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年忘れの第九

今日、上野にある芸大奏楽堂で第九を聴いた。秋はあっという間に過ぎて、気づけば12月だ。大勢の人が芸大の門を入っていく。人の流れに乗りながら、百メートル程の道を行くと奏楽堂だった。

今日ソプラノで歌う師から頂いたチケットは、バルコニー席のしかも先頭だった。見下ろすと大方の席は埋まっていた。開演時間になり、演奏者が楽器を持って舞台に現れ、最後に指揮者が指揮台に立つと、すぐに演奏が始まった。

第一楽章、ダダダダッタダッタダという強い連続音、運命の動機を思わせる音。やがてやや明るい動機が、暗黒からわずかの光を感じさせる。

生のオーケストラは、良いなと当たり前のことを思う。右前方からオーケストラの各パートの奏でる音が聴こえてくる、と言っても、自分の耳は、チョロとバスの低音部、バイオリンとビオラの高音部、フルートやホルンの管楽器、印象的なティンパニの4パートしか区別できないのだが。

強い打撃の音にいつしか遠い過去に思いを馳せていた。誰しもが経験するだろうつらい思い出が蘇る。曲は流れ、過去が浮かび上がる。

第二楽章はテンポの速いスケルツォ。何だ、このテンポは、意気込み過ぎでないか。逆境を乗り越えようと頑張り過ぎて力が入り過ぎだ。もっとリラックスしなくては。かつて、そんなことを思ったことが何度かあった。

第三楽章に入る前に、オーケストラの調律音が鳴る中を、4人の歌手が入ってきて舞台の中央に立った。春の小川のようなゆったりとしたメロディーが流れる。何とも言えない幸福感だ。そして切れ目なく第四楽章に入った。

オーケストラのつぶやきが聞こえる。第一楽章の運命的なテーマが流れると、「いやいやこんな音ではない」と打ち消すように低音部の弦楽器が奏でる。第二楽章の速いテーマが笛で奏でられると、また「いやいやこんな音ではない」とバスとチョロが言う。第三楽章のテーマが少しだけ現れ、打ち消され、次に現れたメロディーが歓喜の曲に聴こえた。打ち消すのではなく、「そうだ、そんな音だ」と弦楽が言っているように思えた。少しずつ、喜びの世界に近づいている。

やがてオーケストラが歓喜の歌をのびやかに奏でる。4人の歌手と合唱団が一斉に立ち上がる。真ん中が黒い男性たち、端が白い女性たち、ソプラノの師は、どこかにいるはずだが、近眼メガネを忘れたので全く分からない。

バス歌手が「オー、フライト」と叫ぶ。ドイツ語は全く分からないが、「友よ」と言ってるのだろう。オーケストラという高尚な道具を使いながら、音楽そのものは平等かつ公平に大衆に開かれている。内容は分かりやすい。宮廷の狭い部屋から民衆に開放された音楽がここにある。

内容が分かりやすい。だから作曲者が身近に感じられる。ベートーヴェンが聴覚障害と戦いながら、作曲を続けてきたことは、今さら言う必要はないが、人々がその音楽に感動するのは、自らの境遇を普遍化し、作品を通じて、同じ人間として全ての人に、全ての普通の人に伝えたからであり、だからこそ人々は、彼に共感を感じるのだ。真の天才とは、高くに行かず、遠く離れずに人々の身近にいるものなのだ。

ソプラノの歌声が左側から聴こえる。ソプラノの歌声聴こゆ 師は何処。

最後の合唱は、あっと言う間に終わった。ブラボーと言う声と盛大な拍手が場内に巻き起こる。4人の歌手が帰り、指揮者が帰り、楽器奏者が帰り、最後に合唱団が整然と一列ごとに帰る。すでに席を立った人もいる。拍手を続ける人もいる。わたしは最後のひとりが舞台から消えるまで拍手をしていた、というのも合唱団が今日の最重要演者だからだ。

2024.12.8


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