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⑥マイ・シングルファザー ・ストーリー(3.11)

東日本大震災から見つけた「自身の価値」

児童扶養手当の拡充を求めた非日常から、日常に戻り仕事と生活に戻ってからも、「子ども手当か・児童手当か?」の論争の際に父子家庭支援団体として参加したり、出来る事を地道に行なっていました。

そんな最中、あの東日本大震災が発生したのです。

当時、私は某県庁のヘルプデスクで仕事をしており、通勤は高速バスを使って1時間かけて通勤をしていました。しかし震災により高速道路は通行止め、電車はストップ、ライフラインはラジオかインターネットのみという状態。帰りたくても帰れない状況になっていました。

しかし近所のレンタカー屋さんに頼み込んで車を借り、仙台へ10時間かけて帰宅しました。

当時は非常に寒い日で路面凍結により大渋滞出会った為に、いつもなら車で1時間半の距離がとてつもない渋滞のため、すぐに家に帰ることができませんでした。

そんな中、ラジオからは津波の報道、死者数の報道が流れてきます。
テレビは携帯で見れましたが、現実とは思えませんでした。

ラジオの放送も当時は、正確性にかけており情報では私の自宅も津波の被害にあっているような情報であった為、子ども達の生死が頭をよぎったのを覚えています。

何とか帰宅した自宅は崩壊はしていませんでしたし、津波も来ていませんでしたが、何もかもがひっくり返っている状況、そして子ども達の姿はありません。

避難先の学校にも行きましたがいない。
そんな中、近所のママ友と連絡がつき預かっていると連絡を貰いやっと安否がかくにんできたのとを覚えています。

あの時は本当に生きた心地がしませんでした。


それから数週間後、津波の被害にあった閖上に行き、現実を確認しようと思い向かいました。東京大空襲後の様子を見るかのような状況に言葉もありません。

そしてふと、自分に出来ることは何かないだろうか?という気持ちが強くわきおこってきたのです。

その時期は子ども達だけで留守番をさせる訳には行きませんでした。
精神状態的に興奮と不安を行ったり来たりしている状況でしたので一度会社を退職することにし、子ども達を守る事を選択しました。それが出来たのも働きながら生活保護を受給していたからこそ出来たことでありました。

数ヶ月、水やガス・水道、ガソリンの供給で苦労しましたが、ある程度、復旧してきた時改めて自分に何が出来るだろうかを自身に撮り続けました。

辿り着いた答えは「法改正」

・死別の父子家庭への遺族年金の拡充
・父子家庭への就労支援の拡充
・父子家庭への高騰技能訓練促進事業の拡充
・父子家庭への母子寡婦福祉資金貸付せいどの拡充
・特定給食困難者雇用開発助成金の拡充

以上の4点を3年後までに拡充させるというミッションを自らに課すことにしたのです。


しかし今回は活動期間を1年と定めました。理由は長期戦は1人では無理だったからです。

恐らく誰も信じられないかもしれませんが、当時の活動は新潟の代表と仙台在住の私の2名だけで政策提言の活動を実施しました。

戦略を書くと、くどくなるので簡易的に書きます
・全被災地の現状把握、地方議員と当事者からの聞き取り
・全国47都道府県で意見書を採択してもらう
・厚労省・復興相大臣への面会要望
・その他、地方都市からの意見書の採択
・厚生労働省事務方の方への面会要望
・当事者の方をメディアに出て頂いて、世論を動かす。

この時は公明党の党の協力がなけrば実現しなかったことだと振り返って思います。また他のNPO・NGOの団体も周り理解を求め、他の団体も提言してくださりました。

結果、3年後の2014年に全て改正は実現、また福祉6法の1つの名称が母子及び寡婦福祉法から「母子及び父子ならびに寡婦福祉法」へと改正されることになるのです。

この事は、日本国内の方々は皆が知らないことでしょう。

報道もされませんでした。しかし事実、たった2人のシングルファザー が力を合わせて、そして熱意が他の団体や公明党を動かし、法改正へと繋がった事実。

可能であれば、少しだけでも褒めてもらいたいなぁと思ってますw

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