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利己と利他の共存

子どもの頃に金魚をあげるよとわが家の水槽に金魚を入れてくれる人がいた。ある時は大きな和金もくれた。ある日、その人の金魚を見に行ったら、いつのまにか水槽にランチュウが泳いでいた。小父さんは要らなくなった金魚をくれるのかなと母に言ったら、笑っていた。

人間は、自分のためにするか、それとも他人のため、全体のために尽すかということでは、ずいぶんと矛盾した存在だと思える。人のためと言いながら自分のためだったりと、建前と本音が違うことがある。かつて「あなた方は小さな親切というけれど、私には大きなお世話です」と言った某芸能人の記者会見での言葉を聞いて愉快になった記憶がある。

利己と利他の葛藤が起きるのは、個人の行為と社会全体が切れ目なくつながっているからだろう。各個人は、断ち切ることのできない社会に身を投じて生きている。

他人のために働き過ぎて、ついにはそのような自分自身に耐え切られなくなることがある。滅私奉公も度が過ぎれば辛い。自分をなくしてまで他人や全体のために生きるのは辛い。

だが、普通はもう少し程よいところで生きている。そして、他人のためにと思った行為がやはり自分のためだったりする。利他的行為と思ってしたことが、振り返ったときに自ら利己目的だったと思うと偽善という思想が現れる。偽善から遠ざかろうとするとワザと利己的に見せて悪人ぶる。

しかし、こんな細やかな心から離れれば、利己と利他は、共存しているとも言える。これを証明するものは多い。
①仕事は、自分が生きるためにするのだが、また社会的行為であり、それは、利己的であり、同時に利他的である。
②慈善活動やボランティア活動は、他人のために行うものだが、自分の生き方を充実させ、幸福感を抱かせてくれる。人間の最大の報酬は人に喜んでもらうことだ。

善行という利他行為の結果、天国に行けるという思想にも、利己的と利他的が共存している。日本でも、「情けは人の為ならず」のことわざがあり、他人に良いことをすれば、巡り巡って自分にも帰ってくるという考えがある。人間だけでなく、利己的な個人の行いは、そのまま社会全体の役に立つというように自然の理はできていると思われる。

利己と利他は共存しているとの考えが、偽善の悩みから救済し、他人への寛容な心を養い、自分や他人を大きく広い目で見ることを可能にするに違いない。


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