今日は何を書こうかな
今日は何を書こうかな、とタイトルに書いて、そういえばタイトルを考えるのがとても苦しかったなと思い出した。
その話もまたおいおいしていけたらと思う。
さて、今日は何を書こうかな。
そうそう、昨日とても久しぶりにブログを再開して、その場所はずっと良いなと思っていたNOTEで、二つ、簡単な記事を投稿したんだけど、その投稿に「スキ」が20ついたのを見た時の体内に入ってきた感覚感情について話そう。
その前に、私が身体と感覚感情をどうとらえているかの話を先にしよう。
私は身体と感覚感情を別々にとらえている。
「”悲しい”という気持ちが体内に入ってきたのを感じた。」と表現する。
日常生活の何気ない会話では、「悲しい~!」と表現するが、
今、心身のどこがどんなふうになっているか?を観察してそれを言語化する時は「”悲しい”という気持ちが体内に入ってきたのを感じた。」と表現する。
これを書いている今も、心身のどこがどんなふうになっているか?を感じて、認知している。
今は「こんなことを書いて変な奴だと思われて攻撃されないだろうか?」というエゴの声が聞こえていて、肩に力が入ってかたくなり、痛みがあるのを感じている。
「こういうことを言うのは悪いことなんじゃないか?」という罪悪感、「こういうことを言うのは恥ずかしいことなんじゃないか?」という羞恥心、「こういうことを言うと攻撃されるんじゃないか?」恐怖心が体内に入ってきているのも感じる。
今、椅子に座ってこれを書いているのだが、組んでいた足をほどいて、足を少し開き気味にして椅子に座りなおした。
こういう時、罪悪感やそれから嬉しい・楽しいという気持ちが体内に入ってきた時も、私は股間が緩まり、じんわりと温かくなるようなイメージをする。
すると、「悲しい」も「怖い」も「楽しい」も「嬉しい」も、すっと体内に入ってこれる。
そうやってすっと入ってきた感覚感情を私はそのまま感じる。
「悲しい」が入ってきた時の身体の感覚を感じる。
シクシク、チクチク、ジンジン、ヒリヒリ、ジュクジュク、ピリピリ、ズキズキ等、様々な感覚を感じる。
どんな感覚もただそのまま感じる。
そしてそれをノートにペンや鉛筆で書く時もある。
私はジュリアキャメロンが考案し推奨しているモーニングページを毎朝書いているのだが、書き始めは大抵、その時の心身の感覚感情だ。
この他にも、高落伸さん主宰のファミリコンステレーションを学ぶ「座房塾」でも同じ事をしている。この場合は「書く」ではなく「喋る」だが、安心安全の場所で、信頼できる人に聞いていただいている。
こうした「心身の感覚感情を、書く・喋る・描く・歌う・演奏する・踊る・演じる・創る」という行為は想像以上に大きな効果をもたらすと、実際にやっていて感じる。
今の時点で一番大きく感じるのは、「自分で自分の責任をとれるようになる」つまり、「自分の中に湧いてくる感情を自分のハートで浄化して、昇華できるようになる。」ことだ。
私の世界は11年前と比べると格段に平穏で平和になった。
それも、この11年間、自分の中に湧き上がる感覚感情を感じて、正直に認めて、私の場合は言語化することを続けてきたからだと思っている。
私の日常は(非日常的だとされる時間や場所の時も)舞瞬毎瞬、この作業の連続だ。
私のやることはこれだけだ、と言ってもいいくらいに、これだけだ。
今日はこれで終わってよいように感じるので、これで終わる。
感情開放永田香織