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引越し前夜の、ノーザンルビーと海老のミノ揚げ

 20年勤めた会社を退職すると決めたのは、パンデミックで生活様式が一変してから1年を迎えようとしていた頃のことだった。

 勤務先は、感染症対策に右往左往しつつも業績面では大きな影響を受けておらず、世間的には「安定した会社」とされるような企業だった。
 そして、その年に私は50歳を迎えようとしていた。
 当時の勤め先には早期退職制度があり、55歳で退職すると退職金の上乗せがあった。けれど、それより5年早い退職。
 退職金での悠々自適な老後を過ごすにはまだ早く、そして転職するには若いとは言い難い年齢。
 友人や仕事関係の仲間の多くが、応援よりも心配する声をかけてきた。仕事で繋がりのあった人の中には、退職後の仕事が決まっていないならば、うちの会社で働かないか、と言ってくれる人もいた。
 それでも、関連する職場ではなく、異業種に転職したいと思った。
 退職を決めた直接のきっかけはパンデミックだったけれど、定年退職後にその街から遠く離れた街に移住すること自体は、もうずいぶん前から決めていた。それが予定より早まって、転職を伴う移住に変わっただけのこと。
 移住先は、1,000キロ近く離れた街。
 国内だけれど、海を越えての移動だった。
 私は、それまでの暮らしを全部リセットして、人生をやり直そうと思っていた。

 
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  住んでいた家の売却手続きをすすめながら、家財道具の処分と引越しの手配をした。
 家の売却は、友人が不動産会社を経営していたこともあり、すんなりと話がまとまった。
 問題は、引っ越しだった。百万円を超えるような引っ越し費用の高額化がニュースにもなっていた時期。しかも、引っ越し先までは海を越える長距離移動である。いくらになるのか全く予測もつかなかった。
 悩んだ末、私は、職場の定期異動の際にいつもお世話になっていた引っ越し業者の担当の方に電話した。


「ええっ?!退職しちゃうんですか?だって、お住まいマイホームですよね??」

 その街に異動してから9年間お世話になっていた担当の女性の驚きが、電話の向こうから伝わってきた。

「ここに永住するつもりで中古で家も買ってたんですけど、いろいろあって。家も売ることにしたんですよね。」

 事情を話すと、担当さんはその日の夕方にすぐ見積に来てくれた。

「荷物は思いっきり処分して減らす予定なので、引っ越し費用、なんとか安くならないですかね?」
「そうですね・・・お荷物の量は、今見た感じだけでも、かなり少ないと思うんですけど・・・」
 担当さんは、電卓を叩く手を止めてちょっと悩んでから、
「トラック便で翌日受け取りですと、どうしてもお値段が高くなってしまって・・・」
 申し訳なさそうにそう言った後、
「コンテナ便は、日数がかかっちゃうので、お嫌ですよね・・・?」
と、こちらにたずねるというよりもむしろ呟くように言った。


「いや、全然!全っ然気にしないです!コンテナ便だと安くなるんですか?」

やや食い気味に私がそうたずねると
「え?日数あいても大丈夫ですか?」
と驚きながら、
「コンテナ便にさせていただいて、積み込みから積み下ろしまでの日数を何日か、少し長めにあけさせていただければ、お安く出来ると思います!
上司に相談して、なんとか、ご予算の範囲で出来るように頑張ります!」

「ありがとうございますっ!日数、大丈夫です!なんなら一週間くらいあいても全然オッケーです!!」


 結果、積み込み・受け渡しともに平日で、積み込みから受け渡しまでは中6日あけるという条件でコンテナを手配してもらい、予算内の金額で引越しを引き受けてもらえることになった。
 その代わり、退職前の仕事や退職後の転居先の入居日との兼ね合いで、引っ越し荷物を運び出した後の数日間は、何も無い部屋で過ごすことになった。その時は、まぁなんとかなるだろう、と思っていた。

 
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  様々な手配と手続きが済んでからは、毎日、仕事から帰宅後に引っ越し荷物の荷造りと不用品の処分等。そして並行して転職活動に励んでいた。
 仕事は、通常勤務のままだった。転居先の入居手続き等のために10日ほど休暇を取得したものの、40日あった有給休暇は半分も消化させてもらえなかった。
 今思えば、よく倒れなかったと思う。
 就業規則どおりに退職を申し出ても正式には受理せず、退職希望日の一か月前ギリギリまでのらりくらりと「形だけの退職遺留」を続けることで、有休消化をさせずに働かせる。
 それが、その会社のやり方だった。
 パンデミックが始まってから赴任してきた支店長は、従業員の健康や職場の安全よりも、遠く離れた街にある本社から地方支店へ飲み会目的にやってくる役員への接待を最優先にするような人だった。社員には外食自体を控えろとまで言いながら、自身は接待を重ねる。その様子を諫める私は、彼にとって鬱陶しい部下だったのだろう。退職を告げた際には「残念ですね」と言われたが、言葉とは裏腹の嬉しそうな様子を隠そうともしていなかった。
 社内にも、別れを惜しんでくれる同僚はいたが、皆、家族を持つサラリーマン。理不尽な会社への怒りを表立って怒りを表せるはずもなかったし、私もそれが当然だと思った。
 退職を決めるまで、自分自身が一番大変だろうと思い悩んでいたのは、仕事の引継ぎだった。けれど、最後の勤務日を迎えるその日になっても、会社からは後任者を教えられることすらなかった。
 自分がいなくなった後で仕事を丸投げされるであろう人のことは、考えないようにした。引継ぎ無しに退職させると決めたのは会社であり、あの支店長なのだ。職場のことを悩む必要など無かったのだと自分自身に言い聞かせるように、私は自分の頭と身体を限界まで酷使する日々を過ごした。

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 引越しは、さすがプロ、という手際の良さで、あっという間に積み込みがおわった。
 山積みになっていた段ボールと大きな家電を運び出した後の部屋には、自分の車に積んで運べるだけの一組の布団と小さなテーブル、わずかな食器類だけが残った。
 引越し荷物の積み込みが全て終わった後は、これまでに味わったことの無いようなすがすがしい気持ちだった。
 達成感、とはこういうものかと思った。
 いらないものは、全部手放した。必要なものだけを自分自身で選んで、新生活の地に送り出した。それを全部、一人でやり遂げた。
 そう思うと、自信がわいてきた。

 

 けれど、日が暮れるにつれて、達成感や自信はゆるやかに薄れていった。

 
 引越し日程を決めた時には「食べるものはお弁当でも買ってくればいいや」と軽く考えていた。
 それなのに、実際にお弁当を買ってきて食べ始めると、気持ちがどんどん沈んでいくのが自分でも分かった。


 家財道具の無い部屋の床に座り、冷めたお弁当を食べている一人ぼっちの自分。
 たとえ一時的とはいえ、無職になる自分。
 家族も親族もいない街で新生活を送る、50歳目前の自分。


 家財道具がすべて運び出された後の一軒家はあまりにも広く寒々しく、不安と過去の嫌な思い出ばかりが込み上げてきた。スーパーで買ってきた、いつもより少し高めの豪華なお弁当を美味しいと感じられなかったのは、それが冷めていたせいばかりではなかったのだと今なら分かる。体の疲れよりも心の疲れが不安に拍車をかけていた。

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  そんな夜を2日ほど過ごした後。
 翌日はフェリーターミナルのある街まで車で300キロ超の移動という日の夕暮れ時。
 この街での最後の晩ごはん、どうしようかな。
 長距離運転を思えば、飲みに行くべきではないだろうと思った。
 けれど、何か、気持ちを前向きにしないと、眠れなくて明日の運転に差し障るのでは、とも思った。
 少し考えてから、私は、街に出た。

 


 向かったのは、街の中心部にある小さな和食料理店だった。


 旬の食材を使った本格和食が人気で、大衆居酒屋よりは少し贅沢だけれど、高級鮨店などに比べれば手頃なお値段。カウンターとお座敷を合わせても25席の小さな店内は、パンデミック前の週末はいつもほぼ満席。それでも平日ならばカウンター席に座れたので、パンデミック前の数年間は、数カ月に一度、その店のカウンターで一人で食事するのが自分にとってのご褒美になっていた。


 パンデミックでの休業要請期間はもう終了していた。お店は、どこも営業していた。
 けれど、街を歩いている人影はまばらだった。
 私がお店の戸を開けると、「いらっしゃいませ」と大将のいつもの声がした。
 他に、お客さんはいなかった。
 


 その店の大将は「職人」を絵にかいたようなもの静かな人で、お店が賑わっていた時もパンデミックで閑散とした後も、丁寧な仕事は全く変わらなかった。
 毎月変わる手書きのメニューに書かれた料理の品数も以前と変わらず、旬の魚や野菜を使った品々がその日も記されていた。
 私は、アスパラ焼きなどの旬の品をいくつかと、「ノーザンルビーと海老のミノ揚げ」を注文した。


 ノーザンルビーは、北海道のジャガイモの品種のひとつ。そのじゃがいもを千切りにして、蓑(ミノ)のように海老にまとわせ衣として揚げた料理が、そのお店の人気メニューのひとつ「ノーザンルビーと海老のミノ揚げ」だった。
 


 注文した時は、このお店とも、この料理ともお別れなんだ、としんみりしていた。
 パンデミック前に、今度はここで一緒にごはんを食べようねと言っていた友人達の顔が浮かんだ。
 非常事態宣言の期間はとっくに過ぎていたとはいえ、パンデミック初期に死者が出ていたその街には、人と気軽に会うことさえはばかられるような空気がまだ残っていた。
 きちんとお別れもお礼も言えないままの親しい友人や、馴染みの場所がいくつも浮かんで、鼻の奥がぎゅーっと締め付けられるような感じがした。



 でも、目の前に料理が出されると、しんみりする気持ちを嬉しさが吹き飛ばしてくれた。

 いつもと変わらない美しい盛り付け。
 その美しさを壊すのを申し訳なく思いつつ、そっと箸にとり、ひと口。
 美味しい。
 ふた口。ひたすら美味しい。
 プリプリの海老のまわりに、サクサクカリカリのジャガイモ。
 サクサクとぷりぷりの旨味が交互に口に満ちる。口の中がにぎやかになる食感が楽しく、そして海老もジャガイモもそれ自体がとても美味しい。口いっぱいに、幸せが広がった。これだよこれ、この味だよ!と私は心の中で叫んでいた。
 これまでに何度も食べて、その美味しさを知っているから注文したのに、食べながら美味しさに感激している自分がいた。

 

  そして、その美味しさが、これをまた食べられるように頑張ろう、という気持ちを呼び起こしてくれた。


 向こうでもちゃんと仕事して、自分で稼いだお金で美味しいものを食べて暮らそう。そして、この街にもこの店にもまた必ず来よう。
 こんな状況の中でも、自分のために用意された丁寧な仕事のお料理が、自分に元気をくれた。

 
 食事のあと、少し迷ったのだけれど、大将に料理のお礼と、明日でこの街を離れることを告げた。
 それまでほとんど話したことの無かった大将は、それでもここ数年の間に度々お店に足を運んでいた私のことを認識してくれていたようで、驚きながらも
「私が言うのも変かもしれませんが」
と前置きして


「こういうお店に一人でお食事に来られる方は、どんな街に行っても大丈夫です。ご活躍出来ますよ。」


と、静かな口調で、でも、力強く言ってくれた。


 嬉しかった。
 これまでの自分を肯定してもらえた気がした。

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 美味しいものと嬉しい言葉に満たされて、ぐっすり眠った翌朝、私はその街を離れた。

 あれから、もうすぐ2年。

 新しい街での暮らしをスタートさせた私は、今も仕事をしながら、美味しく食べて元気に暮らしている。
 美味しいものがくれる元気と、丁寧な仕事の大切さを教えてくれたあの店を再訪することはまだ出来ずにいるけれど、またいつか、訪れたいと思っている。
 今度は、一人じゃなく、大切な人とともに。





 


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