命の重さ
とある友人の話である。
友人は病んでいた。
いつも絶望を感じてはリストカットをして、
悲壮感を漂わせながら包帯を見せては、
にやけて絡んでくるのである。
もちろん病院には通院しているようだ。
生活保護を受けて、友人は一日中部屋に篭り、体重計とにらめっこをしていた。
友人の体はほとんど骨と皮状態である。
なのに、まだ重いと言うのだ。
ろくに食べてないのに、下剤を飲んだり、指を喉の奥に入れ、無理矢理吐き出すのだ。
それで、数グラム増えれば絶望し、
またリストカットに走るのだ。
多分だが、血の量までもが、
憎いのではないだろうか。
少しでも、軽く小さくなりたいのだ。
死んだら小さい棺桶に入りたい。
そう友人は言う。
絶望の先にあるのは、
死んだ後の自分の姿を夢見てるのだ。
何故そこにこだわるんだ?
お前はまだまだこれからだぞ。
今からそんな事考えてどうすんの?
そう尋ねると、
だってそれが美しいから。
悦に浸る友人は、本当にそれが自分の求めている姿であり、結末なのである。
無理強いはできない。
人によって価値観があるのだ。
それを否定してはいけないのだ。
だがしかしだ。
それが命と引き換えに
得られる夢だとしたらどうする。
私はそれはあってはならないと思うのである。
命ある今を生きてきて、わざわざ不健康になり、死にゆく先の姿を夢見てそれが美しいと思うのは、間違っている。
命の重さは、そんなに軽くないのだ。
友人の母親は、友人産んで施設に預け、
男と逃げたと聞いた。
未だに母親を知らない。
人の命をなんだと思ってるんだよ。
十月十日腹ん中に育まれていた命である。
そして友人と同じである。
新しい命と引き換えに
男と逃げる道を選んだ母親。
この親子は皮肉にも似ている。
命の重さを知らないのである。
現実逃避、責任逃れ、いずれは死にゆくものなんだから、等と実に軽んじてる。
それを友人に命の重さを説いた所で、
そんなに命が重いんたなら、いっそ死んで軽くなりたいな。
と悲しげに笑って言うのである。
そんな友人を助けたのは、
何も知らない人。
SNSを通して知り合った人である。
友人は依存体質であった。
誰かに依存したいその一心でSNSを発信させ、友人の事を何も知らないであろう人間と交流し始めたのだ。
軽く相談等を受けて知ったのだが、
そこにいる友人は生き生きとしていた。
生きる事の素晴らしさを少しでも感じているのなら、それでいいんじゃないか。
そんな友人から思いもよらない発言を聞くのである。
妊娠をしたと。
これからどうすんの?
と聞いてみた所、
産みたい。母親になりたい。
ダメかな…。
モジモジと頬を赤らめている。
お前、変わったな。
顔色もいいし、すごく健康的じゃないか。
ダメなんて思わなくていいんだよ。
お前、輝いてるぞ。
今のお前はとても美しいと感じるぞ。
そう言うと、
お腹をさすり、そお?と照れていた。
友人の命の重さは2倍になった。
それでも友人は、
前を向いて行く事を決めたのだ。
出産、立ち合っていい?
と聞くと、すんげー嫌な顔された。
じゃぁ、お産はすんげー大変だから、
産まれてお前の体調が良くなったら
必ず教えろよ。
絶対に会いに行くから。
そんで…
赤ちゃんの沐浴させて。
としつこく言うと、
わかった、わかったから。
とキラキラした笑顔で快諾してくれたのだ。
月日は経ち、
出産したよー難産でなかなか産まれなくて、やっと産まれたよ…4000グラムくらいあった。
命ってこんなに重いんだねー。
と赤ちゃんとふっくらした友人の姿の画像とメールが送られてきた。
不覚にも泣いてしまった。
頑張ったな。お前はえらいよ。
よくやったじゃないか。
んで、いつ沐浴させてくれんの?
とメールを送るとややしばらく返信はありませんでした。
命の重さは、計り知れないが、
生きてる限りその重さを知る事は出来る。
そう感じた出来事でした。