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新米の季節に、あの日見た水田のこと

(ヘッダーの写真は本文内で触れている場所ではありません)


 仙台市に、蒲生(がもう)という地区がある。

 蒲生前通交差点から仙台東部道路と交差する六丁の目東交差点までの一本道は、周囲を田んぼに囲まれている。
 私が仕事でその道を頻繁に通っていたのは、昨年のことである。
 梅雨入り直前の時期だった。田植えが終わったばかりの水田には青々とした苗が風にそよぎ、その間をシロサギと呼ばれるダイサギたちが長い首を伸ばしながらのんびりと歩いていた。
 ハンドルを握りながら、一瞬そこが政令指定都市の仙台市内であることを忘れそうになった。そのくらい、一本道の両側に広がる景色は静かで、のどかだった。


 けれど、そんなのどかな景色の中の一本道には、何本もの標識が設置されていた。

 津波の際の避難方向を示す標識だった。

 一箇所や二箇所ではない。同じ標識が、道路脇に何本もあった。
 写真ブームの昨今。美しい田園風景を観光資源とするならば、決して設置しないであろう数の標識。
 それは、決して悲劇を繰り返さないという、この地で生きる人達の決意の表れでもある気がした。



 仙台市宮城野区蒲生地区は、東日本大震災で甚大な被害を受けた地域の1つである。
 特に被害が大きかった北部地区は、仙台市の震災復興計画に基づき、居住が認められない「災害危険区域」に指定され、防災集団移転促進事業が進められた。
 私が仕事をしていたのは、水田が広がる地域から橋を越えた川沿いに広がる、北部地区だった。
 それは、3年前の春に北海道から宮城に移住し給排水設備の設計等に携わるようになった私にとって、初めての「津波で被災した場所」での仕事だった。



 昨年のことである。震災からは、12年と数ヶ月が経っていた。
 2階建に該当する高さの倉庫は、骨組みと一部の壁が残ったことで辛うじて原型をとどめていたものの、天井近くの窓まで割れていた。
 骨組みだけになった建物の内部は、すっかり片付けられていた。けれど、泥をかぶったところまで錆び付いた鉄骨は、その地を襲った津波の高さを今に伝えていた。そして、内部に残るいくつかの痕跡からは、かつてこの中で働いていた人がいたことが察せられた。

 広範囲にわたり津波の被害を受け犠牲者を出した蒲生北部地区ではあるが、震災後に新たな区画整理がなされ、道路の整備も完了していた。仙台市の換地処分(区画整理事業によって、震災前にその区画に土地を所有していた人に対して新しく土地を割り当てること。割り当てられる土地を「換地」と言う。)は、令和3年に完了していた。被災した建物は大半がすでに取り壊され、新たな工場や施設も建設され、復興が進んでいた。

 そんな中、何故その建物は、12年以上の時を経てもそのままだったのか。
 その理由は、問うまでもなかった。
 まして私には、それを問う資格もなければ、そんな勇気も無かった。


 その仕事は、自分の未熟さ、覚悟の無さを痛感させられる経験の連続だった。


 けれど、現場から会社へと戻る際に必ず通る蒲生前通交差点からの一本道、その両脇に広がる豊かな水田は、いつも美しかった。
 水田が広がる場所を襲った津波は、多数の犠牲者を出した北部ほど酷くは無かった。地元の人からは、そう聞いてはいた。しかし、被害を受けたことに変わりはない。被災した方の「うちは、まだ良いほうだから」は、その比較対象を思えばあまりにも重く悲しい言葉でもあった。
 けれど、12年の時を経て、かつて津波に襲われた地に青々とした苗が一面に広がっているその風景は、まぎれもなく、希望だった。



 昨今、首都圏や大都市以外の場所が大きな災害に襲われるたび、復興ではなく移住を、と発言する人が現れるようになった。
 どうせ消える過疎化の地域に多額の費用を投じるのは無駄。
 高齢者しかいない田舎に、復興など不要。
 そんな本音と地方蔑視を、「安全で暮らしやすい都市部への移住推進」、という一見好意的に見せかけた言葉で包んでの「提言」。
 かつて、東日本大震災の後には多くの批判を浴びて雲散霧消したそんな発言が、今年1月1日に発生した能登半島地震の後では、大手新聞社や雑誌にも掲載されるようになった。
 有名無名問わず発せられるそんな発言が、SNS上でのやり取りを超えて大手メディアでも取り上げられるということは、13年前と違い、今はそんな「提言」に賛同する人も少なからず存在するのだろう。
 それだけ、13年前よりも貧しい人が増えたということなのかもしれない。
 暮らしも、心も。


 住めなくなってしまった、あるいは住み続けるのが危険だと判断される根拠があるならば、そんな意見も、やむを得ないだろう。
 あるいは、住んでいた人自身の決断での移住ならば、それを咎める権利は誰にも無い。


 けれど、「移住」は、当事者でも無い赤の他人が、安易に口にして良い言葉なのだろうか。


 私は、そうは思わない。
 故郷を思う気持ちを、軽々しく否定されたくは無い。
 我が身に置き換えて、そう思う。


 感情論を抜きにして考えてみる。
 すべての人を都市部だけに集め、里山を放棄し、田畑を開墾することをやめたならば、この国の人々はその先、一体何を食べて生きるのだろうか。
 いや、食料だけの問題ではない。
 土地を、暮らしを、営みを、要らないなどと誰が何の権利をもって言えるのだろうか。


 農業も、漁業も、林業も、「無くしていい仕事」など何一つ無い。
 「無くして良い故郷」も、ひとつも無い。
 私は、そう思う。




 津波や暴風雨に襲われた土地を開墾し、また作物を育てられる土地としてくれた人達を、私は尊敬する。
 災害に襲われてもなお、故郷を愛し、その土地で暮らすことを選んだ人達を、尊敬する。

 米が無いと騒ぎ立てるネットニュースを眺めながら、ふと、あの日の水田の風景が心に浮かんだ。
 私は、ここで生きていく。







 ※ 仕事について昨年書いたnoteです



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