故郷

故郷に思い入れがある人は一体どのくらいいるのだろうかと僕は考える。
今日、僕は弾丸で島根の実家に帰省した。来月、七月から夏から僕は神戸で働くことになる。そうなるともう簡単には戻ってくることはできなくなる。それ以上に僕がもう当分は故郷には帰らないという覚悟を決めている。
僕の故郷は島根といえば田舎だ。そんな島根の中でも田舎の方である。同級生の中には大学は県外に行き、就職となると地元に帰ってきた者もいれば、県外には住まず島根で一生を過ごす者もいる。逆に県外に出て島根にはもう二度と帰ってこない者もいる。
「何もない」があるそんな概念を僕は故郷に対して感じている。それ以上に認識として僕は故郷に悪い印象を持てないでいる。

二、三年前の話だ。
ニートだった僕は日中、外出するにはハードルが高すぎるため、深夜徘徊をして精神的に回復を図ってた時期がある。
過去を振り返ると、日がな一日このときの日々を思い返してしまうくらいには僕は深夜徘徊が好きだったしそれ以上に救われていた。
あの日々があったからこそ今の僕が作られているし、もしあの日々を送っていなければ今の僕はなかったと断言できる。
この経験、記憶、過去の思い出について僕は美しいと思っている。
深夜、田舎の誰もいない中で好きな音楽を聴きながら歩き、適当な方と通話アプリで話す。
何気ないことなのかもしれないが、夏の間、(冬になると寒くて外に出る気が起きないため)僕は雨が降っていなければ毎日のように上記のことを繰り返した。
3、40分もかけてコンビニに行き、お酒とつまみを買ったりもした。まだ22、23才だった。
人生はまだこれからだと思っていた。まだ巻き返せるだろうと思っていた。しかし今25才になると現実は甘くないのだと痛切に感じる。人生を舐めていたツケを今払わされている。僕は早生まれなのでまだ25才だが同年代は26才になるため26才の夏があと少しでくると思うと、僕は人生のカケラを拾い集める時期になっているのかもしれない。
もし文学が「夢からさめる過程を描くもの」と仮定するならば夢からさめる時期がきたような気がする。夢からさめるためには夢を見なければならないと誰かが言っていた。
夢からさめる時期が来たのかもしれない。
現実と向き合うのを避けて、逃げてきたがもういよいよ避けられなければ、向き合わないといけない。
人は人生は25才で大体その人の傾向や習慣、程度が決まってしまうと巷でよく言われているし、僕自身も聞いたことがある。25年生きてきて培ってきた、思考、習慣が一生続いていくらしい。
この考えに全うから抗おうと思う。
人生を語るやつよりも人生をしっかりやるやつになろうと思う。
応援するよりも応援される側になろうと思う。
かつて僕が深夜徘徊を毎日していたように「すること」を覚悟と呼び、「しないこと」を意志で決めよう。

話が大幅に脱線してしまった。悪い癖である。
弾丸で今日帰ると決めた際、僕は最後に深夜徘徊をかつてしていたようにしようと思っていたが、結局しなかった。その代わりにこの文章を書こうと思った。この町の田舎の人間関係はあまり好きではないが、それ以上にこの町の風情を風景を自然を僕は愛している。

故郷に思い入れがないから僕は県外に出ていくのではなく、思い入れが人並み以上に強すぎるため県外に出ていくのだ。
都会の生活に少し触れてみようと思うのです。
かつての田舎の深夜徘徊が僕を作ったように、これからの生活も僕を作っていくだろう。

ところで神戸は都会といってもよいのだろうか、、


「26才の夏休み」 神聖かまってちゃん

いいなと思ったら応援しよう!