(近代的)「所有」観念の意識の低さからくる「法」を無視した日本人の「人治主義」的態度
現在の日本の都道府県知事は県民からの直接選挙で選ばれるが、戦前の日本の都道府県(都庁府県といった)知事たちは内務大臣の部下として政府の任命によって派遣される官僚の一人だった。
戦前の府県は、国の出先機関としての性格と、地方自治体としての性格の両方を持っていた。
「府県会」という議会を構成する議員たちは県民の選挙によって選ばれたが、自治体として議決を要する事項は条例制定のほか、予算、決算、府県税まど府県財務に関することに限定されていた。
府県会には罰則のつかない条令決定権はあったが、国から派遣された知事たちはそれとは別に、罰則のついた府県令を発することができたという。
内務省は1874年(明治7)に、「全国人民の安寧をはかり、戸籍人口の調査、人民産業の勧業、地方の警邏」を目的として開庁された。
民政の掌握と殖産興業の推進および、民衆の騒擾を抑えるための治安維持がその大きな役割だった。
明治維新の革命によって、日本は封建制の社会から中央集権制の国家へと生まれ変わったが、当初、内政のほとんどをカバーするなんでも官庁として発足した内務省には、それこそ全国の府県庁から直接、ありとあらゆる種類の質問や伺いが殺到したという。
・貧窮の中で夫の介護をした女性に対する褒賞の許可
・屋号を苗字として用いることについての伺い
・離縁した妻が、その幼児を連れかえってもよいかという伺い
・農家の畑から出た古銭を内務省へ差し出すべきかどうかの伺い
・ある農民が見つけた頭のふたつある骨を内務省に差し出すべきかどうかの伺い
内務省では、府県庁から寄せられたこうした質問のすべてに対し、一々丁寧に回答を与えていった。
根拠となる法律がまだ十分に整備されていなかったのが大きな理由だったが、しかしたとえその根拠となる法律を定めたとしても、日本人の場合、その適応をめぐって結局は揉めることになる。
法律でこうだと決められているならその通りにすればいいだけのはずなのだが、そうならないところに日本人の特質がある。
だから逆にいって、決められたルールの通りに信用して任せてしまえば、一々しつこく管理するような手間も必要なくなるのに、それができない。
家庭内の子どもに起きた問題なら親が決めて、学校で生徒に起きた問題なら学校で決めて、行政上の問題なら官僚たちが決める。
法律がそのままダイレクトに適用されることはなく、それを踏まえた上で、最終的にはそれぞれの判断で、思い思いに処理してしまう。
「法治主義」とは文字通り、法律通りに物事を決めていくということで、もし判断に迷って揉めるような事態になれば、最終的には「裁判」で法令の解釈を決めることになる。
ところが日本ではむしろ裁判に持ち込まれるケースは少なく、多くは内部だけで処理してしまい、どころか裁判所から問題の解決を差し戻されるケースまである。
戦前の内務省は日本を「法治主義」的にではなく「人治主義」的に支配していたが、社会学者の小室直樹氏はこうした官僚の態度を、「家産官僚」か「依法官僚」かの違いで分けて説明されている。
「官僚制」は絶対王権の時代に発達したが、絶対王朝時代の官僚たちは王様に仕えるプライベートな召使いでしかなく、マックス・ヴェーバーはこうした官僚を「家産官僚」と名付けた。
絶対王権下では「国家」そのものが国王の所有物であり、人民も土地も、そのすべてが国王の財産(=「家産」)で、その家産を管理するのが家産官僚たちの役割であり、現代のような「役人は公僕である」という意識の存在ではなかった。
一方、絶対王権から立憲制やデモクラシーに変わって、誕生したのが「依法官僚」で、依法官僚とは、「法に従って動く官僚」という意味。
小室直樹氏は、日本の官僚は「家産官僚」になってしまっていると言い、その特徴は「公のものは俺のもの」で、「公私の区別がない」のが大きな特徴だと指摘する。
小室氏はまた、日本人は近代資本主義的な「所有」の観念に乏しい民族だと指摘する。
「所有」の観念に乏しいというのは、どこまでが自分(権利)のもので、どこまでが他人のもの(権利)か、区別が曖昧なままということ。
そしてそれは、日本の資本主義が未発達であるがためにそうなるのだといい、さらにそうした日本人の所有権に対する意識の曖昧さが、「良心のマヒの慢性化」や「自己浄化機能」の不備へとつながるのだとも指摘する。
また、日本独特の「役得」とか、こうした意識が「汚職」の淵源にもなるという。
例えば日本人の「役得」を利用した豪華な接待を受けると、アメリカ人は目を丸くして驚くという。株主のお金をそこまで勝手に使っては信用されなくなるから。
小室氏によれば、日本人にはそもそも「株式会社」が株主の所有物であるという認識に乏しいという。
株式会社の所有権は株主であり、株主だけ。「会社は資本家の所有物である」という考えから、企業そのものの売買といった概念も出てくる。
ところがそれが日本では、「会社にお金を貸してくれる人」くらいの認識でしかない。
同じように、どうも日本人は、家庭内の問題や学校における問題でも、その問題は、いつまでも変わらない、前近代的な「所有」の感覚でいるというところにその原因があるということなのではないか。
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