神崎

病めるときも健やかなるときも書くことを誓えますか?

神崎

病めるときも健やかなるときも書くことを誓えますか?

最近の記事

そしてその身をどうすんだ

きっとこういうことだったのだと思う。夏があれほど楽しくて、儚くて、美しくて、幸せで、一瞬で過ぎ去っていったのも、きっと幸福の前借りをしていたんだ。 秋になり、職場での人間関係も大幅に変わる出来事があり(普通の職場でいう部署が変わるといったような)、夏の残像も記憶も薄くなってきたところで、一気に全てがつまらくなった。 別に秋のせいではないのだろうけれど、夏に幸福を致死量なまでに感じすぎてしまった為に、ここにきて自分自身が壊れかけなような気もする。 陳腐な言い換えをするなら

    • 去年の夏に一番苦しかった時に一番聴いた曲

      人の死についてSNSやnoteに何か記すことには抵抗があった。有名人が亡くなったときすぐにSNSに亡くなった人の感謝や好きだったことを書き込む人にある種の軽蔑を感じていたことすらあった。去年の12月に投稿した数学の先生の死の記事だって、ある程度の時を経て久しぶりに先生を思い出したから過去に書いていた記事を再投稿したのだ。 そうか12月か。明日「プルースト」を聴きながらお酒でも呑もうかな。 出会いはいつだったのだろう。まだ高3の頃だったような気がする。友達のラインのbgmになっ

      • 8月32日へ

        なんてセンスのあるアルバム名なんだろう。 しかしここではこのアルバムについての記事は書かない。 少しカラオケについて書きたい。 今夏は友人と三回ほどカラオケに行く機会があった。友人とカラオケに行く時は普段自分が聴いているような曲はまず選曲しない。日常的に聴いている曲は歌うにはそもそも難易度が高すぎるし、自分自身歌はそんなに上手くない。かと言ってめちゃくちゃ下手でもないのだから、聴いている周りからすると面白くないだろう。 この前、久しぶりにヒトカラをした。1時間程度の短い

        • 26才の夏休み

          20代の夏の中だと22才と23才の夏をよく覚えている。何の因果か知らないが、敬愛する神聖かまってちゃんの曲の○○才の夏休みの中に当てはまる年齢だ。23才の夏休みに関しては23才の頃、一番聴いたのは日本で僕と言ってもいいくらい聴き倒した。22才の夏は「孤独の楽しみ」を23才の夏は「人との関わることの楽しみ」をそれぞれ教えてくれたように思う。 去年の夏は最悪だった。職場はキツく、お盆の期間にはコロナにかかり、とても夏を楽しめるようなメンタルではなかった。 そして今年。26才。

          幸せになってしまった。

          冒頭から書いておくと決してパートナーができたわけではないです。 四か月ぶりに文章を書くとなると久しぶりすぎて鈍りに鈍った読みにくい文章になってしまいそうで怖い。 近況は毎日のようにリア垢のインスタで結婚報告の投稿を目にしてメンタルをビシバシやられていますが、それ以外はとても健康に暮らせています。 4月の半ばから8大都市の何処かで働き始めたのだが、人間関係、仕事面でなに不自由なく、恵まれた環境で働けており、自分でも驚くくらい幸福に生活できている。もしかしたら人生で一番充実

          幸せになってしまった。

          損切り

          損切りや、やめどきを見失うことが多かった。自分でも下手な生き方をしてきたように思う。久々の投稿になってしまった。もうずっと筆が乗らず、かといって書きたいことも見つからず、ただただ冬が終わり、春を迎えるのを待っていたような2.3ヶ月を過ごしていた。 このnoteもやめどきかなとも思っていた。 しかしあったかくなると精神すら少し活力が戻ってくるわけで、本当に精神が死んでいた冬に比べると幾分マシな状態に戻りつつある。 そういえば今年は桜の開花が去年に比べてだいぶ遅いようでまだ地元

          ああああ

          タイトルを何にしようか迷ってけれど全くもっていいものが思い浮かばなかったので、ゲームでRTAをするときの主人公の名前みたいになってしまった。 あと5日働いたらまた無職に戻ってしまうのだが、ひとまず1ヶ月休まずに働くことができたことで自己肯定感を上げることに多少は成功したと言ってもよいだろう。 今日はというと、昨日までの疲れを取るために昼前まで寝て、大学生の弟が帰省してきた後、有馬記念を少しだけ買って負け、m1を観て、寝る前にこの文章を書いていることを除けば模範的独身おっさん

          ああああ

          カントリーマアムを焼いて食べると美味いぞ

          「カントリーマアムを焼いて食べると美味いぞ。」 かつて部活の激励会でそう言っていた数学の先生が亡くなられた。およそ1ヶ月前くらいのことだ。自分にとっては二年間数学の担当だったり、部活の顧問を三年間してもらっていたのでお世話になったものである。若くて身近な人が亡くなることをあまり経験したことがなかったため訃報を聞いた直後はとても驚いた。 高校生活ももう遥か昔のことのように思い出される。しかしながら訃報を聞いた直後に今回のタイトルのカントリーマアムのことが一番頭に残っていたか

          カントリーマアムを焼いて食べると美味いぞ

          僕は僕の地獄を愛す

          ここ最近はメンタルも落ち気味で何もする気力が湧かないまま今月も終わりに近づいてしまった。 衝動的に物事を決定しがちな自分はこの有り余った時間をどう過ごそうか模索中だ。 二、三年前みたくゲームをしたり、絵を描いたりしても心は満たされそうにもなく、とは言ってもSNSを無限にスワイプするような日々にも飽きつつある。 圧倒的にリアルで人と接する機会がないため、そろそろ社会復帰しようとも考えたが、考えただけで行動に移すようなことは何一つしていない。 芥川賞作家の宇佐見りんが「地獄とは終

          僕は僕の地獄を愛す

          ワンナイトトーク

          テキトーにSNSを使って、最近はグラビティが多いかな?一晩だけ、顔も年齢も何も知らない相手と話すときがある。話した話題もたわいのないことばかりで3日後には忘れていそうで、だけどそれが1番僕には丁度良い。 昔からよくやっていた遊び?とでも言っていいのかすらわからないけれど、たくさんの人と一晩だけ話してきた。 たまにこれでもかと波長の合う人がいて、そういう人とは次の日も話したりするのだが、それは稀有な例で、今まで話したほとんどの人はもう二度と話すことはないだろう。そうやって次の

          ワンナイトトーク

          夜に思うこと

          いつからだろう。快眠できなくなったのは。希望が持てなくなったのは。不安に押しつぶされうになったのは。孤独を感じるようになったのは。惰性で生きるようになったのは。 いつからだろう。人生に対して何も感じず、そして何も考えたくなくなったのは。 夜はこんなことを、思わなくてもいいようなことをつい思ってしまう。 B4の紙切れに収まる僕の人生を僕が愛せるようになる日はくるのだろうか。 悔しいなあ。悔しいと思えなくなったことに悔しいと感じる。全ての感情が薄れていく。 どうにもならな

          夜に思うこと

          あぁ寒いの嫌だな

          あぁもうすぐ今年が終わる。師走が近づくにつれ日に日に寒くなっていくにつれて気分が下がっていく。僕のこの気分の低下は気温の低下とともに毎年恒例になりつつ、かといって慣れるというわけでもなく、いや、鳥取で冬を過ごした二年間で少しは慣れただろうか?とにかく冬になると僕は人間なのに動物みたいに冬眠をしたくなるのである。 かといって冬眠するのは世間が許してくれるというわけでもなく、「こうやって文章を好きなときに書きながら、お金まで入ってこないかなー」などと変な妄想を繰り返したり、現実

          あぁ寒いの嫌だな

          失敗に花束を

          月日の経過はいつだって待ってくれなくてもう11月。頭が働いていなくて、歌詞のような文章を書きたくなる。 優しさとはなんだろう。涙のわけを訊かないことなのだろうか。あなたが転んだとき、僕はあなたに手を差し伸べるのではなく、一緒に転んで笑ってあげたい。僕はそんな優しさが大好きだ。 いつか自分も狂っていくのだろうか。不安だ。 やばい人は自分をやばいと思っていないことが、むしろ自分はいたって正常だと認識していることが1番やばいと誰かが言っていた。自分は狂っていると分かっていながら、

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          勝者の酔いには興味はない君へ

          そうだな。うーん。例えばタワマンの最上階でお酒を飲んだり。そういった勝者の酔いにはこれっぽっちも惹かれませんねえ私は。ん?妬んでるや僻んでいるじゃないかって?そう思ってもらっても構わないよ。僕は知っているからね。結局そういった行為の先にあるのはきまって虚無感や空虚感だってことを。 でもね。これはありとあらゆる幸福に当てはまることなんじゃないかな。行きつく先は虚無感と空虚感。幸福は無常にも延々と続かない。至って瞬間的なものだから。だから僕は幸福は虚無感と空虚感とイコールだと言い

          勝者の酔いには興味はない君へ

          書くこと

          書きたいこともなければ、書きたいことを見つけ出す努力すら最近はできていない。別にいいじゃないか。僕が書かなくても。僕が書いたことだってもっと遥か昔に誰かが世界中の偉人が僕より遥かに精度の高い思考で巧みな文章で綴っているではないか。いや結果論的、生存バイアスのようにそのような文章しか後世に伝わってきていないのかもしれない。 作家は間違え続けること、間違えていることを間違っていると分かっていながらそれでも貫くことが大事だ。それが一つの核になる。そこに科学的根拠や証拠は必要ない。

          書くこと

          勇気

          生きる上で最も大切なことはなんですか? 誰しも一度は問われたり、聞いたりしたことがあるだろう。 僕は聞かれたら「こういう質問を考えもしないくらい今を生きることだよ。」とか適当に答えにもならない返答をよくする。 人によって友達だとか家族だとか健康だとか、自由だとか、お金だとか無数に答えがあるように思う。 「ニーバーの祈り」というラインホールドニーバーの言葉がある。 その中に勇気という言葉が出てくる。「変えられるものを変える勇気をください。」というものだ。 「勇気」とは自分が