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カーボベルデと人類の航海

バスケットボール試合で日本が勝ったカーボべルデ(Cabo Verde)という国は、ポルトガル語でベルデ岬(緑の岬)の意味とのこと。西アフリカのベルデ岬の約375キロ沖合にある群島である。面積は、4,033平方キロメートル(日本の滋賀県程度)。人口56.2万人(2021年、世銀)。その島々が大航海時代にポルトガル人が到達するまでは、無人島だった。人類は航海により地球上に拡散していったことを思うと、アフリカ近海の島々が無人島だったことに驚かされる。だからといって、ポルトガル人の到達以前に誰も来なかったわけではなく、すでにアフリカ漁師やアラブ人が来ていたらしい。国名のカーボべルデは、アフリカ大陸の岬カーボベルデからつけられているということは、無人島故に島名がなかったからだろう。

そう言えば、ベルデ岬は、大航海時代の歴史の中で記憶がある名前だった。ポルトガルのエンリケ航海王子が1416年にサン・ヴィセンテ岬に造船所、天体観測所、学校を建設してから、20数年を経て、1444年にアフリカ大陸西岸のベルデ岬にようやく到達した。このベルデ岬の沖合にある無人島にもポルトガル人がやって来て、カーボベルデと名づけられた島々にインド航路の基地として入植を始め、ポルトガル人と大陸から連行されたアフリカ人が住むようになった。やがては奴隷貿易の基地に使われた。

ポルトガル人の到達以前にも、アラブ人が塩を取りにきたり、アフリカから漁師が来たりしていた。アラブ商人がやって来ても、無人島のままだった。目的を達したら帰っていくアラブ商人や漁師たちは、大洋を自由自在に航海する高い航海術があったのだろう。アラブ人は住みつくことなく、目的が達せられたら帰っていった。

インド洋に浮かぶモーリシャス島(面積は2,040平方キロメートルで、ほぼ東京都大)も、10世紀以前からアラブ人が来ていたが、ポルトガル人が到達し、更にオランダ人が入植するまでは、無人島だった。ヨーロッパ人は、古代ギリシャの時代からギリシャ植民地を作り、バイキングは他国を侵略略奪し、やがてその地に定住化したが、大航海時代以降も入植により、植民地を拡大していった。

人類の航海には、帰りのある航海と帰りのない航海があると思われる。アラブ人たちは、帰りのある航海をしていた。一方で人類のグレートジャーニーとして、ポリネシアンは、帰らない航海をして太平洋に広がった。

何故、太平洋の隅々までポリネシア人は広がっていったのか?台湾やフィリピンからやって来た人たちは、メラネシア、サモアを経て、タヒチに到達、そこから更にハワイ、ニュージーランド、イースター島へと長い年月をかけて広がっていった。彼らは、追い出された人たちとも冒険心のある人たちとも考えられるが、帰りのない航海を経て、戻ることはなかった。ホームグラウンドから航海するアラブ商人と故郷を捨てて、移住をし続けたポリネシア人との違いは何だったのだろう。アラブ人、ヨーロッパ人、ポリネシア人は、それぞれ航海の姿が違う。航海技術や航海の目的・動機により様々な航海の形があったのだろうと、あまり馴染みのなかったカーボベルデという国からいろいろと瞑想した。



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