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深川・木場・葛西の旧海岸
深川で何度か深川めしを食べたことがあるが、味噌煮と醤油の2種類があり、どちらも捨てがたい。アサリの旨味がしみ込んで、自宅でアサリを買ってきて、作ってもそれなりに美味しい。
この深川でアサリ料理が普及したのも、アサリが簡単に手に入るものだからだ。江戸時代には、近くには海岸線が広がっていた。深川めしは、そんな風土から生まれた庶民の食べものだが、深川っ子が「深川めし」と呼んだとは思えない。そもそも地名のついた食べものは、第三者が名づけるもので、食べている本人にとっては、ただのアサリめしだろう。サツマイモは、鹿児島県では琉球イモ、沖縄ではカライモと呼んだ例からも、自分の住む地名を自らはつけないものだ。
深川江戸資料館の展示されている深川佐賀町の長屋に住む政助は、シジミやアサリを売る棒手振り職人という設定である。
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かつての深川木場の海岸を示す事例を挙げてみると・・・
江戸切絵図には、小名木川の南にはかつて海岸があったことを思わせる海辺新田という広大な開拓地があった。
『江戸名所図会』には、今も木場にある洲崎弁天の目の前に海岸が描かれている。
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(国立国会図書館所蔵)
広重の『江戸名所百景』「元八幡」の絵では、八幡社から松林が続き、その先に海が描かれている。元八幡は、南砂町駅から北方にあり、今では境内の松林にかつて海が近かったことを思う位である。
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(国立国会図書館所蔵)
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西葛西には、葛西堤防の跡が東西線高架下に残っている。この葛西地区は、かつては荒磯が広がり、明治以降から海苔づくりが盛んだった。江戸川を越えた先は浦安と行徳で、そこは以前は漁師町であった。
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子どもの頃に小岩に住んでいたが、朝には豆腐売りのラッパの音がし、自転車に乗った少年がアサリを売りに来ていた。行徳の中学校で教えていた父が、その少年に出くわしたら、教え子だったよ、とうれしそうに話していた。
今の海岸線は、埋め立てられて、海岸に近かった東西線や永代通りからはるか数キロメートル南に動いている。