端金の話
10円に泣く
かつて10円を笑う者は10円に泣くと言った人がいた。まだ携帯電話がない頃のことだが、電車代がなくなり、10円玉を持っていたので、公衆電話から家に電話をかけて、親に迎えに来てもらったそうである。
これは、昭和50年代に聞いた話だが、公衆電話の料金が10円という期間はずいぶんと長かった。10円をたかが10円と侮れない話であった。
この話のポイントは、当時すでに、10円は何も買えない端金であり、彼を救った公衆電話代がいかに安かったかということにある。これを検証してみたい。
明治から昭和の物価推移をまとめた『値段史年表』(週刊朝日編)によると、昭和50年頃の物価は以下のようだ。
・公務員の初任給 80500円(50年)
・化粧石鹸 80円 (51年)
・もりそば 230円(51年)
・カレーライス 280円(50年)
・営団地下鉄初乗り 80円(52年)
・都バス 70円(50年)
・国鉄初乗り 60円(51年)
昭和50年頃の物価を見ると、10円で買えるものがなく、まさに端金だった。その端金で救われた公衆電話料金は、以下のようである。
日本電信電話公社時代の公衆電話は、昭和28年からずっと、3分間10円を長らく維持し、昭和62年まで10円だった(『値段史年表』)なお、現在は、10円で約1分だそうだ。
家族に救援を求めるために、端金10円で3分間の時間が買えたのである。
一方、国鉄初乗り料金は、昭和26年に10円、30年代経済成長期は変わらず、41年に20円、44年に30円、51年60円と毎年のように上り、62年120円だった。
昔の1円
今でも、1円が最少の貨幣だが、今では、1円で買えるもの等ない。路上に落ちていても見向きもしないお金である。
自分の幼少の頃は、1円で買えるものがあった。1円玉1枚あれば、自転車でやって来て道端に停める紙芝居屋の花せんべいが1枚買えた。もう1円払うと梅ジャムをつけてくれた。1円は紙芝居を見るチケットのようなもので、花せんべいを持っていると堂々たる客で、何も買わないと買った子から「ただ見、ただ見」とからかわれた。紙芝居屋の主人は温和な人で、買わない子は見ちゃだめだと一度も口に出さなかった。昭和30年代の話だ。
屋台のおでんやのおでんで一番安いのがかりんとうと呼ばれる練り物だった。形と大きさがかりん糖に似ていたからだろう。これが1円だった。『値段史年表』(週刊朝日編)には載っていない、思い出の値段史である。
今でも、袋詰めでなくバラ売りにすれば、菓子ひとつ10円が可能に思われるのだが、商品販売システムがそうなっていない。商品管理の問題や衛生上の問題がある。駄菓子屋を称する現在の店も袋入り菓子しか置いていない。10円が端金になったのも、物価上昇だけでなく、経済システムが変わったからのようだ。