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読書感想#61 【田辺元】「歴史的現実」

出典元:歴史的現実 田辺元  岩波書店 出版日昭和十五年六月十日

序文に代えて

最近は"メタ思考"なるものが流行っているように思います。"人生"に対して「人生に意味はない」、"幸福"や"夢"に対して「そんなのただの幻想だ」、"世界"に対して「そんなはものは存在しない」、などといって。もちろん、ここにも狭い意味での真理はあるかも知れません。「人生の意味なんて人間が勝手にいっているだけだ」、「幸福や夢なんて人間が勝手に作った幻想だ」、たしかにその通りかも知れません。しかし、この"メタ思考"には最も肝心なものが欠けています。「私」です。人生をいくら否定したところで、「私」は「私の人生」の中で人生を否定しています。人生を否定していること自体がすでに「私の人生」です。それは「人生に意味はない」という人生の意味付けです。「幸福や夢は幻想だ」、「世界なんて存在しない」といっても、"幸福"やら"夢"やら"世界"やらと口に出来るのは、それがあるからに他なりません。「本当に存在しないもの」については、そもそも誰も語り得ませんから。私からすれば、"メタ思考"は机上の論理以上でもそれ以下でもないのです。

ただし、ここでいう机上の論理は、必ずしも悪い意味だけでいっているのではありません。机上で考えること自体は大事ですし、むしろ目の前の常識に捕らわれないためにも必要です。しかし、それはあくまでも机上の論理に過ぎないことは念頭に入れておくべきでしょう。「私」を欠いたメタ思考と、「私」が生きている現実の混同は、畢竟ネガティブなニヒリズムを避け得ないのです。

さて、私が本書の内容を無視して、いきなり自分の思いを随筆のように書き連ねたのは、私が昨今感じたことと、本書の内容が偶然にも共鳴したからです。本書のお堅い内容に触れる前の、軽い準備運動にでもなれば幸いです。

「歴史的現実」という題の意味

まず現実とは何であるか

然るに現実とは何であるかというと、それは現在に於いて成り立って居るものである。過去も未来も直ちに現実とは云えない。現実とはこの現在に我々が直接に面接しているものである。

p.10

すなわち、現実とは"絶対的な現在"です。そしてこの"現在"というのは、私たちが自由に設定出来るものではありません。私たちがどの時代に生まれてくるかを選べないことから分かるように、それは私たちが自由に動けないように限定されている所です。

併し動けないように制約されているその裏には、我々が希望と要求に従い自由に未来を作って行く事が出来るという事を予想していると考えねばならない。

p.10

すなわち、これは"過去"と"未来"の話です。"現実"は、"過去"からいえば「絶対に動かないもの」であると同時に、"未来"でいえば「動き得る」もの。これが「歴史的現実」なのです。普通「歴史」というと、「現在にいたるまでの過去のこと」を指すに止まりがちですが、「歴史」は元来、「未来の可能性を予想するもの」でもあるのです。つまり「歴史的現実」とは、"現実の創造"です。

併しそうだからといって、我々は歴史的現実を勝手に作為する事は出来ない。我々は過去の必然性によって決定されている事を通してでなければ、自由に可能性を未来に実現する事は出来ない。決して単に無媒介に新に未来を決定して行くという事は出来ない。

p.12

これはいかにも、「種の論理」の立場に立つ田辺らしい物言いであります。私たちは決して自分一人では生きていないのであり、それ故無媒介なる存在者ではあり得ないからです。

必ず媒介を要するということは、そこには必ず不合理が存在するということ。たとえば、「持てる者」と「持たざる者」。人類皆平等とは言いつつも、実際には偶発的な不平等が存する、これが現実なのです。

或哲学者は人間の過去的なあり方は投げられているあり方であると云って居ますが、或者は乏しい状態に投げ込まれて居り、また他の者は偶然的に都合よく投げられているのであります。これが事実である。之を離れて我々は歴史の外に出る事は出来ない。

p.14

しかしその不自由の中にも、否、その不自由の中にこそ自由があるともいえます。

我々は歴史的現実として動かす事の出来ないものをはっきり知る時、歴史的現実として自由を感得する。そこに歴史は単に成るものでない、現実の中に自己を失って現実と一になった私が行為するという所がある。

p.16

私たちは「歴史的現実」として、自由を行為するのです。私たちが「歴史的現実」として働くということは、決して私たちの自己が失われるということではありません。むしろ、"現実"が"私たち"であるということです。それというのも、「未来の可能性」が「過去の必然性」を通して働くということであり、この両者の結び付きは「現在」においてなされるからです。

少し話が複雑になってきたのでまとめると、「過去から押す力」と「未来から決定する力」が結び合うのが「歴史」であり、それを「結び付ける現在」が「現実」であるのです。

…歴史的現実は過去のもつ必然性の結果として動かすことの出来ない、どうにもならないものであり、而もそれが我々の未来に於いて自由に自己を決断する可能性の媒介であると云うのであります。

p.20

"過去"と"未来"の構造は、"種族"と"個人"の関係にも当てはまります。たとえば、私が日本人として生まれてくることは、話す言語が日本語になるといった制約を受けます。しかし、日本人は未来永劫日本語しか話せないのかというと、そうではありません。英語を学べば英語が話せるようになりますし、中国語を学べば中国語が話せるようになります。これが個人ということです。

ここでの"種"と"個人"は対立します。しかしこの対立は、かえってお互いを結び付けます。「正常な場合には到底個人が種族を倒す事はあり得ない。また種族が個人の自由を全く否定し窒息させる時は、その種族は決して長く歴史の舞台に自己を維持する事が出来ない。

p.66

それというのも

単に自主性のない死物をよせ集めた種族は外面的にはよく統一を保っていると見えても、却って長く活発なる生命を維持することは出来ないのである。種族には、種族の中にあって然もそれから自由になろうとし、時に種族に反対し対抗し之を批判する個人が必要である。個人は単に種族の一員であるのみならず、同時に人類の一員でもある。そこで種族は人類的な立場から、かかる個人が進んで協力する様に自己を統一する事が、歴史の裁きに於いて長く自己を保つ所以であると考えねばならない。これが国家の本質的成立である。個人は種族という地盤を離れ国家の外に於いてはその自由を実現する事が出来ない。両者は国家に於いて調和的な統一にはいらねば夫々自己を保つ事が出来ないのである。

p.67-p.68

現実の危うさ

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