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小さい頃「仕切り屋」と言われて悲しかったけれど、大人になってもリーダーから逃げられない

「あいちゃん、また仕切ってるー。仕切り屋だよねー」

小学校5年生くらいの頃だっただろうか。
今日は何して遊ぶかを決める、放課後の公園でのいつもの会話だったと思う。

いつものメンバー、4・5人で集まって、いつもの流れで話していたとき、ふとその中の一人がそう言った。
私には全くその自覚はなかったが、その子がその日初めて明言した。

誰もそれを否定しなかったし、私自身も「そうだな」と思ったのだ。
明言されたことで、皆も私が仕切り屋だなと日々思っていたことを悟ったし、
私自身、時々場の意見を「仕切る・まとめる」ことと、自分の都合のいい方向に話を誘導することを混同してしまっている場面があったなと反省した。

「仕切り屋」という言葉のニュアンスには、少なくともこの場面では1mmも「意見を取りまとめてくれてありがとう」のようなプラスのニュアンスはなかったから。

友達のその言葉が30歳をすぎた今でも、ふと頭をよぎる。

その後もずっと友人の人もいるし、明言の後も特に喧嘩などにはならなかったが、小学生の心には結構突き刺さった。
言い返す言葉もなく、シンプルに「ごめん・・・」って言った気がするし。
ショックすぎたのかその後の詳細は忘れたけれど。

人生の割と早めに、意見を押し通すこととリーダーシップの違いを指摘されたいい経験になったと思う。
良薬は口に苦しですわ。5年生には本当に苦かった。

そこからは、不満が出るので私には仕切りは向いていないんだ。
だから向いている人に任せる!どぞーー
というマインドで生きてきたつもりだ。

なのだけど、大人というか、いい大人というか、中年というか、
とにかくどれだけ歳を重ねても、転職をしようがいつの間にかリーダーのような役回りが巡ってくる。

給料が正比例するならはい!喜んで!ってところだがなかなかすぐには比例しないのが世の常。
転職して3ヶ月程度しか経ってない時期に上司との定期面談で「あなたはまだ猫をかぶっている。わかる。」と言われたのは、今思い出しても笑えるし、よく考えたら失礼だな。

どんなに悲しくて反省しても、三つ子の魂百までとはよく言ったもので、仕切り屋オーラが染み出しているんだろう。
大人になって感じ方が変わった点は、それもまた私の特性だから仕方がない、と思えるようになったことだろうか。

例えば、意見が堂々巡りしたり収集がつかなくなっている会議では「こういうことですか?」と発言せずにはいられない。
たくさんの人間の時間が無意味に溶けていっている感覚になるから。
そんなの耐えられない。
例えば、あなたはピノを食べずに溶け進んでただの液体に成り下がるのを目の前にして我慢ができますか?いい感じのところで食べたくない??
そんな感覚。

でもこんな風に発言して、矢面に立つのが苦手な人も多くいることを知った。
私はそれがあまり苦にならない、という性格の人間というだけ。
それはそれとして、周りが私についていきたいと思ってくれるのかは別の話だと思うんだけれど、そこは全リーダーにとっても課題なんだから頑張れよって話だな。

私より仕事ができる人間は、周りを見てもたくさんいる。
まぁ、確かに私はスーパープレーヤー向きでもないなぁ。自覚はある。
繁忙期などで物理的に仕事量が多くて回せなくなってきたら、
一旦「やばーーーーーーーーーむりじゃなーーーーーい??」と言ってから
「でもやるしかないじゃんよーーーー、うぇーーい」と言いながら、ひたすらこなす。という根性論やんけという感じ。
私なりに事前準備や想定はしておくが、しごでき人間はその準備の精度が素晴らしいのよね。

え?今週残業これだけで抑えたん?すごない?

という感じに繁忙期の波すら乗りこなすよね。本当にすごいわ。
同じ進捗管理表見て、同じ数字見てんのに不思議。
頭ん中どうなってるのかしら。聞いてみたけど、まだできないんですが・・・

スーパープレーヤーになるか、リーダーをやるか、という選択ならリーダーの役回りが向いているってことなんだな。
というように最近は捉えるようになった。

リーダーから逃げたって、私はずっと「仕切り屋」で生きて来てしまったのだから。
そんな自分からはどこにも逃げられない。向き合うしかない。

これから先は、自分なりのいいリーダー像を見つけていきたいなぁと思う。
誰かになりたい、と思うことも苦しいとわかってきたから。


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