介護と親子関係。①【介護】
父、倒れる。
数年前、独り暮らしの父(80代)が死にかけた。
私の家から1200km離れた実家でのこと。
当時は母が亡くなって5年過ぎた頃。
父がとても寂しそうで心配していたが、
その後、仲間を見つけ色々な趣味を楽しんでいた。
わたしと父は、毎日短いメールを送りあうのが日課になっていた。
ある夏の日、メールの返信がなかった。
父は几帳面なところがあり、メールには必ず返信をくれていた。
返信がないのは絶対おかしい。
そう言えば、2,3日前から少し元気がなかった。
思い当たる節がいくつか見つかる。
家電にも携帯にも出ない。
嫌な予感が的中。
そこからわたしと夫で手分けをして、実家の管轄の警察に連絡。
様子を見に行ってもらえるように頼んだが、
身内の立ち会いがないとダメだと言われる。
近くに見に行ってくれる親戚も知り合いもいない。
どうしたもんかと困ってしまった。
すると警察から折り返しの電話。
緊急性があると判断して、空いていた窓から入りましたとのこと。
そして、部屋で倒れていた父を発見し緊急搬送してくれた。
熱中症による高カリウム血症。
あと一歩で、助からなかっただろうと。
というか、ほんとは一歩超えてしまっていたようだ。
しかし、父が装着していた心臓ペースメーカーが、
高カリウム血症の死因になる不整脈を防ぎ、
心臓へ規則正しい電気信号を送って生かしてくれていたのだ。
なんという強運。
父はこのようにして、今までいくつもの病気から生還してきた。
父とわたしの親子関係。
わたしは父から可愛がられた記憶がほとんどない。
虐待があったわけではない。
しかし『この人は、わたしに興味がないんだな』と思う。
父にとっては母が一番だったのだと今は分かる。
子どもへの愛情表現の方法を知らない人なんだ。
でも、小さなわたしにとって、親戚の子には優しいのに、
わたしには冷たい父は甘えられる存在ではなかった。
父は、今でもわたしがどういう人間かをきっと知らない。
わたしも、父のことが詳しくは分からない。
母は強烈な共依存、過干渉で、子どもは自分の所有物という人。
わたしは30代でアダルトチルドレンを自覚し苦しんでいた。
しかし、母とわたしが電話で口論をすると、
時に父は母を怒らせるなとわたしを責めた。
冷静に見れば、母がどれだけ常軌を逸した人か分かりそうなものだが、
昔からわたしたちの喧嘩は見て見ぬふり、触らぬ神に祟りなし。
母が穏やかにいてくれることが父の幸せだった。
父にとって、母の敵であるわたしは自分の敵だという時期があったと思う。
そんな父は定年後にありがちな、妻に過干渉になる夫で、
母はいつもイライラしてわたしに愚痴をこぼしていたが、
母の闘病を最後まで支えたのは父だった。
なぜ?笑
数か月の入院の後、わたしたちは父を我が家に引き取って介護した。
時折ふと思った。
『わたしはなぜこの人の介護をしているんだろう?』と。
もちろん、養ってくれた。育ててくれた恩はある。
でも『父と娘』という関係性が成り立っていないのに、
わたしはなぜ父のお世話をしているんだろう。
不思議だった。
長期入院でヨレヨレになった父は一人で暮らすことが出来ない。
それは明らかだった。
実家の側の施設に入ったとしても、わたしたちが通えない。
そんな事情から、わたしと夫は父を引き取って介護するんだ!
わたしたちがやらねば、誰がやる!
というモードに、なぜか入っていた。なぜか燃えていた。
母が亡くなった後、以前よりは関係性が良くなった気はしていたが、
それは離れて暮らしていたからだったのかもしれない。
父は友だちが地元にいるので、以前からこちらへ来ることは嫌がったし、
このまま、死に目に会うことなく別れが来るのだろうなと、
なんとなく覚悟をしていたところがあった。
なのに今、父はわたしの家にいるのだ。
なんという運命のいたずら。
施設が決まる。
父と喧嘩したわけではなく、父が我が家を嫌がったわけでもなく、
まったく違う事情、そしてそれが父の希望を叶える手段でもあり、
父は半年後に施設に入ることになった。
わたしはその頃すでに限界が来ていたようだ。
施設入所が決まったことで張りつめていた糸が切れ、
頑張りがきかなくなってしまっていた。
父は自分でトイレに行って用を足すことは出来たが、
トイレまでの見守りは必要だった。
しかし、わたしにはもうその気力さえ残っていなくて、
まだ小学生であった息子に頼んで行ってもらっていた。
あと少しで、今の生活から解放される。
その思いで毎日を何とか乗り切っていた。