母の終戦の日
母が生前、終戦の頃の様子を次のように私に話してくれた。
母の話 空襲
父近次郎さんと母おはるさんは、昭和19年4月に長兄の統吾さんの居る埼玉県入間郡南古谷村渋井の蓮光寺に疎開した。わたしは、芝区西久保巴町の次兄夫婦の家に移り住んだ。都電通りを路地に入ったところにある二階建ての二軒長屋で、大井町の長屋よりはきれいだった。お寺の方からも入れた。家の前に井戸があった。
それから三ヶ月後の6月に次兄の昇治郎さんは招集された。その後は兄嫁のマサ子さんとの暮らしが続いた。昭和19年11月頃から空襲が始まって、20年の年明け頃からひどくなった。昭和19年のころ、神田橋税務署に行くために麹町の会社を出て、市電に乗り皇居前の堀端付近に来ると空襲警報が鳴った。空を見上げるとB‐29が飛来してきて、神田方面に盛んに爆弾を落としていた。空襲警報が鳴り続ける間、日比谷の第一生命ビルの軒下で待ち続け米軍機が去ってから、神田橋税務署に行き、用を済ませて職場に帰った。麹町の高羽商店に戻ると同僚が心配して、「よく無事で帰って来たね」と迎えてくれた。別の日には、三宅坂から神田方面が空襲で燃えるのが見えた。
わたしは、防空頭巾は被らなかった。「キミちゃん、よく頭巾をかぶらないで大丈夫だね」と云われた。あるとき、上役の専務だったかに「アメリカ兵が上陸したらどうすればよいでしょうか」と聞いたら、真面目に「竹やりで戦うのだよ」と言った。それを聞いてバカらしくなった。
艦載機が一晩に2度来たこともある。空襲の直前にラジオからガーという音がして「東部軍管区情報」と言ってニュースが流れた。すると5分もたたない間に爆撃機が上空に来ていた。西久保巴町の上空で、カサカサという音がして焼夷弾が落ちてきた。焼夷弾はたくさん落ちてきた。神谷町から日比谷、新橋はみな焼けてしまった。愛宕山も焼けた。虎の門病院は焼けなかった。西久保巴町だけ焼けなかった。昭和20年3月10日は東京下町方面の大空襲があったが、5月の山の手の空襲では麹町一帯が焼けてしまった。高羽商店の四階建ての建物は残ったが、内部は焼けてしまい営業ができなくなった。そのときはどうしようもなかった。会社も焼けてしまったし、昇治郎さんも沖縄でどうなっているか分からない状態だったし、一番つらい時だった。7月になって、一度あいさつに顔を出して、6年間勤めた高羽商店を退職した。退職金のほかに高羽義治さんが3万円を餞別にくれた。
姉は福島の農家に疎開していた。当時は農家が納屋を改良して、疎開者に有料で提供することをしていた。姉はミシンで内職をするというので統語さんとミシンを届けに福島に行った。わたしは郡山までしか切符を買っていなかったので、途中で駅員が回って来て、電車を下された。若い娘をひとり降ろすなんてひどいことをするなと思った。その日は木賃宿に泊った。
母の話 終戦の日
8月15日は施餓鬼法要があるので、埼玉の蓮光寺に手伝いに行った。朝、ラジオから「国民の皆様に申し上げます。正午に天皇陛下の大事なお話がありますので、12時にラジオの前に集まってください」という放送があった。施餓鬼法要のため、寺に村の人たちがたくさん集まっていた。山上曹源先生と学生たちも来ていた。12時にラジオの前に集まって陛下の放送を聞いた。「ポツダム宣言を受諾し」「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び」「泰平を開かんとす」という言葉が流れたが、集まった人の多くは何を言っているのかわからないようだった。学生たちは、わっと涙を流して泣き出した。統吾さんが「結局日本は負けたんですよ」と村人たちに説明した。山上先生が学生たちに「泣くな、泣くな」と慰めていた。
山上先生は、駒澤大学の学長で、統吾さんは、その弟子になる。もう一人の弟子は、鋸山の日本寺を預かった。山上先生のお姉さんが疎開する際は、箪笥などの家具をリアカーに積んで、近次郎さんが渋谷の家から蓮光寺まで何度か運んだ。山上先生が亡くなったときは、統吾さんがお経をあげた。
終戦直後、1~2週間たったころ、愛宕山から鉄砲の音がした。外に出てみると右翼の奥さんが居て「今死んだみたいです」と言って、愛宕山の方に駆けて行った。その後ろ姿を兄嫁と二人で見ていた。当時敗戦を悲しんで多くの右翼が自決した。
終戦後、サツマイモの買い出しにマサ子さんとマサ子さんの親戚がいる木更津に行った。サツマイモをリュックに詰めて帰ったが、新橋駅を降りたとき、マサ子さんは幼児を背負っていたので先に帰り、一人で歩いていると米兵が現れた。ナイフを持っていた。驚いて、アメリカ兵がいますと叫んだら、逃げてしまった。近所の家から何事かと出てきた。リュックを路上に置いて慌てて家に帰り、マサ子さんに話すと、「大変だったけど、そこには荷物がまだあるかも知れないと思うから、せっかく買ってきたサツマイモだし、戻って見に行ってみましょう」というので、行ってみたら、リュックはそのまま置いてあった。その暮れにわたしは結婚した。
【写真 川越市の蓮光寺】