憎めない営業マンの呆れた珍事
同期入社のTさんから突然電話があった。電話の口調は悪い病気にでもなったのか、と思うくらいに落ち込んでいて元気がない。そうかと思ったら、いきなり語気が強くなり情緒不安定な状態であった。
Tさんは東北出身でもありながら、現在は九州地方の営業所長を任されている。家族揃って一昨年から住み慣れた東北を離れ、九州での生活を満喫している、はずであった。
そんなTさんの電話の内容はこうだ。
「実は先日Web講演会をやったのだが、また同じような失敗をしてしまった。今から大学の先生に謝罪するんだよね、どう説明したら良いか分からない」
ははーん、だから本社の僕にも一緒に同席して欲しいんだな。しかも、その謝罪相手は僕の親しい大学の准教授。ここは仲の良い同期として力を貸してやろう、と瞬時に思った。でも念の為、謝罪しなければならない理由を聞いてみることにした。
我々の業界(製薬業界)は定期的に薬剤の有効性や安全性に関する勉強会を開催している。コロナ禍になって以降はweb(ZOOM)を利用した完全リモートで開催することが殆どです。webを使った講演会は、講演する側も聴講する側も移動する必要もなくメリットが大きい。しかし、今回はその隙間にしっかり食い込んだ事故である。
Tさんの営業所は営業経費削減のため、ほぼ自前の運営だけでweb講演会を開催している。具体的には、プロのアナウンサーを依頼せず、自分の営業所の営業マン(MR)起用して賄っている。しかも、たまたま彼の営業所には女性社員が不在で、アナウンス業務全般も男性のみで運用している。非常に硬派的なイメージが強い講演会だと誰もが感じていたと言う。
アナウンス業務を任されていたのは、関東から単身赴任として転勤してきた40歳のベテラン社員のS氏。勤務態度も真面目で派手な印象は全くないが、学生時代アメフトをやっていた事もあり体格は人一倍大きい。
ことの発端は2月末である。この日は初めてアナウンスの役割を任されたS氏は、いつもと違ってかなり緊張していたと言う。講演会開催前のランスルーの際も、何度も発声練習をしたり原稿に間違いがないか入念にチェックしていた。
無事に会が始まり、練習通りにアナウンスを読み上げてた。初めてのアナウンスとは思えないくらい美声で、同僚の話では安心感さえ漂っていたと言う。回も終盤に差し掛かり、最後の質疑応答の時間。終焉まであと僅かになり、いよいよ司会によるクロージングの挨拶。「無事に終わった!」誰もがそう安堵した瞬間。
「........」閉会のアナウンスが聞こえない。
会は完全リモートで開催しているので、運営スタッフも全員自宅から参加している。勿論、アナウンスのS氏も単身赴任の自宅から参加している。所長のTさんは何度もS氏の携帯に電話しているが繋がらない。司会者や演者の医師もどうして良いか分からなくて、画面上でキョロキョロしはじめていた。
「あ、こ、これで本日の講演会を終わります、司会の先生、演者の先生、本日は誠にありがとうございました」と、Tさんが咄嗟に挨拶して会を強引に閉めた。
15分後にS氏から電話があった。
「所長、す、すみません」
「どうしたんだよ、心配したよ」とTさん、
「す、すみません、寝てました...」
完全リモート開催のweb講演会の落とし穴。寝落ち...
優しいTさんはそれでも目を瞑ったらしく、
「誰でも失敗はある、昼間頑張って営業してる証拠だから気にしなくて良い」そう回答したと言う。
問題は3月に入ってからも起きた。同じく完全フルリモートのweb講演会。司会も同じ医師で開催し、前回の汚名挽回を期待してS氏にもう一度アナウンスをお願いしたと言う。
今回も順調にスタートして最後の司会の挨拶まで進行した。しかし、問題はまたしてもこのタイミングで起きた。前回と違いS氏の最後のアナウンスは順調にはじまり、誰もが安堵した瞬間。
S氏の背景でチャルメラの大音量。S氏は講演会の最中にお腹が空いたので近所の屋台に来ていたのだと言う。パソコンかiPadを持参していたのだろう。
こんな事で激怒する医師では無いが、何から話すべきなのか思案してしまいます。温厚な同期のTさんを情緒不安定にさせた程の珍事件。コロナ禍の裏側では「寝落ち」や「チャルメラ」と言う落とし穴が待っている。そう考えると、なかなか現代社会は面白い。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画ができる。
夏目漱石「草枕」
Tさんの愚痴を聞いている間、僕の頭の中には「草枕」の一文が常に過ぎっていた。
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