明治時代の祖母への年賀状
明治4年に郵便制度がわが国に導入され、明治6年に郵便ハガキが発行された。ハガキが普及するとともに、明治20年頃に年賀ハガキを出す習慣が広まった。『吾輩は猫である』にも苦沙弥先生が年賀ハガキをもらう場面がある。ハガキの年賀状が普及したいっぽう、毛筆で認めた封書の年賀状も行われていたということが、私の祖母の例から知られる。
これは、遠藤ふく子から祖母田中はる子に出した年賀状で、内容から祖母が出した年賀状への返事である。消印が明治3■年1月4日で、何年か読み取れない。祖母が十代のことである。
手紙の大意は、
新年の御祝いを早々に下さりありがとうございます。本年も親しい交わりをお願いいたします。昨年末にはたびたびお尋ね下さったのに御返事も差し上げずに申し訳ありません。どうかお許しください。もう少し日にちが立ちましたら参上し、いろいろなお話を申し上げたいと楽しみにしています。末筆ですが、御主人樣はじめ皆々樣へも,よろしくお伝えください。先ずは御返事までーといったところ。
遠藤ふく子の住所は、神田区柳町だが、ふく子は、明治37年10月1日付の見舞いの手紙を入院中の祖母に出していて、その差出の住所は、西小川町の佐々木家であるので、明治37年には、ふく子は佐々木家に祖母と一緒に奉公していたことが分かる。
佐々木樣とある佐々木慎思郎宅には、祖母のほかにも、幾人かの女性が奉公していた。佐々木慎思郎は、旧幕臣、沼津兵学校第一期資業生、その後は金融界で活躍した。弟には、渋沢栄一の跡を継いで国立第一銀行頭取になった佐々木勇之介がいる。
この年賀状を出した年は、分からないが、すでにふたりが知り合いだったのなら明治37年以前であり、また、奉公先で知り合ったのなら、その後、遠藤ふく子は、神田区柳町の実家に戻ったことになるが、「御主人樣御はじめ御次皆々樣へもよろしくお願ひ申し上げ候」という文言から、明治37年以後と考えるのが自然に思われる。
この文面からこんなことを想像していまう。ふく子は何らかの事情で宿下がりをした。ふく子のことを案じて、はる子は、暮に何度か文を認めて尋ねた。ふく子は返事を出す余裕がなかったのだろう。ふく子は、申し訳ないと謝罪するとともに、もう少し日が立ったら、伺いたいので、その時は四方山の話をすることを楽しみにしていると言う。一枚の年賀状から、こんな少女たちの交流が推測される。
【宛先】
神田区西小川町三番地
佐々木樣御内
田中はる子樣
【差出】
神田区柳町四番地
遠藤ふく子拝
一月四日
【本文】
新年の御祝事御はやばやと
仰せ下され有りがたく拝し奉り候
なほ本年も一しほ御したしみ
のほど御願ひ申し上げ候拝 昨年
末には度々御尋ね下され候いしに
ご返事も申し上げ候はず申し訳も
之なく御ゆるし下されたく候
今少し日立候て参上いたし
四方山の御話申し上げ度楽しみ
居り候 末筆ながら
御主人樣御はじめ御次皆々樣へも
よろしくお願ひ申し上げ候
まつは御返事まで
目出度かしこ
一月四日 冨久子
おゆかしき
はる子樣
御許へ