難病だけど、「普通に」生きてる
こんにちは、えまです。
プロフィールの通りたまに病気の愚痴を吐きたくなるので、改めて経緯について書いてみようと思う。少し長くなりますのでのんびりどうぞ。
24歳、歩けなくなった秋
自宅の階段を降りる時、膝に小さな痛みが走る。
まあそういう時もあると思って過ごしていたら、だんだん痛みが強くなり、遂には階段を上り下りするどころか、歩くこともままならなくなった。
特に危機感はなかった。なんか調子悪いしとりあえず痛みを取ってほしいから病院行くか、程度だった。
5軒目の病院で原因が見えてきた頃には、新卒2年目の有給を4日分使い、検査に要した費用は3万を超えていた。
難病と言われて
「全身性エリテマトーデスっていう病気があってね」
世間がクリスマスに沸いているその日、何語かも分からない病名を出され、年明けに入院するよう告げられた。
私はその頃「難しい話はいいからとにかく痛みを取ってくれ」としか言わないクレーマーと化していた。
呆れた医師が関節痛に効く痛み止めを出してくれたおかげで、ころっと元気になり益々危機感がなくなっていた。
そんな中で入院と言われても、むしろ非日常に心沸き立つくらいの感覚。
実感が湧いてきたのは、入院日程が決まり病院から帰る道すがらだった。
良くないとは思いつつ、ついついスマホで病名を調べてしまったのだ。
「原因不明」「免疫系の異常」「完治は難しい」「国指定の難病」「長く付き合っていく病気」
聞いている話と違う。いや、正確にはそんなこと聞いていない。
最近の医者は優しくて慎重だから、診断がついていない段階でそこまでは言ってくれなかった。
黙る私に、「調べるのやめな、診断ついたら先生に聞けばいいよ」と諭す母。
こういう時の親は案外落ち着いている。
でも、今までの穏やかな生活を取り上げられるような想いに、私はそんな母に対して声を荒げた。
「だって難病なんだよ!?」
院内のスタバで買ったフラペチーノを啜りながら、助手席で泣いた。
人生初の入院
年を越す頃には、食欲不振や体力低下、倦怠感などの症状も出てきて、“年明けの入院”という医師の判断が正しかったことを悟った。
入院生活は10日間。
毎日いろんな検査予定があって、案外暇ではなかった。
とにかく全身あらゆるところを調べられ、エコー、CT、MRI、謎にガムを噛み続ける検査や、視力検査までさせられた。
採血は毎日で、内出血しやすい私の腕はアザだらけになった。
コロナ禍で面会制限があったが、看護師の目を盗んでスタバに逃げ母とコーヒーを飲んだ。
夜は同室のおばあちゃんがよくナースコールをするので毎晩目が覚めた。
病院食はまずくもないが、美味しくはなかった。
とは言え、手術もしていないし歩かなければ何ともないのでベッドの上ではピンピンしていた。
タブレットで好きな映画やドラマを見て、当時の月9だった『ミステリと言う勿れ』も見た。
その時のことは以前noteにも書いている。
「難病」だけど、「普通に」生きてる
無事に退院して、確定診断を受けた。
それは、これからの人生、ずっと「難病患者」として生きていくことを示していた。
治療が始まって仕事にも戻り、友達とも自由に会えるようになって、自分が病気であることを忘れる瞬間も出てきた頃、気づいた。
自分が元の生活に戻れているということは、自分のように難病を持って「普通に」生きている人がたくさんいるということだ。
たしかに、紫外線を避けるためにダイビングやスキーには行けないし、倦怠感が強くて仕事を休むことだってある。
感染には年中気をつけなければいけないし、体力のコントロールのために予定を詰められない。
でも、それは他人からは見えない。
健康な人々は「難病患者」を寝たきりや車椅子、入院患者だと思っているかもしれないし、かつては私もそうだった。
でも今、私は私なりに「普通の」生活を送っている。
偏見や先入観とは怖いものだ。その立場に立った途端、見える景色がこれほど変わるとは。
難病に限った話ではないのかもしれない。
たとえ見えなくても、人は皆事情を抱えているのかもしれない。
そう思うと、少し他人に優しくなれるんじゃないだろうか。
* * *
難病の話をしていたはずが、こんなところまで広がってしまった。
明日も私は指定難病受給者証を持って薬を飲み、病とともに電車に揺られて仕事をする。飲み会だって旅行だって一緒に行ってやるのだ。それが私の普通なのだから。