送り出してくださっている関係者の方々に心からお礼を言いたい。
いつも私たちに勇気をくれて、考えされてくれて、そして沢山の喜怒哀楽を届けてくださり、ありがとうございます。
(⋈◍>◡<◍)。✧♡