ふるさとは遠くにありて思うもの・・・故郷のたぬきそば
以前、行って感激した場所にもう一度行きたいと思い、実際に行ったら、幻滅し後悔したことはないだうか。旅でなくても、子どもの頃に食べた思い出の食べ物を求めて、その店に入ったら、ずっと抱いてきたイメージと違っていて、食べたことを後悔したことはないだろうか。
たぬきそばは、かけそばに揚げ玉が入り、普通はそれに鳴門巻と青菜かワカメが乗っている。しかし、子どもの頃に育った町にある蕎麦屋のたぬきそばは、ちょっと変わっていて、玉ねぎが入っていた。これが美味かった。この店のもりそばの甘味のある汁と玉ねぎ入りのたぬきそばの味は、子どもの頃の食の記憶として深く心に刻まれていた。
数年前に故郷の町に行き、その蕎麦屋の前を通りかかったとき、中に入ろうか通り過ぎようかと迷ったあげくに意を決して戸をガラッとあけて入り、即座にたぬきそばを注文した。しかし、出てきたたぬきそばは、玉ねぎが入っていない、どこにでもある普通のたぬきそばだった。後を継いだ主人に聞くと、「昔は確かに玉ねぎを入れていたのですが、何で玉ねぎが入っているのかと聞くお客さんもいるので」とのことだった。
思い出のたぬきそばは、消えていた。むしろ、それは幸いだったのかもしれない。もし、玉ねぎ入りのたぬきそばを食べていたら、思い出の味は、新たな味によって上書きされるだけなのだろう。
遠い過去の思い出のようにオブラートに包まれたものは美しい。オブラートに包まれたということでは、目の前にいる人の不可思議な魅力に惑わされることもある。未知なる土地に行きたいという欲望にかられることもある。それらは知らないから魅力的なのだ。魅力とは、まさに未知なるものへの憧れである。実現し未知でなくなったら、それまでは非常に素晴らしいと思われていた魅力は薄れていく。やはり、ふるさとは遠くにありて思うものなのだろう。
それでも人は新たな感激を求めて常に生きようとする。旅に行かなくても、外を歩かなくても、明日という未知なるものに夢を見て生きている。そして、夜が明ければ、そこには淡々とした普通の一日があるだけである。